第十二歌 罪の報いは宴のあとに・2

 それはシトリューカにとって懐かしい調べであった。ゼアテマに古くから伝わる民謡である。

 夢見るような前奏の後に、クロワは歌い始めた。幼い頃からよくふたりで一緒に歌った、思い出深い曲であった。

 シトリューカの心はクロワがはじく弦とともに震え、涙は幸福な記憶とともにとめどなく溢れ出した。いますぐ駆け寄って彼を抱きしめたいのに、身体は少しも動かなかった。ただ声を上げて泣かないように堪えるのがやっとであった。

 一曲目が終わると、皇帝に続いて大喝采が巻き起こった。

「……どういうことだ、シトリューカ」

 シャルルが声を潜めて尋ねてきた。彼にも、いま自分の目の前にいるのが誰なのか分かっているのだ。クロワの腹部を横断する大きな傷は、自分がつけたものだということも。

 シトリューカは何度も首を振った。「私にも分からない」と答えたかったが、感情が堰を切ってしまいそうで何も言えない。シャルルの顔を見るのが恐ろしかった。その美しい右半面にも火傷に覆われた左半面にも怒りは浮かんでいない。こちらを向いた彼の表情は、憂いとしか名付けられないものであった。

「見事だ、クロワよ! シトリューカ夫人が感極まって泣いておるぞ!」

 ヨナディオの顔を知らぬ皇帝が豪快に笑っている。クロワは礼すらせずに、皇帝を見つめているだけだ。不躾な態度であるが、彼が竪琴を弾いて歌う以外できないことはこの場の誰もが了承している。

「お主のために、よいものを持ってきたぞ。――吟詠酒ベトゥワンをこれへ」

 レナンがさっと立ち上がり、酒瓶から白い杯に注いでクロワへと差し出した。

「この吟詠酒ベトゥワンはわがギオーク皇室に古くから伝わる名酒である。詩人にも歌われるほど美味いから吟詠酒ベトゥワンという名なのだ。吟遊詩人のお前にぴったりの酒であろう? 麦とたくさんの果物と、蜂蜜を原料に長く熟成させたもので、その香りたるや……」

 皇帝が得意気に蘊蓄うんちくを語り出した。要するにとても稀少な酒で、宝石と変わらぬ値打ちがあるらしい。

「おや、妙だなあ」

 シトリューカの後ろで、料理長ゼペルがつぶやいた。

吟詠酒ベトゥワンの栓は力いっぱい引っ張らなきゃ開かないもんだが、レナンは簡単に抜いたよなあ」

「先に開けておいたのではないのか?」シャルルが振り向いて尋ねる。

「旦那様、あれは本来皇室の方のためのお酒ですよ。もしも飲む前に開いてたら、誰かが毒を入れた可能性を考えて捨てるものです。どうやら陛下はご存知ないようですが……」

「毒だと?」

 不吉な言葉がシトリューカの耳に飛び込んできた。

 誰かがクロワに毒を飲ませる気なのか。何のために?

 ――ディエナ……?

 シトリューカは自分より左側に座っているディエナを見た。彼女と目が合った瞬間に、気まずそうに視線を逸らされる。

 そんなはずはないと信じたいのに、シトリューカの胸騒ぎは止まらなかった。

 あの酒瓶は、ずっとディエナの部屋に置かれていた。部屋に入ったときの彼女の驚きよう、そしていましがたの態度。明らかに不審だ。

「さあ、心ゆくまで味わうがよいぞ!」

 クロワはレナンから杯を受け取ったが、なかなか動かない。

〈だめ! それを飲んではいけない! 毒が入っているかもしれないわ!〉

 シトリューカは涙声のまま、サン=セヴァチェリン語で叫んだ。

「ん、いまなんと言ったのだ? シトリューカ」

「いえ……『あなたにふさわしい美酒です』と。つい興奮して、故郷の言葉が出てしまいました」

 クロワがシトリューカを見つめる。隣のシャルルには、シトリューカの嘘がばれているだろう。

「ほれ、夫人もああ言っておる。飲め飲め、遠慮せずともよいのだぞ?」

 皇帝もだんだん怪しみ始めた。

 もしこのまま皇帝の機嫌を損ねれば、クロワに何らかの罰が下るかもしれない。かと言って「毒が入っている」などと言えば、罰されるのは酒瓶を預かっていた使用人たちだ。

「クロワ。陛下からの御流おながれであるぞ。ありがたく頂戴いたせ」

 戸惑うシトリューカを尻目に、シャルルが声を上げた。

 クロワとシャルルの視線がぶつかる。一見無表情に見えるふたりの間に、シトリューカにしか見えない因縁が渦巻いている。

 クロワ――ヨナディオは祖国を亡ぼし、自分を害したシャルルを憎んでいるに違いない。シャルルにとっても、クロワは自ら手に掛けた敵の怨霊である。いますぐあの世に送り返したいはずだ。

「なぜ飲まぬのだ。私からの酒が飲めぬと申すか? 無礼なやつめ」

「……まさか。単に下戸なのでしょう、陛下」

 それなのに、シャルルはなぜかクロワをかばうようなことを言い出した。

「下戸に美酒など、不要。……代わりに私が頂戴してもよろしいでしょうか?」

「おお、シャルル! もちろんよいとも。お前こそ吟詠酒ベトゥワンにふさわしい!」

 どうして。

 思いも寄らぬシャルルの言動は、シトリューカをひどく動揺させた。

 毒が入っているかもしれない酒を、シャルルはなぜ自ら進んで飲もうというのか。そうまでして皇帝のご機嫌を取りたいのか。

 シトリューカは無意識のうちにシャルルの袖を掴もうとしていた。シャルルに毒をあおってほしいとは思っていなかった。初めはあんなに憎んでいたのに。殺そうとさえしたのに。

 けれどもシャルルの腕はシトリューカの手を逃れた。そして、意図的にそうしたのか、ほんの弾みかは分からないが、彼の掌がわずかにシトリューカの掌に触れた。軍装の手袋に隔てられたシャルルの体温は伝わることがない。

 シトリューカはシャルルの後ろ姿をただ見つめていた。つかつかとクロワのもとへ歩み寄り、その手から杯を奪う。そして皇帝のほうへ向き直ると、一気に飲み干した。

 盗み見たディエナの顔は完全に青ざめている。やはり、彼女が何かを入れたのだ。

「大変美味しゅうございました、陛下」

 シャルルは赤い唇を舐めて、艶然と微笑んだ。苦しむような様子はない。大丈夫――だったのか。毒というのは、杞憂きゆうだったのか。

「うむうむ、相変わらずいやつよなあ。……そうだシャルルよ、クロワと一緒に一曲歌うがよい。竪琴は用意してあるか?」

 シトリューカは目を見張った。使用人たちもざわついている。シャルルが、竪琴を弾いて歌うのか?

「お許しください、陛下。私はもう長年にわたって竪琴に触れておりません。きっとお聴き苦しゅうございます」

「案ずるな。お前の歌が下手になるわけがない」

 シャルルは苦笑を浮かべて固辞しようとするが、皇帝はあくまでも強引であった。

「竪琴を、これへ」

 シャルルはレナンに命じた。彼には皇帝の性分が分かっている。興が乗れば竪琴を弾けと言い出して聞かないことを見越していたのだろう。だが声を重ねる相手が、まさかヨナディオだとは予測していなかったはずだ。

「クロワよ。曲はお前に任せよう」

 シャルルは竪琴を抱えて、皇帝の隣に腰かけた。

「歌詞はギオーク語でなくてもよい。気遣いは不要だ」

 再びクロワとシャルルが目を合わせた。皆しんと静まり返り、さっきとは別の緊張感が漂う。

 ややあって、クロワが弾き始めた。寂しげながらも温かな和音が、ゆっくりと連なる。



  月よ 月よ


  すべてを知りたもう月よ


  その清らかなる白光もて


  わが罪をすすぎたまえ



 それは、サン=セヴァチェリンにあまある月神賛歌のうちのひとつ、懺悔歌ざんげかであった。

 クロワが歌った後に、シャルルが同じ和音を竪琴で弾き、同じ歌を繰り返した。普段の低く無感情な声からは想像できないほど温かく、伸びやかで、そして悲しい。悲しく聞こえてしまうのは、シトリューカ自身のせいかもしれない。これほどまでに美しい歌声を持つ人が為した残酷な行いを、思い返さずにはいられなかった。

 歌詞はすべてサン=セヴァチェリンの古語である。簡単な言葉だから異国の人でも一度聴けば復唱できるが、意味までは分からないだろう。だがシャルルは何もかも理解しているかのように歌う。歌の意味はどうあれ、シトリューカの面前でヨナディオに声を合わせることは、彼にとって懺悔にほかならなかった。

 ――いや……それも私の願望なの?

 シトリューカは己の心を疑った。シャルルに悔い改めてほしいと願うのは、私が彼を許したいからなのだろうか? 自分でも分からなかった。分かりたくないのかもしれない。

 歌詞を変えながら、朴訥ぼくとつながらも真摯な歌は三番まで続いた。

 初めの二番まではクロワの後にシャルルが歌い、三番ではふたりの声が重なった。どちらがどちらの声か分からないほどに融け合うと、夜空の満月が涙の一粒になってシトリューカの足元へまろび落ちてきそうに思えた。シャルルは泣かない。クロワも泣かない。ただシトリューカだけが、張り裂けそうな胸を抱えて泣いている。

 歌は四番で終わりだ。いままでとは、少し節回しが違う。



  月よ 月よ


  すべてを知りたもう月よ


  われが死してもとこしえに輝き


  わがいもをみまもりたまえ



 最初と同じく、まずクロワが竪琴を弾いて歌った。だがその後、シャルルは竪琴を弾かず、歌も繰り返さなかった。

 みな固唾かたずを呑んで、ふたりの歌い手を見守っていた。やがてシャルルは首を振り、歌は終わりだと示した。シトリューカにだけは、その理由が分かる。

 ――ディエの音が、鳴らせないから。

 クロワはシトリューカへ、一瞬だけ視線を送った。シトリューカは深い慈愛の眼差しに貫かれ、そのときようやく己の間違いを悟った。

 ――私は許したいのではない。許されたいのだ、ヨナディオに。

 吟遊詩人は全員に背を向けて去って行く。

 誰も何も言わなかった。皇帝でさえ唖然とするばかりで、突然の幕切れを止めることができないでいる。シトリューカも同じであった。ヨナディオを呼び止める言葉は出ず、追いかける足も動かない。

 静寂を破ったのは、激しい咳の音であった。シャルルが喉元を押さえて苦しんでいる。

「シャルル!」

 皇帝とともに、シトリューカも叫んでいた。

「誰か早く、シャルルに水を持ってきて!」

 ディエナが悲鳴を上げた。

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