あなたじゃないとダメなの
どんなおかしな状況であったとしても、人間というのはしばらくすると慣れるものである。二週間も経つ頃には、俺は「学校一の美少女の彼氏」というポジションに順応しつつあった。
周囲も最初こそギャーギャーとうるさかったが、さすがに当初よりも落ち着いた。未だに男子からは嫉妬と羨望の、女子からは好奇と侮蔑の目を向けられているが、まあ気にしなければどうということもない。
朝は水無瀬が家まで迎えに来て、肩を並べて登校する。二日に一回は昼休みに一緒に飯を食う。放課後は途中まで一緒に帰る。帰宅した後は、怒涛のように送られてくるメッセージを既読スルーする。
水無瀬の相手をするのは面倒だったが、彼女は俺が冷たくすればするほど喜び、まるでおままごとのような「恋人ごっこ」を楽しんでいるように見えた。
「ねえねえ悠太、試験が終わったらどこか遊びに行かない?」
昼休みが始まってすぐ、水無瀬が俺の席までやって来て言った。
今日は別々に昼飯を食う日だが、彼女は俺の作った弁当を大切そうに胸に抱えていた。なんだかんだで毎日作るのが恒例になってしまったのだ。透には「愛だねえ」とからかわれたが、別に深い意味はない。作る弁当がひとつ増えたくらいで、大した手間にはならないのだから。
「無理。忙しい」
「えーっ。何するの?」
「試験終わったら、キッチンの換気扇とレンジ周りを掃除するんだよ」
「そ、そんなの半日で終わるじゃない! それって私よりも大事なことなの?」
「当たり前だろ」
「そっかあ……残念だなあ」
水無瀬はちょっとしょんぼりしつつも、俺にすげなくされるのを楽しんでいるフシがある。残念だと言いつつも、口元がちょっと緩んでいるのだ。
「じゃあ今日、放課後一緒に勉強しよ。図書室行こうよ」
「……タイムセールに間に合うように帰るけど」
「はあい。じゃ、また放課後にね」
水無瀬は俺の返答に満足したらしく、鼻歌混じりで女子の輪の中に戻っていった。
こんなやりとりも、いつのまにやら日常茶飯事だ。もはや彼女に冷たくするのが俺の日々のノルマになりつつある。いや、別に好きでやってるわけじゃねえけど……。
「悠太、おれらもメシ食おうぜ」
「おー」
透に声をかけられて立ち上がったところで、「上牧くん」とバリトンの声が響いた。振り向くと、長身のイケメン――新庄が立っている。
「二人で話したいんだが、ちょっといいか?」
俺は透の顔をチラリと見やった。透が「いってらー」と言うので、俺は素直に新庄についていくことにする。
新庄とともに教室を出ると、人気の少ない階段の踊り場までやって来た。腕組みをしてこちらを見る新庄は、なんだかやけに渋い表情を浮かべている。
「水無瀬さんのことなんだが」
……ついにきたか。
水無瀬と交際を始めてから、悪友たちはなんだかんだと俺にイチャモンをつけてきたが、それ以外で表立って俺に物申す奴はいなかった。おそらく俺の知らないところではあらゆる陰口を叩かれているのだろうが、実害がなければ何の問題もない。
とはいえ、そろそろ俺に向かって直接「おまえは水無瀬ひかりと釣り合っていない」と言ってくる奴が現れるんじゃないかと思っていた。新庄は水無瀬に心酔しているし、俺に対して思うところがないはずがない。
多少憂鬱だが、別にいきなり殴られたりはしないだろう。死ぬこと以外はかすり傷だ。
俺は覚悟を決めると、「なに?」と尋ねる。新庄はまっすぐ俺を見据えたまま、口を開いた。
「二人の問題に、僕が口出しすべきではないとわかっているんだが……上牧くんの水無瀬さんへの態度、少し改めた方がいいんじゃないか?」
「は?」
予想もしていなかった忠告に、俺の口から間抜けな声が漏れる。新庄はいたく真面目な顔で、小さな子どもに言い聞かせるような口調で続けた。
「君たちは君たちなりの関係を築いていることは、よくわかっている。それでもやはり……君はちょっと水無瀬さんに冷たすぎる。甘やかすことばかりが愛ではないが、少しくらい優しくしてあげてもいいんじゃないだろうか」
「は、はあ……」
たしかに傍から見ると、俺は「可愛い彼女を冷たくあしらう非道な彼氏」である。実際のところ、水無瀬自身がそういう対応を望んでいるのだから、まったく問題はないのだが。
「い、言いたいことってそれだけ?」
「それだけだが……いや、余計なおせっかいをしてすまない」
新庄はそう言って、深々と頭を下げた。どこまでも真面目な奴なのだ、こいつは。
「……俺、水無瀬と釣り合わないとか言われんのかと思った」
思わずポツリと本音を零すと、顔を上げた新庄は目を丸くした。
「言うわけないだろう、そんなこと」
「いや、でもおまえ……水無瀬のこと好きなんだろ?」
そう口にしてから、俺の立場からそんなことを言うのは無神経だったかな、と後悔した。仮にも今の俺は、水無瀬ひかりの彼氏なのだ。
しかし新庄は気を悪くした様子もなく、頷いてきっぱりと答える。
「ああ。僕は水無瀬さんのことを魅力的な女性だと思っている。彼女は美しくて努力家で、純粋で心優しい人だ。君と交際している今も、彼女に対して特別な感情がないと言えば嘘になる」
「だったら……」
「それでも、水無瀬さんのことを君から奪ってやろうなんてつもりは毛頭ない。水無瀬さんの顔が悲しみに曇るところは見たくないし、それに……」
新庄はそこで言葉を切ると、じっと俺の顔を見た。あまりに曇りのない目に、俺はややたじろぐ。
「水無瀬さんが選んだ人が、魅力的でないわけがないだろう。僕には彼女に選ばれるだけの魅力が足りなかった、ただそれだけだ」
……それが、そうでもないんだよなあ。あいつは、自分に興味がない男だったら誰でもいいんだから。
なんてことを言えるわけもなく、俺は小さく肩を竦める。このクソ真面目なお坊ちゃんには、あいつの捩くれた趣味など理解できないのだろう。
「……おまえ、ほんとにいい奴だな」
心の底からの俺の言葉に、新庄は不思議そうに瞬きをして「どういう意味だ?」と首を傾げた。
放課後は図書室で試験勉強をするつもりだったのだが、期末試験前の図書室には意外と人が多かった。場所も弁えずに騒いでいる男子グループがいたので、俺と水無瀬は揃って渋い顔をした。
場所を変えようという水無瀬の提案に賛成して、俺たちはいつもの書道部部室へとやって来た。書道用の机があるので、勉強するのには困らないだろう。
それにしてもこの部屋は埃っぽい。一度時間があるときに、ゆっくり掃除をした方がいいかもしれない。
水無瀬は机の上に教科書とノートを広げた。どうやら真面目に勉強をするつもりらしい。チラリと覗いたノートの字は意外と汚い。まるで小学生男子のような殴り書きだ。
「……おまえも、一応試験勉強とかするんだな。いつも余裕で学年トップのくせに」
俺の言葉に、水無瀬はぱちぱちと瞳を瞬かせた。
「余裕で学年トップなんて、取れるわけないじゃない。私、いつも睡眠時間削って必死で勉強してるよ」
そう言いながら水無瀬が取り出した問題集は、かなり使い込まれているようだった。そういえば、試験一週間前に入って、彼女からの連絡頻度もぐっと減った気がする。
……こいつ、ほんとに勉強してるのか。なんだか信じられないような気持ちで、「必死」の二文字が似合わない女の顔をまじまじと見つめる。
――いつも余裕で学年トップのくせに。
俺は僻みを含んだ先ほどの自分の発言を恥じた。なんとなく、水無瀬ひかりは何の努力もしなくても完璧なのだと思っていた。よくよく考えると、そんな人間がいるはずもない。
「……ごめん」
唐突な俺の謝罪に、水無瀬は驚いたように目を見開いた。少し悲しげに眉を下げて「なんで悠太が謝るの?」と訊いてくる。
「何もしなくても完璧な人間なんて、いるわけねえよな」
水無瀬の美しく整った顔面は生まれ持った才能なのかもしれないが、少なくとも入学してからずっと成績トップを維持しているのは、彼女が相応に努力した結果である。それを無視して「おまえはいつも余裕だから」だなんてこと、言うべきじゃなかった。
珍しく反省している俺を見て、水無瀬は「いいの」と笑って、得意げに胸を張る。
「あえて必死さを見せないようにしてるんだから。余裕の一位、の方がかっこいいでししょ? 完璧で近寄り難い、高嶺の花のひかりちゃんですから」
高嶺の花だと自分で言い切ってしまうのはアレだが、事実なのだから言い返す余地もない。こいつもこいつなりに必死で高嶺の花を演じているのかもしれない、と俺はちょっと思った。……まあ、どうでもいいけど。
「とりあえず、多少は見直した」
「あ、もしかして好きになっちゃった?」
「ならねえよ!」
「よかったー。絶対に悠太は、私のこと好きになったらダメだからね」
しつこいくらいに念を押されて、俺は「はいはい」と適当に答える。
毎日のように繰り返しているこのやりとりにも、もはや飽きてしまった。努力を怠らない人間のことは好ましいとは思うが、それが恋愛感情に直結するかは別の話である。
……そういえば新庄も、水無瀬のことを「努力家だ」と褒めていたな。
「おまえ、俺なんかより新庄みたいな奴と付き合った方が幸せになれるんじゃねえの」
脈絡のない俺の発言に、水無瀬は困ったように長い睫毛を伏せた。口元に曖昧な笑みを浮かべて、「新庄くん、いい人だよね」と呟く。その声には、やや罪悪感が含まれているように思えた。
「いい人だけど、女の子の趣味はあんまり良くないね」
「それ、おまえが言うのかよ」
「無理だよ。私、新庄くんとは絶対付き合えない」
「なんで」
「だって新庄くんは、私のことが好きだから。私、私のこと好きな人が嫌いなの」
きっぱりとそう言った水無瀬の瞳はまるで温度のない宝石のようで、ぞっとするほど冷たかった。背筋にぞくりと悪寒が走って、俺は思わず視線を逸らす。
「だから私は、悠太じゃないとダメなの」
そう言って力なく微笑んだ水無瀬の心の中には、俺には計り知れないような闇があるのかもしれない。自分のことを好きな人間が嫌いだ、という水無瀬の気持ちは、俺には到底理解ができない。
――もし俺が水無瀬のことを好きになったとしたら、一体こいつはどんな顔をするのだろうか。
そんなことを一瞬想像しかけて、やめた。馬鹿馬鹿しい。ありえないことを考えたところで、時間の無駄だ。
俺はほとんど折り目のついていない数学の教科書を取り出すと、余計な考えを振り払うように、一心不乱に数式を頭に詰め込み始めた。
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