第四歌 花の彩るいつわりの契り・2

 婚礼の日の後も、シトリューカとシャルルは形ばかりの夫婦であった。

 シトリューカはシャルルを憎み、シャルルは自分を憎む新妻を警戒して寝室をともにしようとはしなかった。もし同じベッドに招かれていたなら、シトリューカは本当に刃物を持ち込んだかもしれない。いくら祖国のためでも、あの卑劣で残忍な男に純潔を捧げる覚悟ができないでいる。何よりヨナディオの仇なのだ。

 シャルルに疎んじられているのはせめてもの救いであった。嫁入りしてからひと月、夫とは身体どころか言葉すらろくに交わしていない。大将軍たるシャルルは軍務のために毎日登城し、夜遅くまで帰らない。城に泊まって翌朝帰ってくることもある。あの醜く焼け爛れた顔を見ずにすむ日のほうが多かった。

 ヴァルカン邸での生活は、意外にも質素であった。ギオーク城に程近い屋敷は、サン=セヴリャチ城の四分の一ほどもなく、花が咲き誇る庭園も、宴を開く大広間もなかった。食事は硬いパンと、粘り気の強い芋料理ばかりでお世辞にも美味しいとは言えない。

 屋敷は二階建てで、一階には食堂や浴室、住み込みで働く十五人ほどの使用人たちの部屋があり、二階にはシャルルの寝室とひと続きになった書斎と、三人の側室とシトリューカに宛がわれた個室があるだけだ。シトリューカの毎日は、ほとんど狭い部屋の中で空しく過ぎていった。

 ひと月が経っても側室たちとの交流はない。せめて挨拶くらいはと思ったが、三人ともうら若き正妻を冷たい目で無視するのだ。ただ夜な夜な薄い壁の向こうから、甲高い喘ぎ声が聞こえてくるのには参った。

「あの方々はみな貴族のご令嬢で、旦那様のご寵愛を勝ち取るようにと、ご実家から強く言い聞かされていのです。だから自分が一番愛されているのだと、のときは聞こえよがしに声を張り上げるのですよ」

 メイドのレナンが教えてくれた。シトリューカより三つ年上の、噂好きな女性である。年の近い彼女がいてくれたことは大きな救いだった。屋敷の中で閉じこもりきりでは息が詰まってしまうし、レナンと話している間はヨナディオのことを思い出して気が塞がずにすむ。

「それじゃあ、みんな私のことが嫌いで当然ね」

「そうでしょうねえ」

 レナンはてきぱきと部屋に箒をかけながら、遠慮なく言う。一国の王女に対しては失礼な物言いかもしれないが、いまのシトリューカには彼女の態度が心地よかった。

「旦那様は、奥様など要らないとお考えです。けれども皇帝陛下が、大将軍には跡継ぎが必要だと仰せなので、仕方なく最初の御部屋様おへやさまをお迎えしたそうです……それでもお子様がお生まれにならないので、陛下が別の女性を連れていらして……その繰り返しで、いま三人の御部屋様がいらっしゃいます」

 なぜ子どもができないのだろう。十二のときに習った話では、男女が交わりを繰り返せばじきに女の腹へ子が宿るものだと聞いたのに。――下世話な想像を恥じたシトリューカに、レナンが言った。

「お子様など、できるはずがありません。御部屋様たちはみな、石女うまずめの薬をお召しなのですから」

 シトリューカには、すぐに言葉の意味が分からなかった。

「噂によると、魔道の者が調合した秘薬だそうで。石女の薬を昼のうちに飲んでおけば、その日の夜に交わっても子ができないのだそうですよ。旦那様は、どうしてもお子様を作りたくないようで」

 シャルルが指定した側室の部屋へ石女の薬を届けに行くのも、レナンたちメイドの仕事だという。「まあ、御部屋様が本当に薬をお召しになっているかは、存じ上げませんけれど」と付け足した。

「子どもを作りたくもないなら、なぜヴァルカンは愛していない人と交わるのかしら?」

 純粋な新妻の言葉に、レナンは目を丸くした。

「失礼ながら、奥様はもう少し、世の中のことをよくお勉強なさったほうがよろしいかと」

「どうやらそのようね」

 シトリューカは小首を傾げる。

「でも、こんなところに閉じ込められていては、何も学べませんね。少しくらい街に出してくれてもいいのに。毎日退屈で仕方ないわ」

 側室たちとは違い、シトリューカは一切の外出を禁じられている。屋敷の玄関と勝手口には屈強そうな番兵が立っている。帝都ギオザには、少なからず帝国の転覆を狙う反乱分子が身を潜めているようだが、それぞれの出身国はまちまちで大きな勢力にはなっていない。シャルルは、「戦場の女神」が彼らを団結させる旗印になるのを警戒しているようだ。

 哀れで美しい若妻のため息は、大いにレナンの同情を買った。

「お気の毒な奥様……。それでは私が、何か奥様の慰めになるものはないか探してみますよ」


* * *


 翌日の昼過ぎ、レナンはシトリューカの部屋に立派な竪琴を運んできた。

「旦那様の書斎に飾られているものでございます。皇帝陛下に頂戴した品なのだそうで」

 思わず目を見張るほど、優美な竪琴であった。弓なりに削り出されたブナ材の胴に細かな花模様の彫刻が施され、糸巻きの傍らで有翼の天女像が笑みを湛えている。埃や錆つきはなく、銀色の十九弦にも緩みはない。よく手入れされているのが分かる。

 シトリューカは驚いた。あの男に音楽や竪琴の美を解する心があるとは、とても信じられなかったからだ。

「ヴァルカンは、これを弾くの?」

「さあ? 私は五年前からここでお世話になっておりますが、旦那様がお弾きになっているのを聴いたことは一度もございませんね。皇帝陛下からの頂き物なので、大事になさっているだけかも」

 なるほど、皇帝陛下か。シャルルはギオン皇帝に心酔し、忠誠を誓っているらしい。

「よほど皇帝陛下が好きなのね」

 何気なく口にした言葉に、レナンが思わず吹き出した。

「どうかしたの?」

「いえ……奥様、私から聞いたと言わないでくださいね」

 レナンが漏らしたのは、大将軍シャルルの来歴であった。

 かつてシャルルは一介の男娼に過ぎなかった。それがギオン皇帝に寵愛されて軍に入り、将軍に引き立てられ、あれよあれよという間に大将軍の座を得たというのである。

「旦那様は、よく見るととてもお綺麗な顔をされているのですよ。でも陛下は、完璧な美人よりも少しくらい傷物なほうがお好みらしくて。だからあの火傷は、陛下に愛していただけるように旦那様がご自分で焼いたのだという噂です。本当かどうかは分かりませんけどね」

「まあ……」

 シトリューカは何と答えてよいのか分からなかった。

 自ら顔を焼くとは信じがたいが、シャルルは手段を選ばない男だ。皇帝の寵愛と大将軍の地位を手に入れるためなら、やりかねない気もした。

「さあどうぞ、お弾きになってください。後で私がこっそり元の場所へ戻しておきますから」

 シトリューカは竪琴を膝の上に抱えた。知っている竪琴とは形が違う。シトリューカやヨナディオが弾いていたのは、もっと横長で、船のような形をした楽器だ。試しにいくつか弦をはじいてみると、指先から優しい音色がこぼれた。

 ひとつひとつの音はやがて音階になり、たどたどしいながらに旋律が生まれ、そこへシトリューカの伸びやかな声が加わった。のどかなサン=セヴァチェリンの田園風景を歌った古い歌だ。レナンもうっとりと聞き入っている。

 懐かしい故郷の旋律は、シトリューカの眼裏まなうらに愛しい人の姿を呼び起こした。

 ヨナディオは本当に歌が上手だった。いま自分が弾いているよりもずっと複雑な伴奏を、さらりと弾きこなしてみせた。

 募る思いとともに、音程も高くなっていく。しかし気分が最高潮に達したそのとき、竪琴はシトリューカの思う音を奏でてはくれなかった。

「どうなさいました? 奥様」

「……ディエの音が鳴らないわ。どう弾くのかしら? ディルと」

 真ん中の弦を鳴らす。

「ドの音、の間」

 さっきより、少し高い音。

 レナンは困ったように首を傾げた。

「音楽には詳しくないのですが……ギオークの楽器にそのような音は、ないと思います」

 この国に、故郷の歌は存在し得ないのだ。霜が降りるような悲しみが、シトリューカの心を冷たく湿らせていく。

「そう。……ありがとう。もう結構よ」

「お気に召しませんでしたか?」

「いいえ、でもギオークの竪琴は難しくて、私にはとても弾けそうにないわ」

 すまなさそうに眉を寄せるレナンを気遣って、シトリューカは強いて笑みを作った。けれどもひとりになった後、シトリューカは枕に伏せって、声を殺して泣いた。

 いつまでこんな暮らしが続くのだろう。憎い男の屋敷で、一生狭い部屋に閉じ込められたままなのか。

 いまのシトリューカは、八方塞がりの闇の中にいた。

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