第四歌 花の彩るいつわりの契り

第四歌 花の彩るいつわりの契り・1

 やあ、よく来たね。

 前回は、ヨナディオがシャルルに殺されたところまでだったね。前にも言ったように、物語には続きがある。あれでおしまいにしちゃあ、シトリューカが気の毒すぎるってもんだ。

 シトリューカの物語は続くんだよ。たとえヨナディオが生きてようが、死んでようがね。

 さあ、今夜の物語を始めよう。



   竪琴は故郷の調べを知らず


   愛した人は二度と戻らず


   あわれ乙女の明日を閉ざす


   花の彩るいつわりの契り



 鐘が鳴ると、赤毛の幼女がはなかごを携えて礼拝堂へ入ってきた。

 ギオーク帝国の王侯貴族の婚礼に、はなしょうじょは欠かせない。三十七歳にしてようやく正妻を娶る大将軍シャルル・ド=ヴァルカンを祝うために、ギオン皇帝自らが選び抜いた七歳の美少女である。

 その無垢なる微笑みとともに、花籠いっぱいに盛られた色とりどりの花びらを撒きながら、礼拝堂の中央に敷かれた銀の絨毯の上を歩く――それが司祭様から仰せつかった花少女の役目である。

「へいかのごめいれい」とやらで急に呼びつけられたから予行練習の時間はなかったが、いくら幼いとはいってもさして難しい役目ではなかったろう。事実、彼女は言いつけ通り、花嫁が歩く道を祝福の花で鮮やかに飾った。

 赤や青、黄色に紫。春でも寒冷な帝都では、花などろくに育たない。南方の従属国から土ごと運搬されてきた花々は、宝石にも等しい贅沢品だ。礼拝堂は異国から届いた春の芳香に満たされ、絨毯を挟んで列席している高貴な賓客たちも、あまりの豪華さに目を見張っている。いささか浪費が過ぎるほどの結婚式は、そのまま大将軍の寵愛おぼえめでたきを物語っていた。

 祭壇に最も近い場所を陣取っている皇帝が、自ら演出した結婚式の見事さに満足した様子で顎髭を撫でている。――あとは祭壇の前で花嫁を待っている花婿へ愛らしくご挨拶しさえすれば、小さな天使はお役目を全うできる。

 けれども黒い軍装の花婿を見上げたとき、花少女はその笑顔を凍りつかせた。晴れの日というのに、彼は笑うどころか青ざめて、冷えた黄金色の瞳で腰ほどの背丈もない幼女を見下ろしていた。しかもその顔半分は、赤黒い火傷の痕に覆われている。

 哀れな花少女は涙を堪えるのがやっとで、祭壇裏の扉の向こうへそそくさと逃げ込んでしまった。

 花少女に落ち度はない。花婿の顔色が悪いのは、先の戦で負った脇腹の傷の治りが意外に遅いためであり、笑顔がないのは、この結婚が彼の望みではなく、皇帝が強引に決めたものだったからである。

 花嫁が、ひとり扉の向こうから姿を現わした。

 先の戦で帝国が勝ち得たものは多い。金銀の鉱脈を多数有するゼアテマ王国の領土。山海の恵み豊かなるサン=セヴァチェリン王国に毎年大量の食糧を融通させる条約。そして、絶世の美女と名高い王女。

 花嫁の名はシトリューカ・サン=セヴァチェリン――人呼んで、「戦場の女神」。王女でありながら自ら戦場に立ち続けた若き智将でもある。

 好色な皇帝は、意外なことに彼女を自分の慰み物にしなかった。それよりもギオーク軍の最高位にある大将軍とつがわせれば、生まれてくる子はきっと未来のギオーク軍を担う戦の天才だろうと、単純で浅はかな期待を込めたのであった。

 世にも見事な花嫁衣装である。純白の絹布に金銀の刺繍をふんだんにあしらったドレスの裾が、絨毯に敷き詰められた花びらを退けながらゆっくりと進む。賓客たちは花嫁の顔を一目見ようと目を凝らした。ヴェールの陰から覗くのは形の良い顎と濃い紅で彩られた唇だけだったが、それでも花嫁の美しさは存分に窺い知れた。あちらこちらから嘆息が漏れる。皆の注目を一身に集めた花嫁は、たっぷり時間を使ってようやく花婿の隣に立った。

「ヴェールを」

 司祭が告げて、ついに新郎新婦が向かい合う。

 新郎ヴァルカン――もとい、シャルルが新婦シトリューカのヴェールをめくり上げたとき、シトリューカははしばみいろの瞳を潤ませてシャルルを睨み上げていた。

 司祭の長々しい口上は、シトリューカの耳には少しも入らない。彼女の頭の中は、目の前にいる男への憎しみでいっぱいだ。

 ――ヨナディオ。この日は、あなたと迎えるはずだったのに。

 シトリューカの愛したヨナディオはもういない。代わりに夫となるのは、あろうことか彼を殺した張本人なのである。戦に敗れた祖国と家族のため、ほかに選択肢はなかった。

 闇夜に愛する人の鮮血が糸を引いて飛ぶ光景が、シトリューカの脳裏に焼き付いて離れない。いまシャルルの青白い額に脂汗を浮かせているのは、ヨナディオが負わせた傷だ。

「シトリューカ・サン=セヴァチェリン、汝、夫へ生涯愛を捧げることを誓うか」

 先に妻の愛を確かめるのがこの国の作法らしい。サン=セヴァチェリンとは逆だ。

「はい」

 ギオークの神前で、シトリューカは平然と嘘をついた。彼女が信じるのはサン=セヴァチェリンの神、月神だけだ。剣で虐げた国々から搾取した花で婚礼を飾るような、悪趣味な神など敬うに値しない。

 シャルルもまた、あらわになったシトリューカの美貌に冷たい視線を注いでいた。

「シャルル・ド=ヴァルカン、汝、妻へ生涯愛を捧げることを誓うか」

「はい」

 こちらも形式的で心のこもらない返事だった。若く美しい正妻に、シャルルは少しも浮かれてはいない。

「神の御前で、誓いのくちづけをせよ」

 シャルルは両手でシトリューカの頬を覆った。

 白い手袋を隔ててさえも背筋が粟立つ。ヨナディオ以外の男に触れられるのは、こうもおぞましいものなのか。シャルルが背を曲げて顔を近づけてくる。シトリューカは固く目をつむった。

 しかしシャルルとシトリューカの唇は交わらなかった。実際は鼻と鼻がお互いを疎ましがるようにぶつかっただけだったが、口元は手で隠れていたから司祭や皇帝らには分からなかっただろう。

 これはシャルルからの明確な拒絶で、言うまでもなく無礼な行為であった。もっともシトリューカにとっては、唇を奪われなかった安堵のほうが大きい。

 シャルルが顔を離すとき、一瞬交わった視線が火花を散らした。

「ふたりに永久とわの恵みのあらんことを」

 司祭が新たな夫婦の誕生を宣言すると、シャルルが右手を差し出した。ただ皇帝の命令に従っているだけの事務的な仕草だ。シトリューカも嫌々ながらに手を重ねた。

 二人は外で待っている黒塗りの馬車に乗り込んだ。シトリューカはずっと窓の外を眺め、シャルルから顔を背けていた。花の残り香が煩わしい。

 やがて丘の上に小さな木造の家が見えてきた。中には誰もいない。あるのは酒や果物が載った食卓と、綺麗に整えられた大きなベッドだけ。

 ギオークの新婚夫妻は、こういう家で一夜を明かすのだとぎょしゃに聞かされた。誰にも邪魔をされることはない、何をしても構わないのだと。二人でこれからの人生に乾杯してもよいし、夜を待たずしてしとねに入ってもよいのだ。

「……忌々しい」

 シャルルが小さく呟いた。立ち竦むシトリューカを尻目に、軍服の上着を脱いで椅子に腰かける。ナイフと林檎をひとつ手に取り、手遊てすさびに皮を剥き始めた。

「姫は長旅でお疲れでしょう。早くベッドでお休みになるといい」

「まだ昼よ」

 シトリューカもヴェールを脱いで、すかさず言い返した。

「あなたこそ、先に休んだほうがいいのではないかしら? 傷が治らないわよ」

 もちろん互いを気遣っているわけではない。言葉にはたっぷり棘が含まれている。相手に無防備な姿を晒したくない。眠るのは、相手が先に眠ってからだ。

「この国では、妻は夫に従うものですよ」

「私の国では、必ずしもそうではないわ」

「貴女の国など、無いに等しい」

 屈辱的な言葉が、シトリューカの神経を逆撫でした。

「サン=セヴァチェリンは亡びていないわ。あなたがヨナディオに手傷を負わされて、軍を退くことになったからでしょう。もうお忘れになったの?」

 言うや否や、シトリューカの顔のすぐ傍を何かがかすめた。

 結い上げられた金髪がはらはらとこぼれ落ちる。振り返ると板壁にナイフが突き立っていた。

「貴女はご自分の立場が分かっていないようだ」

 シャルルの双眸もまた怒りに燃えていた。サン=セヴァチェリンを攻めきれなかったことは、彼にとっても大きな屈辱であったらしい。皇帝の望みを叶えることが、この男のすべてなのだ。

「貴女の国は、目下のところ陛下の御温情で生き永らえているに過ぎぬ。貴女の振る舞い次第では、私は御父上や弟君の首を持ち帰って貴女の足元へ並べることになるだろう」

「そうなる前に、私があなたを殺すわ」

 後ろ手でナイフを抜き、両手で握り直した。刃先は、夫となったばかりの男へ向いている。

「愚かな」

 シャルルも腰に帯びた剣を抜き、新妻へと向けた。

 型を崩した自己流の構え方は、あの夜に見たものと同じだ。それを見た瞬間、シトリューカは激情に突き動かされた。

 まるで無謀な挑戦であった。得物の長さが違いすぎるし、剣の腕自体シャルルのほうが数段上だ。シャルルは猛然と向かってくるシトリューカに素早く反応し、その手首を掴んで床へ突き倒した。冷たくて硬い床の上に、月光の色をした髪が拡がる。その耳元へ、剣が荒々しく突き立てられた。

「ああ、忌々しい!」

 シャルルは苦しげに息を吐いた。白いシャツの上に赤い染みが滲んでいる。いまの動きで傷口が開いたのだ。

「私に正妻など不要! 継嗣けいしなど不要! 戦場の女神など、不要! ゆめゆめ忘れるな、陛下の御命令がなければ、貴女はとうに死んでいるのだ!」

 喚き散らした後で、シャルルは剣を収めて上着を着直し、そのまま家を出て行ってしまった。

 剥きかけの林檎が床に転がっている。シトリューカは手を伸ばして、横たわったままそれを一口囓った。甘酸っぱい果汁が口中に広がり、美味しいと感じた後で涙が溢れ出した。

 ――そうね、私は生きている。ヨナディオはもういないのに。

 泣いている場合ではない。あの男と子を成して、祖国をこれ以上の侵略から守らねばならない。それが自分の務めなのだ。

 けれどもいまはまだ、起き上がる気力さえ湧かなかった。

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