君の方が可愛いよ

 今朝はどんよりとした曇り空で、昨日よりはやや気温が下がったようだ。天気予報のアプリを確認すると、昼から雨が降るらしい。

 半袖ではなく長袖のカッターシャツを選んで羽織る。ネクタイを締めようと、クローゼットに掛かったそれに手を伸ばしたところで――ぴたりと動きを止める。

 そこにあるのは女子の赤いネクタイだ。昨日押しつけられた、水無瀬ひかりのもの。ネクタイと格闘していた水無瀬の姿を思い出して、俺は苦々しい気持ちになった。

 よく考えれば、校則上は夏服にネクタイは絞めなくてもいいことになっている。俺はこれまでなんとなく締める派だったが、別に無理して着けることはないのだ。俺はネクタイを締めず、そのままクローゼットの扉を閉めた。


「悠太ぁー! あたしのワンピどこ!? もしかして洗濯した!?」


 下着姿のまま部屋に飛び込んできた姉を一瞥して、俺は深い溜息をつく。

 家にいても学校にいてもうるさい美女の相手をしなければならないなんて最悪だ。美人に振り回されたい願望がある男にとっては垂涎の状況だろうが、俺はもう少し平和に過ごしたい。


 朝食の後片付けをして、リビングにあるお掃除ロボットのスイッチを入れてから、俺はリュックを背負って玄関に向かった。スニーカーを履いていると、後ろからバタバタと慌ただしい足音が聞こえてくる。


「待って、悠太! あたしも出る!」


 玄関にやってきた姉ちゃんはふと、俺の首元に視線をやった。「あんた、ネクタイは?」と尋ねられて、俺はふいと目を逸らす。


「……今日は着けずに行く」

「ふぅん、そうなの。珍しいわね」


 こういうときの姉ちゃんは、謎の勘の良さを発揮することがある。水無瀬ひかりとの交際のことは、絶対に姉ちゃんにバレたくない。あれやこれやとネタにして揶揄われるのが目に見えているからだ。どうせすぐ別れることになるのだから、最後まで隠し通すのはそれほど難しくないだろう。

 姉ちゃんはなんとなく物言いたげな表情をしていたが、俺は「雨降るらしいから、傘持ってけよ」と言って、玄関の扉を開く。

 ……その瞬間、俺は今すぐ回れ右して家の中に戻りたくなった。


「あっ、悠太! おはよー!」


 焦げ茶色のセミロングを揺らした美少女は、ぶんぶんと俺に向かって手を振った。長袖のカッターシャツに白のベスト、首には青いネクタイがしっかりと締められている。


「み、水無瀬……なんでこんなとこに」

「校門で待たなくてもいいって言ったから、迎えに来たの! 一緒に学校行こ!」


 たしかに待たなくてもいいとは言ったけど、迎えに来いとは言ってない。いやそんなことより今は、水無瀬ひかりよりも厄介な女がここにいる。

 恐る恐る隣を見やると、姉ちゃんは目を大きく見開いて水無瀬を凝視していた。彼女の首元にあるネクタイと、何も締められていない俺の首元を交互にを見て、にやーっと意地の悪い笑みを浮かべる。

 ……ちなみに姉ちゃんは、俺の通う高校の卒業生だ。「恋人同士でネクタイを交換する」という妙な風習を知っているのかもしれない。


「へーっ、そういうことなの。ふーん」

「いや、姉ちゃん。これは」

「はじめまして、悠太の姉の由紀子です」


 姉ちゃんはすぐさま、よそいきの顔を取り繕って、水無瀬に挨拶をした。長い髪を耳にかける仕草も、腹が立つほど優雅だ。

 水無瀬はそこでようやく姉ちゃんの存在に気付いたらしく、はっとしたように口元を押さえた。さっと軽く前髪を整えてから、姉に負けないくらいに優雅な仕草で頭を下げる。


「はじめまして。悠太くんのクラスメイトの水無瀬ひかりです。先日から悠太くんとお付き合いさせていただいてます」


 姉ちゃんの前で余計なことを、と俺はチッと舌打ちをした。姉ちゃんははしゃいだ声で「あらあらあらやっぱりー!」と叫ぶと、俺の背中をバシンと叩く。


「イッテェ!」

「ちょっと悠太、やるじゃん! こんな上玉捕まえて! さすがあたしの弟!」

「いや、そういうんじゃねえから」

「あ、ひかりちゃんだっけ? 今は時間ないのが惜しいわ。またゆっくり遊びに来てねー」


 姉ちゃんはそう言うと、軽く水無瀬の肩を叩いて颯爽と歩いて行った。俺はヒリヒリと痛む背中をさすりながら、小さくなっていく後ろ姿を睨みつける。くそ、あいつは美女に擬態したゴリラだ。


「……私、ちゃんとご挨拶できてたかな?」


 前髪をちょいちょいと撫でながら、水無瀬がはにかむ。見た目は可憐そのものだが、もしかするとこいつも美少女に擬態したモンスターなのかもしれない。

 俺は小さく肩を竦めると、スタスタと足早に歩き出す。少し遅れて、水無瀬が小走りに追いついてきた。スピードを上げても、めげることなくついてくる。意外と足が速い。俺の方が疲れてきたので、渋々速度を落とした。


「お姉さん、悠太にちょっと似てたね」

「は? どこが。言われたことねえよ、そんなん」


 幼い頃から近所でも有名の美人だった姉と比較して、似ていると言われたことは一度もない。むしろ「お姉さんは綺麗なのに、弟さんは……」と含みのある言い方をされることがほとんどだ。地味な顔で悪かったな、と俺は常々思っていた。

 水無瀬はじーっと俺の横顔を見つめて、うんうんと一人頷いている。


「顔の造詣っていうか……雰囲気かな? それにしてもお姉さん、すっごく可愛い人だったね!」


 水無瀬の言葉に、俺は首を捻る。たしかに姉は客観的に見ても美人だが、「可愛い」という形容詞はそぐわない気がする。キツめの顔立ちもせいもあり、美人だがあまり一般の男子受けするタイプではないのだ。どちらかというと水無瀬の方が可愛い系である。


「いや、水無瀬の方が可愛いだろ」


 俺が言うと、水無瀬はぴたりと足を止めた。そのままいつまでたっても追いかけて来ないので、不思議に思って振り返る。

 見ると、水無瀬は真っ赤な顔でわなわなと身体を震わせ、その場に立ちすくんでいた。


「……え? なに、そのリアクション」

「悠太、い、今……私のこと、可愛いって言った!?」


 水無瀬はオロオロと髪を振り乱しながら、両手で頰を押さえる。俺の勘違いでなければ、なんだか照れているように……見える。

 いやいや、なんだよその反応。ちょっと「可愛い」って言われたぐらいで照れるタマかよ。あれだけ新庄が毎日歯の浮くような褒め言葉を並べても、眉ひとつ動かさず「ありがとう」と返すような女だ。「可愛い」なんて言葉、挨拶と同じぐらい浴びせられているだろうに。


「お、おまえなあ……可愛いなんて言われ慣れてるだろ」

「そ、そうだけど! まさか、悠太に言われるなんて思わなくて」


 あまりにも水無瀬が狼狽しているので、俺までつられて動揺してしまった。妙な勘違いをされるのは不本意だ。ここはしっかり訂正しておかなければ。


「いや、違う。今のは変な意図はなくて、客観的に見て、姉ちゃんは可愛いっていうより美人とか綺麗系だろって話で」

「あ、う、うん、そうだね」

「強いて言うなら、どっちかっていうと水無瀬の方が可愛い系に近いって意味」

「う、うん。なるほど」

「いや、ただ単に相対的な顔面の造形の良さを誉めただけだから。あくまでも一般論であって、俺個人が水無瀬のことを可愛いと思ってるとかそういうことではない」


 俺が早口でまくしたてると、水無瀬はほっとしたように表情を緩める。再び小走りで俺に追いついてきた。


「あ、あー、よかったあ。悠太、私のこと好きになっちゃったのかと思った」

「ならねえよ」

「うんうん、そうだよね! そのままずっと、私のこと好きにならずにいてね」


 そんなに何度も念押ししなくても、余計な心配である。俺がこの女を好きになることなど絶対にない。俺がこの世で一番苦手なものは、傍若無人な美女なのだから。


「ねえ悠太、今日は一緒にお昼ごはん食べようよ」

「嫌だ。俺、クラスの奴らと食うから」

「私、二人きりになれる場所知ってるんだー」

「全然聞いてねえな……」


 やっぱりこいつとは、話が噛み合ったためしがない。ぎゅっと腕を絡めてくる水無瀬を、俺は「暑い」と振り払った。

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