どうぞ残さず召し上がれ
一緒にお昼ごはんを食べようという水無瀬の提案に、俺は一応「嫌だ」と抵抗を試みたものの、やはり彼女の前では無駄だった。
いつも一緒に昼飯を食っているメンバーも「悠太の顔見ながらメシ食ったって別に美味くもなんともねーし」とあっさり俺を切り捨てた。
昼休みに水無瀬に連れて来られたのは、部室棟の端っこにある書道部の部室だった。一階の奥の教室は日当たりが悪くて薄暗く、ほとんど魔境のような場所である。
立て付けの悪い扉を開いて入った教室の中には、畳が敷かれていた。数年前に書道部の部員が全員卒業して廃部になったらしく、現在は書道の授業でたまに使われる程度らしい。
上履きを脱いで足を踏み入れると、とりあえず窓を開ける。やや黴臭くて埃っぽく、昼飯を食うのに向いている場所とは思えなかった。
どうして水無瀬がこの部室の鍵を持っているのか不思議だったが、「優等生でいると、いろんな特権があるんだよ」とにんまり笑って誤魔化されてしまった。特に深入りするつもりもないので、俺もそれ以上は突っ込まなかった。
「なあ、おれやっぱり邪魔じゃない?」
困惑顔でそう言ったのは、俺の友人である相川
こいつとは一年の頃からの付き合いであり、俺のそう広くはない交友関係の中で最も親しい男である。水無瀬と二人きりだなんて勘弁してくれ、と泣きついた俺に、無理やり連れて来られたのだ。
「ううん! 他の男の子だったら嫌だけど、相川くんなら全然大丈夫!」
俺が畳の上に腰を下ろすと、水無瀬はウキウキと俺の隣に座り込む。透は気を遣っているのか、俺たちから少し離れたところに座り込んだ。
「なんでおれなら大丈夫なの?」
透は購買で買ったパンの袋を破りながら、不思議そうに首を傾げる。水無瀬は相川をまっすぐ見つめたまま、猫のような目を三日月型に細めた。
「だって相川くん、私に微塵も興味ないでしょ? 私、私に興味がない人のことが好きなの!」
透は少し考え込む様子を見せた後、ちらりと俺の顔を見てから「あー、そういうことね」とコロッケパンにかじりつく。
そういえば水無瀬は、「うちのクラスで私に興味がないのは上牧くんと相川くんだけ」と言っていた。透には三ヶ月前から付き合い始めた彼女がおり、他の女に余所見をする隙なんてこれっぽっちもないくらい相思相愛だ。なるほどそういう意味では、相川も水無瀬の「好みのタイプ」なのかもしれない。
「それで上牧かー。あ、おれは彼女いるから勘弁してね。おれが水無瀬さんに言い寄られたら、さすがに彼女も嫉妬しちゃうかも」
「大丈夫! 私、恋人とか他に好きな人がいる男の子は絶対好きにならないことにしてるから! そのあたりは弁えてるから安心してね」
その気遣いの十分の一でもいいから、俺に対しても発揮してくれないだろうか。
俺が呆れた視線を向けていると、水無瀬は頰を押さえて「なーに、悠太? そんなに見られたら照れちゃうよ」とはにかんだ。俺はわざとらしく溜息をついて、水無瀬から視線を逸らす。
「待って! やっぱり見てて! その悠太のゴミを見るような目が好きなの!」
「どんどん悪化してるな、このドM」
「あっ、今のちょっとイイ……ね、もっかい言ってみて」
「喜ぶのわかってるのに言わねえよ……」
俺たちのやりとりを聞いていた透が、ケラケラと腹を抱えて笑い出す。
「いやー、悠太が水無瀬さんと付き合い始めたって聞いたから、どんなミスマッチかと思ったら。全然うまくやってるじゃん」
「でしょ?」
「どこがだよ!」
俺は透を睨みつけると、腕を絡めてくる水無瀬を無視して弁当箱を開く。
俺は毎朝、母さん(と、たまに姉ちゃん)のぶんまで弁当を作っている。今日のおかずは卵焼きと作り置きしていたきんぴら、ゆうべの残りの里芋の煮っ転がし、メインはアスパラの豚巻きだ。
「わあ、悠太のお弁当美味しそう!」
俺の弁当箱を覗き込んできた水無瀬が歓声をあげた。俺の弁当が美味いことは否定しない。特にこの里芋の煮っ転がしは、一日経って味が染みて抜群に美味いはずだ。
俺がこっそり得意げになっていると、水無瀬は小さな包みの中から細長い小袋をひとつ取り出した。いわゆる栄養補助食品……大豆バー、みたいなやつ。
「……ちょっと待て。水無瀬、昼それだけ?」
大豆バーの袋を剥いて齧りついた水無瀬に、思わず俺は口出ししていた。余計なお世話かもしれないが、育ち盛りの高校生の昼食としては栄養が不足しすぎている。
俺の脳裏に浮かんだのは、去年姉が「ダイエットする!」と大騒ぎしていた記憶だった。
大学受験のストレスで太ったらしい姉ちゃんは、栄養補助食品ばかりを食べていた。確かに体重は減ったようたが、肌荒れと空腹によるストレスが酷く、毎日俺に当たり散らしていた。
八つ当たりされるのにも辟易していていたが、俺は何より姉ちゃんが俺の作ったメシを食わないことに腹を立てていた。
半ば意地になった俺は、低カロリーかつ低糖質、高タンパクな献立を考え、姉の食生活を完璧に管理した。その結果姉ちゃんは無事に目標体重を達成し、ついでに母さんも三キロ痩せたと喜んでいた。
「うん。お昼、用意するの面倒だからこれだけ」
「弁当ねえの? コンビニは?」
「私、今一人暮らししてるの。夜もほぼカップラーメンとかコンビニのお弁当だから、なんだか飽きちゃって。もともとそんなに食に執着ないし、最近はほとんど食べてない」
水無瀬はあっけらかんと答えたが、俺は苦々しい気持ちになった。食事の重要性とは、生命活動に必要なエネルギーや栄養素を補うためだけではない。心の安寧を保つためにも、温かくて美味いメシを食うことが大切なのだ。別に凝った料理じゃなくてもいいから。
俺はしばらく考えたが、水無瀬に向かって弁当箱と箸を差し出した。水無瀬がきょとんと目を丸くしているので、俺は「ほら」と言って弁当箱をぐいぐい押しつける。
「なあに?」
「育ち盛りがそんなんで足りるわけねえだろ。食え」
「え!? でも、これ悠太のお弁当……」
「まだ口つけてねえから。あ、それか他人の手作りダメなタイプか?」
「そういうことを気にしてるんじゃなくて、悠太が食べるものなくなるでしょ」
「俺は帰ってから、いくらでも自分の好きなもの食えるからいいんだよ」
水無瀬はしばらく躊躇っていたが、いつまで経っても折れない俺に諦めたらしい。
箸と弁当を受け取ると、「いただきます」と両手を合わせる。色とりどりのおかずの中から、水無瀬は里芋の煮っ転がしを選んで口に運んだ。箸の持ち方がやたらと綺麗だ。
「……!? 何これすごい、美味しい!」
里芋を咀嚼したのち飲み込んだ水無瀬は、瞳を輝かせて感嘆の声をあげた。そうだろうそうだろう、俺の自信作だ。
「お肉も食べていい?」
遠慮がちに尋ねてくるので、俺は無言で頷いてやる。アスパラの豚巻きを食べた水無瀬は、幸せそうに頰を緩めた。
「美味しい、すっごく美味しい……こんなに美味しいお弁当、はじめて食べた……」
これ以上ないくらいに褒め称えられて、俺も正直悪い気はしなかった。料理は俺の数少ない特技のうちのひとつである。「米も食え」と勧めると、水無瀬は「うわー! 海苔と昆布が敷いてある!」と興奮気味に叫んだ。
「悠太のご家族、お料理上手なんだねえ」
「水無瀬さん、違う違う。その弁当、悠太が作ってんの」
しみじみと言った水無瀬に、透が余計な口を挟んでくる。水無瀬は「ほんと!?」と言って、きんぴらに手を伸ばした。
「うん、きんぴらも美味しい! 全部美味しい! 悠太、すごいねえ」
「別に、大したもんじゃねえし……」
思えば家族以外の人間に手料理を振る舞うことなどなかったので、他人にここまで褒められたのは初めてだ。
水無瀬は表情をとろけさせながら、俺の作った弁当をモリモリ食べている。心底美味そうに食うので、俺はちょっと嬉しくなった。人が美味そうに飯を食っている姿を見るのは結構好きだ。それが自分の作ったものなら、尚更。
水無瀬は「美味しい美味しい」と繰り返しながら、俺の弁当をぺろりと平らげてしまった。見ているこっちが腹いっぱいになるほどの良い食いっぷりだった。
空っぽになった弁当箱を見て、水無瀬ははっとしたように口を押さえる。
「ご、ごめんなさい! 悠太のお弁当なのに、つい全部食べちゃった」
「……あー、別にいいよ。勧めたの俺だし」
「私、代わりに何か買ってくるね! まだ購買開いてるかなあ」
水無瀬はそう言って勢いよく立ち上がると、「しばしお待ちを!」と言い残して教室を飛び出していった。赤いチェックのスカートがひらりと翻るのを、俺は呆然と見送る。まったく、嵐のような女である。
「……なんなんだ、あいつは」
俺がはーっと溜息をつくと、透がおかしそうに肩を揺らして笑った。「なんだよ」と睨みつけると、ニヤニヤと意地の悪い表情を浮かべている。
「お似合いだなと思って」
「本気で言ってるならおまえの目は節穴だ」
「いやいや、ほんとに。水無瀬さん、教室ではもっとキリッとしてるっていうか、美人すぎて近寄り難い感じなのに。悠太の前ではあんなんなんだ」
「あんなんってなに? アホの子?」
それにしても、水無瀬が一人暮らしをしているなんて知らなかった。毎晩カップラーメンやコンビニ弁当を食っていると言っていたが、きちんと栄養のバランスは取れているのだろうか。
ぼんやりと、仕事で遅くなった母さんが、一人で冷たい飯を食っている姿を思い出す。俺たちに向かって「いつもごめんね」と謝る、申し訳なさそうな顔も。五年前から俺が飯を作るようになって、母さんの顔色は格段に良くなった。
美味しいねえ、と笑う記憶の中の母さんの顔が、先ほど見たばかりの水無瀬の顔と重なる。幸せそうに弁当を食う水無瀬の表情は、教室でのツンと澄ました姿よりずっとマシだった。
「おはよう、悠太!」
翌朝も、水無瀬は懲りもせず俺を迎えに来た。相変わらず、俺の青色のネクタイを締めている。俺は今日もノーネクタイだ。夏が終わるまでこれで乗り切るしかない。
「今日も暑いねえ」
そう言って眩しそうに目を細める水無瀬は、長袖のカッターシャツを着ているのに汗ひとつかいておらず涼しげだ。
今日はやけに湿度が高く、空気がじめっとしていて蒸し暑い。空がどんよりしているのも、鬱陶しさに拍車をかけていた。
「……水無瀬、今日昼飯は?」
「あ、今日は他の子と食べるからいいよ! 悠太も、お友達と食べるでしょ?」
「いや、そうじゃなくて……今日もあれ食うのかよ」
「大豆バー? 持ってきてるよ」
水無瀬は俺の問いに頷いた後、「悠太のお弁当、美味しかったなあ」と恍惚の表情を浮かべる。
俺は少し悩んだが、黒のリュックから弁当の包みを取り出した。「ん」と押しつけると、水無瀬はきょとんと瞬きをする。
「なに、これ?」
「弁当」
「え! もしかして私に!?」
「言っとくけど、ついでだから。どうせ自分のと母さんのぶん作るから、一個増えたところで同じだし」
……なんだかツンデレのテンプレみたいな発言をしてしまったな、と口にした後で恥ずかしくなる。べ、別にあんたのために作ったんじゃないんだからね。
「えーと、とにかく……俺はちゃんと飯食わない奴が一番嫌いなんだよ」
「悠太に嫌われるのは全然困らないけど、お弁当は嬉しい! ありがとう、大好き!」
そう言って抱きつこうとしてきた水無瀬をひらりと躱すと、勢いよく空振りをした水無瀬は嬉しそうに「えへへ」と笑う。
「悠太のお弁当、楽しみだなあ。今日は何が入ってるの?」
「バカ、蓋を開けるまで何が入ってるのがわからねえのが弁当の醍醐味だろうが」
「それもそうか! 楽しみにしてまーす」
ウキウキとスキップをしている水無瀬を横目で見つめる。昼休みにまで恋人ごっこに付き合わされるのはごめんだが、こいつが弁当の蓋を開く瞬間の顔が見られないのは、ちょっと残念だ。
……そんなことを考えてしまった時点で、俺は早くもこの女に絆されているのかもしれない。
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