第六歌 くじけぬ者に光はともる・2

「シトリューカです。入りますよ」

 その晩シトリューカは、初めて夫の書斎をノックした。

 内側からの許可を待たずにドアを開けると、火傷を負った左目に片眼鏡を掛けたシャルルが、机の向こう側から怪訝な目を向けてきた。

「あなた、左目が悪いのですね。その火傷のせい?」

 シャルルの弱点をひとつ見つけた。

 机上を照らすにしては、ランプの位置は少しばかり遠すぎるようだ。手燭てしょくを持参した新妻のお陰で、手元は少しだけ明るくなったというのに、夫はそれを歓迎する様子はない。シトリューカは構わず傍まで寄っていき、机上に広げられた地図を照らす。

「それは遠征先の地図? 私に見せて」

「仕事の邪魔をしないでいただきたい」

「私も協力します。だってあなたの妻ですもの」

「数で勝てる相手だ。貴女の浅知恵など、不要」

「それならどうして、こんな夜更けまで悩んでいらっしゃるの?」

 手燭を地図の上にかざすと、シャルルは表情を強張らせて椅子から立った。もしかして、蝋燭の火が嫌いなのだろうか? シトリューカはすかさず椅子を奪う。

「姫、早くお部屋にお戻りなさい」

「シャルル、よくお考えになって」

 シトリューカは初めて夫の名前を呼んだ。

「このふた月、ギオークに来て分かったことがあります。この国は、その強大さに比べて意外に貧しいのだということ。大将軍のあなたでさえ、芋のスープばかり食べているのですもの。雨もあまり降りませんね。おそらくはこの冷たく乾いた気候のせいで、十分に作物が育たないのでしょう」

 不愉快げに眉をひそめるシャルルを尻目に、シトリューカは続ける。

「わが国サン=セヴァチェリンを亡ぼさないで撤退したのは、本当はあなたがヨナディオに深手を負わされたからではありませんね。サン=セヴァチェリンから食糧さえ奪えれば、それで十分だからでしょう?」

 確証はなかったが、そう的外れなことは言っていないだろう。征服への野心がなく、国内情勢も安定しているサン=セヴァチェリンを無理に亡ぼして帝国領に吸収するよりも、独立を保たせたまま、事実上の属国として食糧を融通させたほうが楽だ。シトリューカは、そのための人質なのだろう。

「食糧がなければ大軍を動かすだけの十分な兵糧ひょうろうも出せませんね。あなたがいま頭を悩ませているのは、数に頼らず少数で、効率的に勝つ方法。違います?」

 シャルルは険しい顔でシトリューカを睨んでいるものの、否定はしなかった。

「……あら、そういえば、私たちの結婚式は、ものすごく盛大でしたわね。暖かい国からここまであれだけの花を枯らさず運ぶのに、どれほど費用が嵩んだことでしょう? 結婚式を用意させたのは、ギオン皇帝陛下ご自身? だとしたら、陛下は……」

「それ以上は言うな」

「いいえ。失礼を承知で言わせていただきます」

 負けじとシトリューカはシャルルを睨み返した。

「ギオン皇帝陛下は、お世辞にも賢君とは言えません。この先も帝国の領土と陛下の治世を保っていくのは、非常に難しいでしょう」

 立腹して詰め寄ろうとするシャルルを、シトリューカは手燭で制した。やはり彼は火が嫌いらしく、びくりと身体を引いた。顔に火傷を負っているのだから無理もあるまい。二つ目の弱点だ。

「……ですから、私が協力してさしあげようというのです。たとえば……」

 数に任せて力押しで勝つのは楽だが、大軍を動かせば兵糧の消費も大きい。シトリューカは、戦地の地形を見て要所を探した。

「……こういうのは、どうかしら?」

 思いつくままに、地図上のある一点を指さす。シトリューカが提案するのは、ほとんど戦わずして勝てる方法である。シャルルは口を挟まずに聞いていたが、最後に「下らん」と口走った。

「全て貴女の推測に過ぎない。わが軍に根拠のない献策など、不要」

「試してみる価値はあると思いますわ。それでは、おやすみなさい」

 シトリューカは立ち上がって夫に背を向けた。自分の献策が採用されるだろうと確信して。

 なぜなら、大将軍シャルル・ド=ヴァルカンにとっては愚昧なるギオン皇帝の役に立つことがすべてだからである。これが彼の三つ目の弱点であった。

 シャルルは皇帝の治世を守るためならば、たとえ忌々しいシトリューカにさえ耳を貸す。そして作戦が首尾良く成功すれば、真の手柄はシャルルではなくシトリューカのものだ。皇帝やほかの将軍たちが誰も知らなくても、彼だけはそれを知っている。自ら考案したのではない作戦で勝っても、自分が皇帝の役に立ったことにはならない。

 シトリューカにはギオン皇帝に協力する気など毛頭ない。かといって、大陸一の権力者に逆らう力もない。ならばせめて、これから帝国が起こす戦で、傷つき倒れる人の数をできるだけ少なくしたかった。夫シャルルの立場を上手く利用すれば、それは不可能ではないはずであった。

 つまりシトリューカが考えついた「復讐」は、憎きシャルルからは生き甲斐を奪い、戦での犠牲を減らす一石二鳥の策だったのだが――これが思わぬ結果をもたらすことを、彼女はまだ知らなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る