第七歌 みちびく先は光か闇か・2

 私は「戦場の女神」を許さない。

 ディエナ・サンジェリーには、あまりにも深すぎる傷がある。

 ボンサンジェリー公国の姫として生を受け、何不自由のない生活を送ってきた。春には庭園に色とりどりの花が咲くバエンニュラ城で、愛する家族とともにずっと幸せに暮らすはずであった。

 王という立場上厳格に振る舞うが本当は温かい人柄の父、しとやかながらも気高い母。そして、年の離れた美しい兄、イハール。

 いや、ディエナにも不自由はあった。イハールの妹として生まれてしまったことである。

 そろそろディエナにも婿を探さねばな、と笑う父王に、ディエナはいつもあらがった。

「私はどこにもお嫁になんかいかない。私には兄様さえいればいい。ずっと兄様と一緒に暮らす」

 これを聞いたイハールは、「困った子だな、ディエナは」と眉を下げて笑った。

 笑い事ではなかった。ディエナは本気だったのである。彼女が兄に対して抱いていたのは、幼い頃の無邪気で漠然とした親愛ではなかった。兄の綺麗な顔を見つめていると、胸が高鳴って身体が熱くなり、その唇に吸いつきたくてたまらなくなるのだ。

 得体の知れない衝動に、ディエナはわれながら悩まされていたが、一年前に閨での夫婦の営みについて教わったとき、ようやく腑に落ちたのだ。

 ――私は、兄様と子どもを作りたいのだわ。ほかの男となんて、絶対に嫌なのに……。

 さいわいイハールは独身であった。ボンサンジェリーの家臣たちは近隣国から妻を迎えようと躍起になっていたが、なかなかよい相手が見つからなかったらしい。

 なぜ私はイハール兄様の妹なのだろうと、ディエナはずっと苦しんでいた。実の兄妹同士は夫婦にはなれない。血が近すぎて、が生まれるのだという。忌み子は心身に欠陥が多く、えてして成人前に死んでしまいやすいのだ。子を作るのはサンジェリー王家の血筋を絶やさぬためなのに、ほかの血筋の女を迎えねばならぬとは、人間とは不可解なものだ。

 ――夫婦になれないなら、どうかせめて一生このままで。私と兄様を引き離さないで。

 ディエナの願いは、たったそれだけであったのに。

 ある寒い冬の日に、イハールは軍隊を率いて城を出て行った。

「戦争になるの? 相手は?」

 ディエナの問いにイハールは答えてくれなかったが、兵士たちが「戦場の女神」がどうのと言っているのが聞こえた。だから兄はこれからサン=セヴァチェリンと戦うのだろうと思った。

 実際イハールが侵攻したのはゼアテマで、「戦場の女神」ことシトリューカは同盟国としてゼアテマに力を貸しただけだが、父と兄が政治や戦争の話をするとき、いつもディエナは締め出されていた。だからいまボンサンジェリーがどの国と仲が悪いのか、何も知らなかったのである。知っていたのは、サン=セヴァチェリンには自分と同じ年頃のお姫様がいて、女なのに戦場に出るらしい、ということくらいだった。

「無事に帰ってくるわよね?」

「当たり前だ。甘えん坊のディエナを放っておくわけにはいかないからな」

 兄様は馬上からディエナの髪を撫でてくれた。

「行ってくるよ」

 だが兄の代わりに帰ってきたのは、怒濤のごとき敵の軍勢であった。

 息苦しさを感じて、ディエナは真夜中に目を覚ました。煙の臭いがする。夜だというのに明るいのは、誰かが灯りを消し忘れているせいだろうか。ひとり寝が恐くなって、ディエナは裸足のままで両親の寝室へ向かった。いつもは深夜でも近衛兵が守っているはずなのに、扉の前には誰もいない。鍵さえかかっていない。様子がおかしかった。

「父様、母様?」

 恐る恐る扉を開けたとき、煙の臭いを強烈な鉄錆の臭いが塗り替えた。足を踏み入れた先の絨毯が濡れてびちゃりと音を立てた。驚いて扉を開け放つと、血まみれの両親が互いに刃を握り合い、床の上に倒れているのが目に飛びこんできた。

「いやぁぁぁぁぁぁぁぁっ!」

 恐怖に胃がちぢみ上がり、ディエナは思わずその場に嘔吐した。

 眼に見えるもの全てが赤く明滅していた。何が起こっているのか分からない。現実が理解を超えている。焼き切れてしまいそうだ、頭も身体も、何もかもが。

 そのときディエナは初めて気づいた。燃えているのは、この城そのものだということに。

 逃げなくちゃ、と思うより早く身体は勝手に動いていた。一階へ降りる階段は炎に巻かれて通れそうもない。泣きながら両親の屍を踏み越えて、部屋の奥にある衣装棚へ。ディエナは棚の奥を目一杯押し込んだ。緊急避難用の隠し通路が開き、梯子はしごの下から冷たい風が吹き上げてくる。

 父が着ていた毛皮のベストを羽織り、爪先の感覚だけを頼りに漆黒の穴の中へと降りていく。湿った底を踏みしめたとき、鼠ががさがさと走り去る音を聞いた。

「父様……母様……」

 地下道のかび臭さと血と吐瀉物の臭いが鼻先にまとわりついて離れない。踏みしめるごとに、石床の冷たさが足裏を刺す。真っ暗で何も見えない。この世界にたったひとり取り残されたような気分だ。それでもディエナは壁を伝って懸命に歩いた。生き延びれば兄が助けてくれる、それだけを信じて。

 どれだけ歩いたのかは分からない。涙が枯れるほどに長い道のりだったことだけは確かだ。地下道はバエンニュラ城の西側に広がる森の枯井戸に続いていた。そこからディエナが這い出したとき、辺りはすっかり明るくなっていた。

「ディエナ、やっと会えた」

 あまりの疲れに、幻を見ているのかと思った。けれどもそこには、確かにイハールが待っていた。

「兄様! 兄様!」

 イハールはディエナを力強く抱き留めてくれた。ああ、兄がいるだけで、何と心強いのだろう。

「兄様、父様と母様が……」

「ああ、知っているよ。立派な最期だったろう」

 そのとき初めて兄の様子がおかしいと気づいたが、イハールは強い力でディエナを離そうとしなかった。

「何も恐くない。天国でなら、みんなずっと一緒にいられるよ」

 自分の背中に刃が突き立ち、肉を引き裂いていくのを、ディエナは冷静に知覚した。あまりの痛みに、呼吸が引きつる。

「イハー……ル……?」

 背中を斬られた妹は兄の足元へくずれおち、遠ざかる意識の中で最後の声を聞いた。

「許してくれ、お前を敵の慰み物にしたくはない。愛しているよ、ディエナ」

 兄が言う愛は、きっとディエナのそれとは違っていた。

 頬に温かい雨がぽつぽつと落ちた。いや、雨粒ではない。イハールが自ら首筋を斬ったのだ。

 ボンサンジェリーの神は、死者のために天国を作ってくださっている。兄様とずっと一緒なら、それも悪くないと思いながらディエナは瞼を閉じた。

 だが実際は、ディエナだけが近所に住む猟師夫妻に救われ、一命を取り留めてしまった。優しいイハールのためらいが仇となり、背中の傷は致命傷にならなかったのである。

 ――生き延びてしまった。私だけ。

 傷が癒えるのを待って、ディエナは猟師夫妻に別れも告げず、ボンサンジェリーを出た。

 姫は死んだことになっているはずで、祖国に留まるのは危険であった。人がたくさんいて、それでいて誰も自分の顔を知らないところへ行くべきだと思った。遠くへ旅立つ大きな荷馬車を見つけ、こっそり身を隠して運命を任せた。

 積荷はボンサンジェリーで取れた野菜であった。ディエナは泥がついたままの人参や、生の玉葱を囓ってどうにか飢えをしのいだ。飲み水も少しは失敬した。もしかしたら運び屋の男たちには気づかれていたのかもしれないが、彼らが優しく声を掛けてくれることはなかった。その代わり、敵国の兵にディエナを突き出したり、長旅の憂さを晴らすために乱暴を働いたりすることもなかった。ディエナはずっとひとりぼっちで、満載の積荷の陰に隠れていた。

 ひと月あまりにも及ぶ孤独な道中は、ディエナの憎しみを募らせた。

 ――私は絶対に許さない。私の人生をめちゃくちゃにした、「戦場の女神」を!

 城はイハールが出征した後に攻められた。だから敵は、「戦場の女神」だったに違いない――それはあまりにも短絡的で、大きな誤解だったが、訂正してくれる人は誰も傍にいなかった。

 辿り着いた先はギオークの帝都ギオザ。しかも、にっくきシトリューカがヴァルカン将軍に嫁入りしたという噂まで耳にした。ディエナには神のお導きとしか思えなかった。神は私に、シトリューカへの復讐を果たせと仰っているのだ。ディエナは迷わず、ヴァルカン邸を見つけてその勝手口を叩いていた。

「どうしてもここで働きたいんです。なんでもしますから!」

 姫として育てられて、家事や雑用なんて何ひとつ経験がないのに、ディエナはレナンの情に訴えかけて下女としてヴァルカン邸へ入り込むことができた。

 しかし、「神のお導き」は、それだけではなかったのである。

「ディエナ。昼のうちに、二階にこれを届けよ。奥から三番目の部屋だ」

 雇い主と初めてまともに顔を合わせたとき、ディエナは息が止まりそうになった。

 シャルル・ド=ヴァルカンは、驚くほど亡き兄イハールに生き写しだったのである。

「何だ」

「いえ……別に……」

 背丈はイハールよりも高いし、年も取っている。何より顔の左半分は火傷のせいで化け物のように醜い。――それでもなお、右から見る横顔はあまりにも似ている。黒く艶やかな髪や、すっと通った鼻筋や、紅を塗ったかのように赤い唇。よく響く低い声と、満月のような瞳の色まで同じであった。

 ――あの人は兄さんじゃない。似ているだけの別人。でも……。

 全身を駆け巡る不穏なときめきを、ディエナは抑えることができなかった。

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