第六歌 くじけぬ者に光はともる・3
シャルルが遠征に出発した後、シトリューカは毎日夫の書斎へ立ち入った。屋敷から出るなとの言いつけは守っているが、書斎に入るなとは言われていない。
壁際に備え付けられた本棚の大半を、兵法書と大きな地図帳が占めている。こないだ弾いた竪琴も、中ほどの段の端に飾られていた。
さすがにギオーク軍の内部資料は目に触れるところには見当たらなかったが、ここにある地図帳だけでもリオラント大陸の地形は隅々まで頭に入れることができる。帝国の気まぐれな暗君がどこを狙おうとも、シャルルに無血の策を提案できる準備をしておきたい。自身は籠の鳥でも、献策は大陸全土に届けることができる。シトリューカの日常は、にわかに色づき始めた。
それでも、夜にひとりベッドに身体を沈めるときは、ヨナディオのことを思い出して眠れなくなることがしばしばあった。策を考えるのは昼間の
彼なしでは生きていけないとさえ思っていたのに、心臓は何事もなかったかのように脈打ち、呼吸は途絶えることがない。まして自ら死ぬのは恐ろしくてたまらない。そのことは、シトリューカの心を少なからず苛んでいた。あのときヨナディオは、自らの危険を顧みず助けに来てくれたのに。
月神の教えによると、人間は死んだ後に闇のひとかけらとなって夜へ降り注ぐのだという。けれども窓から見える夜空のどこにも、愛するヨナディオの気配を感じることはできなかった。
もう一度だけでいい、ヨナディオに会いたい。
乙女のたったひとつの願いは、決して叶うことがないはずであった。
* * *
シャルルが遠征に出てから、三日ほど経った昼下がりのことである。レナンが不審そうな顔をして、シトリューカの部屋へ訪れた。
「玄関先に、仕立屋のウェルケと名乗る男の客が来ているそうです。奥様の古いお知り合いだと言っているようですが」
「ウェルケ? 知らない名前だわ。どんな方?」
祖国を遠く離れたギオークの地に、知り合いなどいようはずもない。
「金髪で髭もじゃの、怪しい風体の男ですよ。言葉も妙な訛りだったし、訳の分からないことを言っていましたよ。『ギオザのお祭りでは、青い花火は上がりますか?』とかなんとか……」
その言葉に、シトリューカは思い当たる節があった。
――いつ見ても、青い花火は美しいものですね。
――ええ。でも、こんな戦争のためでなくて、お祭りか何かで見られればいいのに。
「知り合いのふりをして、高いドレスでも売りつけようっていう魂胆でしょう。追い返しておきます」
「待って」
慌ててレナンを止めた。
「思い出しました。子どもの頃、サン=セヴァチェリンで服を仕立ててくださった職人さんのお弟子さんが、そんなお名前だった気がします。そういえば、ギオークに引っ越すと言っていたわね。懐かしいわ。客間へ通してさしあげて」
口から出まかせを言った。レナンや警備兵が信用してくれるとは思えないが、シャルルに告げ口されたって構わなかった。そもそも、客を屋敷に入れるなとは言われていないのだ。
客間で迎えた男は、なるほどレナンの言うとおり金色の髭に覆われた、みすぼらしい風貌であった。けれどもその碧眼に見知った理知的な光を認めたとき、シトリューカは思わず声を上げそうになるのを耐えねばならなかった。
「何か御用があれば、ベルを鳴らしてお呼びください」
レナンはシトリューカと客をふたりきりにしてくれた。彼女が客間を出るやいなや、シトリューカは声を潜めて客人の手を握った。
「ミゼル……! ミゼルなのですね! よくぞ無事で……」
「シトリューカ様こそ……。その頬は、どうなさったのですか? もしや、ヴァルカンに乱暴をされているのでは……」
「あっ、いや、これは……なんでもないの」
シトリューカは笑って否定した。乱暴されていないとは言えないが、おそらくミゼルが想像しているものとは違う。
「ヴァルカンとは、ろくに顔も合わせません。あの人も私のことが大嫌いなのよ。結婚してからも、毎晩ひとりで寝ているわ」
下世話すぎる話だが、ミゼルを安心させたくてあえて一言付け加えた。事実、シトリューカの身がいまだ清いままであると知って、彼は髭に覆われた頬を安堵の息で緩めたのである。
ミゼルの話は謝罪から始まった。なぜあのとき帝国軍がベーテルウォールにいたのかを、シトリューカは初めて知った。エガーテ王に裏切られたと知るのはつらかったが、もとはと言えばシャルルの策略なのだ。ゼアテマの人々を憎む気持ちは少しも起こらなかった。ましてミゼルには何の咎もない。跪いて涙を落とす彼があまりに哀れで、シトリューカも膝をついて震える肩を抱いた。
「そんなにご自分を責めないで。私はあなただけでも生き延びてくれて、本当に嬉しいのですから……」
「……私だけでは、ないのです」
「え?」
ミゼルが身を離し、赤く泣き腫らした目をまっすぐ向けてきた。
「あなたのヨナディオ王子も、生きているのです」
それはほんの短い言葉だったのに、まるでシトリューカの理解を超えていた。
有り得ない。シトリューカはこの目で見たのだ。ヨナディオは助かりようがないほどの深手を負い、そのうえ崖から蹴落とされたのだ。思い出そうとすると心が凍りつくほどに恐ろしい光景であった。
どう考えても彼が生きているはずがないのだから、無駄な期待をして傷つきたくはない。それでもやはり、心はミゼルの言葉を信じたがっている。胸の中で相反する二つの思いが膨らみ、シトリューカから返事をする余裕を奪った。
ミゼルは話を続ける。最後の奴隷仕事の日に、荷馬車の上から聴いた竪琴の歌。その吟遊詩人の姿。
「私は確かにこの目で見て、この耳で聴いたのです。あれは間違いなく、ヨナディオ王子でした。どうしてもこのことをお知らせしたくて、今日ここへ参ったのです」
しかしミゼルの話は、残念ながらシトリューカにとってヨナディオの生存に確証を与えるほどではなかった。彼は荷馬車で通りがかっただけで、じっくり歌を聴いたわけでも、言葉を交わしたわけでもないのだ。ミゼルは主君が生きていればと望むあまりに、他人のそら似をヨナディオと信じ込んでしまったのではないかとも疑った。
「そう……。知らせてくれてありがとう」
「信じてはくださらないのですか、シトリューカ様」
「そういうわけではないけれど……」
その後は口を
けれども、いま置かれている立場を考えれば、それも難しい。いまだ純潔を保っているといえども、自分は大将軍ヴァルカンの妻である。外出さえ禁じられている状態では、そのヨナディオに似た吟遊詩人を見物しに行くことすら困難だ。
シトリューカの葛藤を見抜いたかのように、ミゼルは決然と言った。
「私が、あなたをお救いいたします」
「それは……どういう意味?」
シトリューカはミゼルの目に閃く危うさを見て取った。ミゼルも己の思い切った発言に戸惑ったようで、いくらか落ち着きを取り戻した後で付け加えた。
「あの吟遊詩人をもう一度探し出し、ヨナディオ王子であることを確かめます。そして、あなたとお引き合わせする方法を考えます」
「ありがとう、ミゼル。……でも、約束してください。決して無茶をしないこと。本当は、ここに私を訪ねてきてくださったことさえ、とても危険なのですから」
「どうかご心配なく。せっかく生き延びた命ですから、そう簡単に手放したくはありません」
帰り際にミゼルは笑顔を見せ、シトリューカを安心させた。ミゼルが奴隷生活を続けるうちに、自分の心とは正反対のことを言えるようになっていたとは知らなかったのだ。
それにしても、愛する人が生きているかもしれないというだけで、なんと世界が輝いて見えることだろう。まだ不確かな希望にすぎないし、後で人違いだったと分かるかもしれない。――だとしても。
ヨナディオは生きている!
心の中でそう唱えるとき、生きる力が湧いてくるのだ。
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