備えあれば憂いなし
車窓を流れる景色を眺めながら、俺はしみじみと非日常の空気に浸っていた。
ゴールデンウィークのど真ん中である今日は、清々しい快晴だ。初夏の空は眩いばかりに青く澄み渡っていて、さんさんと輝く太陽が惜しげもなく紫外線を振り撒いている。
今日からひかりと二人で、一泊二日の温泉旅行に出かける。学生の貧乏旅行のため、移動手段は鈍行列車である。俺は朝四時に起きてひかりを迎えに行き、寝ぼけ眼で「どうしよう! 全然用意できてないよー!」と喚くひかりを叱咤し、荷造りを手伝い、猛ダッシュで始発電車に乗り込んだ。
可愛い恋人との二人旅が楽しみであることには間違いないのだが、俺は同時に胃が重苦しくなるようなプレッシャーを感じていた。
旅行に行くと決めてすぐ、ひかりに頼んで彼女の両親に電話をかけてもらった。
ひかりは俺の話を両親に伝えていたらしいが、直接話すのは初めてのことである。緊張で喉がカラカラになりながらも、なんとか挨拶をした。
ひかりの父親はややそっけなく、「どうも、はじめまして」とだけ言って、すぐに母親に電話を代わってしまった。ひかりによく似た声の母親は、「無愛想な人でごめんなさいねえ」と苦笑していた。
責任が取れなくなるようなことは絶対にしない、と前置きしたうえで、ひかりと二人で旅行に行きたいと伝えた。反対されたら当然中止するつもりだったのだが、拍子抜けするほどあっさり承諾された。ひかりの言う通り、わりと放任主義なのかもしれない。「今度帰国したときに一緒に食事でも」という、社交辞令のような言葉で通話は締め括られた。
ひかりはぺったりと窓に張りついて、全身からウキウキオーラを振り撒いている。微笑ましく見守っていると、ひかりが突然こちらを向いて、太陽に負けないぐらいに眩しい笑顔を浴びせてきた。
「温泉旅行楽しみだね、悠太!」
「……ああ、そうだな」
俺はそう答えながら、昨夜の姉ちゃんとのやりとりを思い出していた。
「悠太! 今母さんに聞いたんだけど、あんた今日からひかりちゃんと旅行行くんだってー!?」
自室でリュックに荷物を詰めていると、ノックもなしに姉が飛び込んできた。首だけ回して振り向くと、腰に手を当てて仁王立ちになった姉がこちらを見下ろしている。
「そうだよ。土産なら買わねえぞ」
「そんなことよりアンタ、ちゃんとゴム持ってんでしょうね!?」
「……」
姉ちゃんの爆弾発言に、俺の手がぴたりと止まった。この場合のゴムというのは髪などを結ぶようなアレではなく、避妊具のことを指しているのだろう。もちろん、そんなものは用意していない。
「……いらねえよ」
答えた瞬間、容赦のない蹴りが背中に飛んでくる。痛い。姉からの暴力はいつだって唐突で理不尽だ。
「はあ!? 見損なったわこのバカ! ドクズ! 女の敵! 避妊だけはしっかりしないと、こういうのは女の子の方がリスクがねえ……!」
「ち、違うそういう意味じゃねえ! する予定がないからだよ!」
勝手な勘違いで暴走している姉ちゃんの言葉を、俺は慌てて遮る。
姉が想定しているようなことを、俺は断じてするつもりはない。ひかりにその気はないだろうし、そもそもひかりの両親にも「何もしない」と誓ったのだから、その約束はきっちりと守り通さなければならない。
姉は形の良い眉をつり上げ、鋭い目でギロリと睨みつけてきた。
「……彼女と温泉旅行に行くのにぃ? する予定がないってぇ?」
……姉が怪訝に思うのも、まあ無理はない。
俺だって相手がひかりでなければ、浮かれてコンドームの一箱ぐらいリュックに忍ばせていたかもしれない。とはいえ今までもこれからも、ひかり以外の女と二人で旅行に行くはずもないので、無意味な想像である。
「とにかく、姉ちゃんが心配するようなことは何もねえよ。さっさと出ていってくれ」
「話は終わってないわ、弟よ」
「グエッ」
背を向けた瞬間に、後ろから思い切り襟首を引っ張られて、俺の喉からカエルを踏み潰したような声が出た。ゲホゲホと咽せていると、「ちょっと待ってなさい!」と言った姉ちゃんが部屋を出て行き、すぐに戻ってきた。
「これ! ちゃんと持っときな!」
てのひらサイズの小さな箱を、無理やり握らされる。それが何なのか一瞬で理解した俺は、慌てて突き返そうとした。姉から避妊具を恵まれるなんてごめんだ。
「うわ! マジでいらねえ! ほんとにいらねえってば!」
「ガタガタ言わないの! 備えあれば憂いなしって言うでしょ!」
「勘弁してくれ!」
何が悲しくて、肉親とこんなやりとりをしなければならないのか。そもそも姉ちゃんの部屋にコンドームがあることなど、知りたくなかった。姉はよく平気な顔で、実の弟の避妊の有無を心配できるものだと思う。
「あのねえ! 使わないなら使わないで、それでいいのよ! ただ、そういうつもりじゃなかったのに旅先でうっかり盛り上がっちゃうことなんていくらでもあるの! それが温泉マジックだから!」
「身内のそういう話、聞きたくねえ……」
「うっかり盛り上がっちゃったときに、なかったら困るでしょ! 止められたらいいけど、車と男子の下半身は急に止まれないから! アンタのためじゃなくて、ひかりちゃんのために言ってんのよ!」
……そんな姉の押しに負け、俺は渋々ポーチの中に避妊具を突っ込んできた。もとよりこの俺に、姉に逆らうという選択肢など存在しないのだ。
我慢する覚悟は決めてきたはずなのに、姉ちゃんのせいで「うっかり盛り上がってしまったらどうしよう」という、期待とも不安ともつかない感情が胸をよぎる。
俺の隣に座るひかりは、そんな俺の気も知らず、さくさくとリスのようにポッキーを齧っていた。能天気な横顔を見ていると、こいつに限って「うっかり」なんてありえねえよな、という気分になってきた。この女は「優しい彼氏」のことをこのうえなく信頼しきっていて、そいつが抱える欲情を知る由もないのだから。
乗り換えをしながら鈍行列車に揺られ、四時間かけてようやく目的地に到着した。電車の中では涎を垂らして爆睡していたひかりは、急に元気になって瞳を輝かせている。
「わーっ! いいなあ! 温泉街って感じ!」
駅の前には足湯があり、「ようこそ
「ねえねえ! 私、はちみつソフトクリーム食べたい!」
「後にしろ。先に宿行ってチェックインするぞ」
「はーい!」
元気いっぱい良い子の返事をしたひかりの手を引いて、本日の宿へと向かう。温泉街の中心から少し離れた場所にあるため、シャトルバスを利用することになる。
バスに数分ほど揺られると、巨大な建物が見えてきた。ひかりが当てたのは昨年できたばかりのリゾートホテルの宿泊券だ。本来ならば高校生がおいそれと宿泊できるような場所ではない。ひかりの豪運に感謝だ。
チェックインを済ませて、俺たちは案内されるがままに部屋にやってきた。洋風と和風がほどよく同居したような部屋で、二人で過ごすにはもったいないほど広々としている。畳が敷かれたリビングスペースの奥には、大人が二人余裕で寝れるほどの巨大なベッドがふたつ並んでいた。
「わーっ、すごーい! 見て見て! お部屋に露天風呂がついてるー!」
ベランダに続く窓を開けたひかりが、檜の浴槽を見て感嘆の声をあげる。……部屋つき露天風呂とはまあ、豪華なことで。できればこういう宿には、もう少し彼女との関係が進展してから泊まりたかったものだ。これでは宝の持ち腐れである。
「ねえねえ悠太、お部屋のお風呂順番に入ろうね!」
ひかりの無邪気な発言に、俺は心を落ち着けるべく、備え付けの急須でお茶を淹れた。おまえが風呂入ってるあいだ、俺は何をしてればいいの? 座禅?
「? どうしたの悠太、無口だね」
難しい顔をしている俺に気付いたのか、ひかりが怪訝そうに尋ねてきた。しまった。ひかりは純粋に俺との旅行を楽しんでいるのだから、不安にさせるようなことなどあってはならない。
俺はひかりの分のお茶を湯呑みに注ぐと、茶菓子と一緒に彼女の前に置いた。
「いや、なんでもない。……荷物片付けたら、晩飯までそのへんウロウロしに行くか」
「行くー! あっ、さっきフロントで色浴衣借りたんだ! 着替えてくるねー!」
そう言うが早いが、ひかりは色浴衣を抱えて洗面所にすっ飛んでいった。
俺は溜息をついて、湯呑みに入った温かい緑茶をすする。普段飲んでいる安物のティーパックとは違う香りと深みを感じていると、洗面所の扉が開いてひかりが出てきた。
「じゃじゃーん! どう!?」
ひかりが身につけていたのは、淡い水色に花柄模様があしらわれた色浴衣だった。腰のあたりで黄色の帯が締められている。よく似合っているし、ひかりのセンスに文句はない。文句はない、のだが。
裾の長さが合っていないし、襟の合わせもめちゃくちゃ。帯の結び目は曲がっているし、何もしなくても勝手に解けてしまいそうだ。俺はひかりに歩み寄ると、悪代官よろしく、彼女の帯を勢いよく引いた。
「……ぐっ……ちゃぐちゃじゃねえか! そんなんじゃ、歩いて三歩で着崩れるぞ!」
「ギャッ!」
動揺しているひかりの背後に回り込むと、後ろから手を伸ばして浴衣を掴む。
「そっち側、ちょっと持っといてくれ。ちゃんと左右の裾が同じ長さになるようにな」
「あわわわ、ゆ、悠太……」
「帯紐の位置、もうちょっと上の方がいいぞ。腰と胸のあいだぐらいだな」
「ギャーッ! ど、どこ触って……!」
「帯締めるぞ。キツかったら言ってくれ」
「ひゃっ、ちょっ、まっ……」
「蝶々結びにするぞ。……ほら、できた」
「…………」
俺はそこでようやくひかりを解放して、彼女の正面に移動する。我ながら、なかなか上手く着付けられたと思う。これなら歩いても、簡単に着崩れることもないだろう。
うんうんと満足げに頷いている俺とは対照的に、ひかりは俯いたまま、ふるふると身を震わせていた。不思議に思っていると、真っ赤に染まった顔を上げたひかりが、涙目で睨みつけてくる。
「……悠太のばかあ! セクハラ!」
次の瞬間、力いっぱい突き飛ばされた俺は、畳の床の上にひっくり返っていた。
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