第三歌 風に散りゆく乙女の嘆き・3

 目を覚ましたとき、シトリューカは黒いテントの中で、汚れた敷布の上に寝転んでいた。頭と腹が、まだ鈍い痛みを訴えている。

 すぐに敵陣に囚われたのだと分かった。テントの中央には焚き火が燃えていて、山上の夜にささやかな暖を与えている。幕内に見張り番はいないが、手首を後ろに縛られ、太い腰縄が主柱に結わえつけられていて行動が制限されている。どうにか縄を切って逃げられないだろうかと考えを巡らせていたとき、あいにく幕が開いた。

「おやおや、姫様がお目覚めのようだ」

 あの黒い甲冑の将軍だと、声で分かった。

 将軍は自陣にあって甲冑を脱ぎ、素顔をさらしていた。シトリューカはその顔貌の恐ろしさに思わず息を呑んだ。左目の周りの皮膚が、どす黒い色に爛れていたからである。まるで人の皮を被った悪魔が、正体を隠しきれないで素顔を現わしかかっているかのようであった。

「いい目だな」

 シトリューカの胸によぎった嫌悪感を見透かして、将軍は鼻で笑った。

「私はギオーク帝国第一将軍、シャルル・ド=ヴァルカンである」

 やはり思った通りだった。シトリューカはヴァルカンの顔を睨みつけて、あえてギオーク語で言った。

「……あなたが卑怯な手を使って、私たちを待ち伏せしていたのね」

「卑怯?」

 ヴァルカンはわざとらしく肩を揺らした。

「私はただ、ゼアテマのエガーテ王に『サン=セヴァチェリンへ行くから通してほしい』と頼んだだけだ。望み通り、王はレアゼンを素通りさせてくださった」

「そんなこと……!」

「信じない、か?」

 ヴァルカンは琥珀色の瞳を細めながら顔を近づけてきた。

 ゼアテマが敵であるギオーク軍にみすみす領内を通過させるなど、同盟国たるサン=セヴァチェリンへの背信行為だ。シトリューカはヴァルカンの言葉を信じまいとした。あのエガーテ王が――これから自分の義父になる人が、そんなことをするはずがない。しかしヴァルカンの微笑は底知れぬ悪意に満ちて、容赦なくシトリューカの心を揺るがす。

「これから貴女を帝国に移送する。私自身は敵にかける情けなど持ち合わせていないが、皇帝陛下が一刻も早く貴女の顔が見たいと仰せだ。陛下の寛大なる御心みこころに感謝するがいい」

 ヴァルカンが背後に向けて右手を掲げると、三人の黒服の男が現れて手早くシトリューカを囲んだ。よく訓練された兵士たちだ。主柱から縄を解く間に、シトリューカが付け入る隙は全くなかった。

「荷馬車に乗せる。歩け」

 前後から剣を突きつけられ、シトリューカは従うしかなかった。

 これからのことを思うと、心細さで足が震えた。サン=セヴァチェリンはどうなってしまうのか。両親やまだ小さい弟のアルディミールは。帝国に着いたらどうなるのか。皇帝には何をされるのか。ヨナディオにはもう会えないのか。

 シトリューカは血の味がするほどに唇を噛んだ。そうでもしなければ悔しさのあまり泣き喚いてしまいそうだったからだ。こんな野蛮な男たちの前で泣いて、またお姫様だと嘲られたくはなかった。

 テントの外は身を切る寒さであった。背後はすぐ崖で、その下にはベーテルウォールの暗い森が拡がっている。震える吐息は、夜に溶けずに沈む。シトリューカは欠けた月から目を背けた。救いを求めてしまう弱さを、いま自分に認めたくない。――でも。

 指し示された荷馬車は、到底王女たるシトリューカにふさわしいものではなかった。ほろの中には虚ろな目をした傷病兵が五人ほどいて、うち二人からはすでに死臭が漂い始めていた。先の戦で、シトリューカの軍と戦って傷ついた兵だろう。捕虜になった敵将の王女を睨むでもなく、また女だと好奇の目を向けるでもない、ただただ開いているだけの目であった。

「さっさと乗れ」

 兵士に背中を小突かれる。シトリューカが前のめりになったそのとき、割れたラッパの音色がギオーク陣中に鳴り響いた。

 兵士たちが慌てだした。早口すぎて異国人のシトリューカにはあまり聞き取れなかったが、耳は確かに「ゼアテマ」「レアゼン」という言葉を捉えた。

 ベーテルウォールの夜が突然の砂塵にけぶった。その向こうに、騎馬の群れが姿を現わす。先頭の白馬とその騎手は、ひときわ輝いて見えた。

「ヨナディオーッ!」

 混沌の中でも、シトリューカの声はしかと愛しい人に届いた。彼は馬上から剣を振るいながら瞬く間にギオーク兵を蹴散らし、まっしぐらに向かってくる。

「シトリューカァーッ!」

 応えるヨナディオの雄叫びも聞こえた。彼はシトリューカの姿を認めると、取り囲む兵士たちを素早く斬り伏せて馬から飛び降りた。

「なんてひどい仕打ちだ……。シトリー、すぐに縄を切ってあげるからね」

 また、ヨナディオに会えた。シトリューカは涙ぐみながら頷く。しかしヨナディオが太い縄を切り終わるより先に、ヴァルカンがテントから出てきた。

「触るな。皇帝陛下への貢ぎ物だ」

 ヴァルカンの剣が、ヨナディオの剣に絡みつく。

「シトリーは僕の愛する人だ。誰にも渡さない!」

「ならば、この私から奪い返してみせよ」

 ふたりの剣は、何度も激しくぶつかり合った。やはりヴァルカンは並々ならぬ剣の使い手である。ヨナディオはなんとか持ちこたえているが防戦一方だ。加勢しなくては。シトリューカはもがいたが、なかなか縄がほどけない。ヨナディオのためにできるのは、彼の勝利を願って祈ることくらいであった。

 だが、シトリューカの願いは、月神に届かなかった。

「虫唾が走る」ヴァルカンがヨナディオを押し返して吐き捨てた。「戦場に甘ったるい戯言など、不要!」

「ヨナディオ、危ない!」

 シトリューカは咄嗟に叫んだ。両手を縛る縄が、わずかに緩む。

 ヴァルカンが剣を両手で握った。ヨナディオは次に来る剣撃に備えて動く。しかし彼は剣ではなく、長い脚でヨナディオの腰を蹴りつけた。意表を突かれたヨナディオが体勢を崩すと、さらにその胸を掌で突き飛ばす。

 そのときから、シトリューカを流れ過ぎる時間が鈍く滞った。

 白い一閃とともに、ほとばしる鮮やかな赤。ヴァルカンの剣はヨナディオをあやまたず捉え、その腹を斬り裂いた。シトリューカが彼の名を叫んだとき、睫毛の先に重く実った涙の粒が転がり落ちる。

「ヨナディオ! ヨナディオ! 嫌! 嫌よ!」

「シトリー、僕は……」

 ヨナディオと視線が合った。白い旅装を染め上げる赤の拡がりは、シトリューカに悲劇を確信させた。それでもヨナディオは最後の力で踏み止まり、よろめきながらもヴァルカンへ向かって剣を繰り出した。

 愛しい人を救おうとするヨナディオの思いが、彼よりも数段手練てだれの敵へ届いた。ヴァルカンもまた鎧を着ていなかった。脇腹をヨナディオの剣に傷つけられたとき、将軍の不敵な表情が初めて憤怒の色に染まった。

「失せろ!」

 もはや足元のおぼつかない若者を、ヴァルカンは再び蹴りつけた。軍靴のかかとが傷口をえぐって濡れる。もはやすべての力を使い切ったヨナディオは声もなく、崖下の森へ吸い込まれるように落ちていく。

「ヨナディオ……! 嫌ァァァァァッ……!」

 見たものすべてを受け入れられず、シトリューカは堪えるべくもなく慟哭どうこくした。縄がほどけたが、もう遅すぎた。ただひとりの愛しい人には、もう二度と会えない。

 傷ついたヴァルカンも地に膝をついていた。ヨナディオの剣が落ちている。シトリューカはそれを夢中で拾い、刃先をヴァルカンの爛れた頬にあてがった。

 ――殺してやる。

 鋭い憎悪が沸き起こる。ヴァルカンの瞳が怖れに揺らいでいるのも見えなかった。「戦場の女神」が我を忘れて振り上げた剣は、しかしすんでのところで止められてしまった。

「……そこまでだ、姫様」

 赤い甲冑の大男――ザンチに、手首を掴まれたのだ。

 シトリューカが我に返ったとき、殺意は深い無力感によってかき消されていた。

「ああ……ヨナディオ……ヨナディオ……」

 シトリューカは何度も愛する人を呼んで泣いた。答えはどこからも返ることはなく、彼の名は冷えた夜の風に空しく散った。

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