私を嫌いなあなたが大好き
いつもより早い時間に目覚めた俺は、キッチンに立つと、空の弁当箱をみっつ出した。
安っぽい赤のプラスチックの弁当箱に、昨夜用意していたおかずを詰めていく。カラッと揚げたコロッケ、白だしの入った卵焼き、れんこんのきんぴら、海老とブロッコリーの炒め物。栄養バランスと彩りも完璧だ。米のあいだに海苔と塩昆布を敷いて海苔弁にする。
美味しい、と笑ってくれる誰かのために料理をするのが好きだった。水無瀬はそんな俺のことを、優しいと褒めてくれた。俺の弁当を心底美味そうに平らげる、あの顔が見られるなら俺はどんなことだってする。
「おっ、悠太。今日のお弁当美味しそうじゃない」
弁当を覗き込んできた寝起きの姉ちゃんに、「今日は姉ちゃんのぶんねえぞ」としっかり釘を刺しておく。姉ちゃんは「じゃあこれはひかりちゃんのぶんねー」と、赤い弁当箱を指差してにんまり笑う。
「ヨリ戻したの? よかったじゃなーい」
「……戻せてない」
「あら、そうなの? じゃあなんでこんな気合の入ったお弁当作ってるのよ」
俺は彩も鮮やかな弁当をじっと見つめながら、俺はポツリと答えた。
「……いくら嫌われてもいいから、あいつに優しくしてやろうと思ったんだよ」
「なーに? わけわかんないこと言っちゃって」
姉ちゃんは俺の背中をバシンと叩くと、「ま、せいぜいがんばってねー」とひらひら手を振って洗面所へと消えていった。
部室棟の一階は相変わらず日当たりが悪く、真昼間だというのに薄暗かった。しんと静まり返った廊下に、ペタペタという俺の足音だけが響いている。しばらくここには来ていなかったけれど、やっぱり少し埃っぽい。
一番奥の書道部部室の前まで来たところで、足を止めて中を覗き込んだ。記憶よりも散らかった教室の中で、畳の上にだらしなく寝そべった水無瀬が、ぼんやりと虚空を見つめている。昼休みが始まるなり姿を消したから探しに来たのだが、やっぱりここにいたのか。
ガラッと勢いよく扉を開けると、水無瀬は慌てたように跳ね起きた。さっと片手でスカートを直して、体裁を整えてから――俺の顔を見て、目を丸くする。
「ゆ……悠太」
水無瀬に名前を呼んでもらえたのは、久しぶりだ。俺は「よう」と短く答えると、上履きを脱いでズカズカと教室の中へと入っていった。
「ど……どうしたの?」
水無瀬はかなり動揺しているようで、そわそわと視線を泳がせて前髪を弄っている。彼女から少し距離を取って腰を下ろした俺は、「はい」と弁当の包みを差し出した。
「なに……これ」
「俺が作った弁当。おまえ、最近まともにメシ食ってねえだろ」
「そんな……もらえないよ」
戸惑いながらも拒絶の意を示す水無瀬に、俺は強引に弁当を押しつける。
「自分のこと好きな男が作った弁当なんて気持ち悪いだろうけど、我慢しろよ」
「そんな、気持ち悪くなんてない!」
「だったら、おとなしく食ってくれ。俺、ちゃんとメシ食わない人間が一番嫌いなんだよ。……おまえは、俺に嫌われた方がいいのかもしれないけど」
水無瀬は焦茶色の髪を揺らして、ぶんぶんと勢いよく首を振った。おずおずと包みを受け取って、中から弁当箱を取り出した。
ごくりと唾を飲み込んだ水無瀬が、赤い弁当箱の蓋を開ける。中身を見た瞬間、「わあ……」と呟いた水無瀬の顔が嬉しそうに綻んだ。俺は彼女のその表情を見るのが、何より好きだ。
「美味しそう……」
お行儀良く「いただきます」と手を合わせた水無瀬は、きれいに箸を持ってコロッケを口に運ぶ。今日のコロッケはカレー風味で、下味をしっかりつけておいたので、ソースがなくても美味いはずだ。
水無瀬は黙って、コロッケを食べている。早く笑った顔が見たい、と思ってじっと眺めていたのだが、アーモンド型の瞳にじわりと涙が滲んだ。
「み……水無瀬!?」
しまった、何か失敗しただろうか。やっぱり、好意を抱いている男が作った弁当なんて、食べたくなかったのだろうか。
俺が慌てふためいているうちに、水無瀬の目からはみるみる涙が溢れていき、白い頰にはらはらと流れていった。水無瀬はぐずぐずとしゃくりあげながら、今度は卵焼きをつまんで口に放り込む。
「おいしい……悠太のごはん、おいしいよぉ……」
「え? あ、そ……そりゃ、よかった」
そのまま水無瀬は、もぐもぐと一心不乱に弁当を食っていた。無表情で大豆バーを齧っていた姿からは想像できないくらい、いい食いっぷりだ。
すっかり弁当を平らげた水無瀬は、「ごちそうさまです……」と空の弁当箱に向かってぺこりと頭を下げた。未だ彼女の涙は止まることなく、彼女の頰を濡らしている。このままだと干からびてしまうんじゃないだろうか。
「……泣くなよ」
ポケットからハンカチを取り出して水無瀬に差し出す。しかし彼女は膝の上で拳をぎゅっと握りしめたまま、頑なに受け取ってはくれなかった。
「なんで、なんでこんなに優しくしてくれるの? い、いらないよ、そんなの……」
涙ながらに放たれた水無瀬の言葉が、俺の心臓をぐさりと刺す。やはり水無瀬は、俺に優しくされるのを望んではいないのだ。俺は彼女を安心させるように、なるべく冷たい口調で答える。
「……弁当はいつもの癖で作っただけで、別に深い意味はないから安心しろ」
「う、う、ふぐ」
「……おまえ、ちゃんと飯食って寝ろよ。肌ガッサガサだし、クマもひどいし、すげえやつれてるぞ」
「……む、無理だよお」
俺の言葉に、水無瀬は子どものようにしゃくりあげながら答えた。大きな目から溢れた涙と鼻水が、ポタポタと畳の上に落ちていく。
「ゆ、悠太がいないとおなかも空かないし、ひ、一人でごはん食べても、全然美味しくない!」
そう言って、水無瀬はようやく顔を上げてこちらを向いてくれた。
「……悠太のこと考えると胸が苦しくて眠れないのに、悠太のことばっかり考えちゃうし……辛くて顔も見たくないのに、やっぱり会えたら嬉しいし、こんな風に優しくされたら、ますます忘れられなくなっちゃうよ……」
水無瀬の言葉を聞きながら、俺はだんだんわけがわからなくなってきた。
一体こいつは、何を言っているんだろうか。俺の記憶が正しければ、俺は間違いなく水無瀬に振られたはずだ。この言い分だと、まるで水無瀬が俺のことを……。
「……おまえ、もしかして俺のこと好きなの?」
頭に浮かんだ疑惑をそのまま口に出すと、水無瀬は泣きながらもすごい剣幕でこちらを睨みつけてきた。
「大好きだよ! そんなの、最初から言ってるでしょ!」
予想外の返答に、俺はたじろぐ。
「だ、だって。俺は、おまえのことが……」
水無瀬が何より嫌悪しているのは、「異性から向けられる好意」だ。水無瀬に好意を抱いている俺のことなんて、もはや眼中にないのだと思っていた。
「……俺、おまえに振られたよな?」
「だって、だって! わ、私のこと好きな悠太となんて、絶対付き合えないよ!」
水無瀬はいやいやをするように首を振って、長い髪を振り乱しながら俺を責め立てる。
「悠太は、なんで、私のこと好きになっちゃったの? 好きにならなかったら、ずっとあのままでいられたのに。そうしたら……嫌われる心配、しなくて済むもん」
「……嫌われる心配?」
「そうだよ! 私とずっと一緒にいたら、悠太も絶対いつか私のこと嫌いになるよ。こんなんだと思ってなかったって、がっかりするよ。だって私、ズボラでめんどくさくて、見栄っ張りで、強引でわがままで、悠太みたいな素敵な人に好かれる価値のある女の子じゃない……」
水無瀬の言い分を、俺はぽかんと口を開けたまま呆然と聞いていた。
「悠太にいずれ嫌われるくらいなら、最初から嫌いでいてくれる方がずっといい……」
――俺に嫌われるのを望んでいたはずの水無瀬は、本当はずっと、俺に嫌われるのを恐れていたのか。
水無瀬は「うう」と唸って、ブレザーの袖でごしごしと目元を拭う。泣いているところ申し訳ないが、一言だけ言わせてくれ。
「……めんっっっどくせえ」
心の底から漏れた本音に、水無瀬は涙目のまま「ほら、やっぱり!」と喚く。本当にこの女は、めんどくささの煮凝りのような奴だ。こんなめんどくさい女と懲りずに付き合えるのは、どう考えても俺だけだ。
「嫌われるのが怖いから好かれたくないって? おまえ、バカだろ」
「だって、だって……」
「俺はおまえがズボラでめんどくさくて見栄っ張りで、強引でわがままなことなんてとっくに知ってる」
「うう……」
「でも、俺は。そういうところもひっくるめて、水無瀬ひかりが好きなんだよ。おまえがいくら自分を嫌いでも、俺はおまえのことが好きだ」
過去の自分が聞いたら鳥肌が立ちそうなくらい恥ずかしいセリフだけど、なりふり構ってなんていられない。水無瀬のことが好きだ。彼女にそれが伝わるまで、何回だって言ってやる。
俺は手を伸ばして、指先で水無瀬の頰を軽く拭ってやった。冷たくて柔らかな頰が、俺の指を跳ね返してくる。水無瀬は拒絶することなく、されるがままになっていた。
「……触られんの、嫌?」
「……悠太に触られるのは、全然嫌じゃないよ」
「俺、おまえのこと好きなのに?」
「だって私が、悠太のことが好きだから」
水無瀬の言葉に、俺は目眩がしそうなほどの喜びを感じる。俺が向ける好意を、彼女は受け入れてくれている。こんなにも幸せなことが、他にあるだろうか。
ゆっくりと水無瀬の頰をてのひらで包み込むと、水無瀬の手がその上から重ねられる。涙でぐしゃぐしゃの顔はお世辞にも美しいとは言えなかったけれど、それでも俺にとっては世界で一番可愛い。
「悠太。ひとつだけ、約束して……」
「……なに?」
「……私のこと、絶対嫌いにならないでね」
「ならねえよ」
今度の約束は、なにがなんでも絶対守ってやる。
俺がきっぱり答えると、水無瀬は再びポロポロと涙を溢す。顔を覗き込んで「ブッサイクな泣き顔」と笑うと、水無瀬は嬉しそうに「そんなこと言うの、悠太だけだよ!」と叫んで、勢いよく俺の胸に飛び込んできた。
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