放課後の眠り姫

 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花。

 国語教師が雑談混じりにそんな諺を口にしたとき、新庄が「水無瀬さんを形容するに相応しい言葉だ」としみじみ言っていたことを思い出す。

 授業の合間の教室後方で女友達と談笑している水無瀬ひかりは、ぴんと背筋を伸ばして立っている。そもそも俺は芍薬がどんな花なのか知らないので、似ているかどうかはわからない。それでも、彼女の立ち姿が文句なしに美しいことくらいは、ちゃんと理解できる。


「ひかりちゃーん、この問題わかる?」

「ああ、これはこっちの式を代入して……」


 さらりとした髪を耳にかけて、落ち着いたトーンで優しく友人に勉強を教えてやっている。頭の良い水無瀬は、人に勉強を教えるのも上手いらしい。知性に溢れた賢そうな表情は、俺に見せる顔とは違うものだ。まさに品行方正という言葉が相応しい。


「こら悠太てめェ、なーに水無瀬さんに見惚れてんだ!」


 ぼんやり頬杖をついていると、悪友である大宮おおみや隼人はやとに勢いよく後頭部を叩かれた。

 一応断っておくが、俺は断じて見惚れてなどいない。俺の美女への耐性を舐めるな。こちとら、生まれたときから美女に虐げられながら生きてきたんだぞ。


「別に見惚れてねえよ」

「クソ、彼氏の余裕か! 彼女の顔なんか見慣れてますってか! いいよなあ、水無瀬さんが彼女って最高だよな……オレだったら四六時中見つめてても飽きねェよ……」


 隼人は頭を抱え、悔しそうに歯軋りをしている。そこまで言うなら代わってやる、と言いたいところだが、残念ながら俺の代わりはコイツには務まらない。水無瀬にまったく興味のない男を探すのは、砂浜の中にある一粒の砂金を見つけるよりも難しい。


「でもまあ、あれだけ完璧な人とずっと一緒にいんのも、それはそれでなんか疲れそうだもんな。なんか気ィ遣うっつーか」


 隼人は自分に言い聞かせるようにそう呟くと、小さな声で「そう思わないとやってらんねェよ」と付け加えた。俺は無言のまま、再び水無瀬に視線を戻す。


「ありがとー、ひかりちゃん! すっごいわかりやすかったー! さすが学年トップ!」

「ほんと、ひかりちゃんって何でもできるよねー」


 水無瀬は少しはにかんだように肩を竦めると、「そんなことないよ、たまたま予習してただけ」と謙遜してみせる。学年トップが何を言うか、という感じだが、それが嫌味っぽくならないのが水無瀬の人徳だ。

 睡眠時間を削って勉強している、という彼女の言葉を思い出す。友人たちに向ける余裕綽々の笑みからは、努力の跡など少しも感じられない。

 曲がりなりにも彼女と付き合い始めてからおよそ二週間ほど経つが、彼女が周囲の言うような完璧超人ではないことに、俺はそろそろ気付きつつあった。



「あー……頭痛いよー。数学、苦手なんだよねえ……」


 水無瀬はそう言って、大きな溜息をつくと天井を見上げた。教室にいるときとはうって変わって、ずいぶんと気の抜けた表情をしている。

 放課後、俺と水無瀬は書道部の部室で勉強をしていた。期末試験まで一週間を切り、そろそろ俺も本気で勉強をしなければまずい。

 放課後にまで水無瀬と一緒にいることに辟易していたものの、正直わからないところをすぐに教えてもらえるのはありがたかった。

 当の水無瀬はかなり疲弊しているらしく、眉間に皺を寄せて「うー」と唸っている。昼休みに友人に教える姿は堂々としており、とても数学が苦手なようには見えなかったが。


「ちょっと休めば?」

「うーん……」


 水無瀬は生返事をすると、口を押さえて大きな欠伸をした。

 遠目で見るぶんにはわからないが、近くでよくよく顔を見れば、目の下にうっすらと青いクマができている。フランス人形のように整った顔立ちの中で、それだけがやけに人間臭さを醸し出していた。

 青いクマは主に寝不足や疲れ目が要因となるものだ。おそらく、本当に睡眠時間を削って勉強しているのだろう。


「いっつも何時に寝てんだよ」

「昨日は四時まで起きてた……どーしてもわかんない問題があったから……」

「は!? 諦めて寝ろよ!」

「だってー……わかんないところ残したまま眠れないタチなのー……」


 どうやら水無瀬は筋金入りの完璧主義者らしい。ちなみに俺は勉強もそこそこに、毎日日付が変わる前に布団に入るようにしている。きっちり三食飯を食って充分な睡眠を取るのが毎日を健やかに過ごす秘訣だ。俺は中学入学以来、一度も学校を病欠したことがない。


「睡眠時間削ると早死にするぞ」

「……まあ、美人薄命っていうから仕方ないよね」

「バカなこと言ってんな」


 呆れた俺は水無瀬から問題集を取り上げた。「ああっ」と慌てた水無瀬の額を指でぱちんと弾く。


「ちょっとでもいいから寝ろ」

「えっ! 今ここで!? む、無理だよ。私、誰かがいるところで寝れないタイプなの」

「じゃあ五分だけ目瞑っとけ。それだけで多少スッキリすんだろ」

「わ……わかった。じゃあ、五分だけ」


 水無瀬は渋々頷くと、そのままテーブルに顔を伏せた。焦茶色の髪が、教科書の上にさらりと広がる。

 俺は彼女を無視して、自分の勉強に集中することにする。一分も経たないうちに、すうすうという寝息が聞こえてきた。華奢な背中が規則的に上下している。

 ……おいおい、瞬殺じゃねえか。

 俺はしばらく問題集と格闘していたが、傍で爆睡している女のことがどうにも気になってしまう。十分もしないうちに、俺はシャーペンを放り出してしまった。

 いつのまにか顔をこちらに向けていた水無瀬を、まじまじと見つめる。申し訳ないが、あまり美しい寝顔とは言えない。なんとなく眠り姫のような寝姿を想像していたのだが、どちらかと言えば小さな子どものようで、半開きになった口からは涎が垂れていた。相当熟睡しているらしい。よほど疲れていたのだろう。

 クラス一の美少女のこんな姿をクラスの連中に見せてやりたい、と思ったが、やっぱりなんとなく見せたくないような気もする。どちらにしても、今のところは俺以外の奴が見ることはないのだろう。

 顔にかかった髪をかき上げてやったところで、はっとして手を引っ込めた。いやいや、俺は何をやってるんだ。恋人でもない女の髪に勝手に触るな、というのは姉からの厳格な教えである。仮にも水無瀬は俺の彼女なのだから、問題はないのかもしれないが。

 俺は水無瀬の間抜けな寝顔から視線を剥がすと、再びシャーペンを手に問題集に取り掛かる。隣から聞こえてくる寝息はやけに幸せそうで、こっちまでだんだん眠たくなってきた。



 ――あと十五分で完全下校時刻です、校内に残っている生徒は速やかに下校してください。繰り返します――


 スピーカーから聞こえてきたアナウンスの声に、俺は慌てて跳ね起きた。窓の外を見ると、もう日も暮れかけている。水無瀬につられてうっかり寝てしまったようだ。


「おい水無瀬、起きろ」


 未だ爆睡している水無瀬の肩を揺すると、彼女は「んがっ」と妙な声をあげて目を開けた。むくりと上体を起こすと、ぼんやりした表情で辺りを見回している。唇の端からは透明な涎が垂れていた。


「……涎、拭けよ」

「むう……ん? えっ、うわっ、嘘っ!」


 ようやく覚醒したらしい水無瀬は、慌てて鞄からタオルハンカチを取り出す。こほんと咳払いをしてから、楚々とした仕草で口許を拭った。いまさら取り繕ったところで手遅れである。


「……私、寝ちゃってた?」

「爆睡してたぞ。何が〝人のいるところじゃ寝られない〟だよ。無駄な繊細アピールすんなよ」

「ほ、ほんとなんだってば! 普段はそうなの! 修学旅行とか、いつも全然眠れないし!」


 水無瀬は慌てて言い訳をしたが、俺は「はいはい」とそれを軽く受け流す。「ほんとなのにぃ」という情けない声が響いた。


「……それにしても、すっごい寝てた。頭スッキリしてる」


 ぱちぱちと瞬きをした水無瀬は、はーっと息をついた。心なしか顔色も良くなったような気がする。やはり人間に必要なものは、栄養のある食事と充分な睡眠だ。


「ありがとう。悠太、私のこと起こさずにいてくれたんだね」

「別に。俺もつられて寝てただけだし」


 俺はそっけなく答えた。寝顔を凝視していたことは黙っておこう。あまり見られたいものでもないだろうし。

 そのとき、再びスピーカーから「下校時刻まであと十分です」というアナウンスが流れる。俺は机の上に散らかっていた教科書や問題集を、まとめてリュックに放り込んだ。


「さっさと帰るぞ」

「えっ……も、もうこんな時間!? ごめん悠太、おうちのごはん作らなきゃいけないんだよね」


 水無瀬はスマホの時刻を見て、申し訳なさそうに眉を下げた。俺は「大丈夫」と首を振る。

 あくまでも学生の本文は勉強ということで、試験一週間前は家事が免除されるのだ。とはいえ母は帰りが遅いし、料理下手の姉の作ったメシを食いたくはないので、結局晩飯だけは俺が作ることが多いのだが。

 作り置きもまだあったはずだし、今日は適当に惣菜でも買って帰るか。そんなことを考えていると、机に置いていたスマホが鳴った。ロックを解除してみると、姉ちゃんからメッセージが届いている。


 ――今日は特別に、お姉さまが晩ごはん作ってあげまーす!


 それに続いて、ポン、と食材が並んだ写真が送られてくる。じゃがいもにたまねぎ、豚肉まではまだいい。端に写っているイチゴとチョコレートはなんだ。

 姉は特別不器用なわけではないのだが、レシピ通りに作らずに余計なアレンジを加える傾向がある。奴は筋金入りのポイズンクッカーなのだ。このままでは、今宵の食卓が阿鼻叫喚の地獄絵図になってしまう!

 真っ青になった俺の顔を、水無瀬は「どうしたの?」と覗き込んでくる。震える声で「帰りたくねえ……」と呻いた俺に、寝起きの美少女は不思議そうにきょとんと瞬きをしていた。

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