恋人同士がすることは

 俺に無理やり身体をまさぐられた、と主張したひかりは、肩を怒らせぷりぷりと憤慨していた。

 たしかに際どいところを触ったかもしれないが、着付けに夢中であまり意識していなかったのだ。せっかく直してやったのに理不尽だと思ったが、一応謝罪しておいた。

 温泉街を歩いているときも、しばらくのあいだ頰を膨らませていたが、単純なひかりなはちみつソフトクリームを買ってやると、すぐにご機嫌になった。


「美味しいー! ねえねえ悠太、私コロッケも食べたいなー!」

「あんま食い過ぎるなよ。晩飯入らなくなるぞ」

「悠太も食べる!? 一口どうぞ! はい、あーん!」


 そう言ってひかりは、ソフトクリームを差し出してきた。普段ならば「いらねえよ」と突っぱねるところだが、ここは普段の生活圏から遠く離れた旅先だ。知り合いに目撃される可能性はほぼない。

 ひかりの手首を掴んで引き寄せ、彼女の手ずからソフトクリームにかぶりつく。ひかりの頰に溶けたクリームがくっついていたので、「ついてるぞ」と指で拭ってやると、彼女の顔が茹で蛸のように真っ赤になった。


「……なんでサラッとそういうことするの?」

「仕掛けてきたのはおまえだろ」

「普段は無視するくせにー!」


 喚くひかりを軽くいなして、俺は彼女の手を引いて歩き出した。そこでようやく、道行く人間がチラチラとひかりに視線を向けていることに気がつく。ひかりが注目されるのはいつものことだが、やはり美少女の浴衣姿というのはよりいっそう目を惹くものだ。

 浴衣なんて着たら死ぬほどナンパされちゃう、というひかりの言葉を思い出して、彼女の手を握る手に力をこめた。


「どうしたの?」

「……なんでもない。絶対離れんなよ」

「うん、離れない!」


 ひかりは満面の笑みを浮かべて、俺の肩にこてんと頭を預けてくる。往来でイチャイチャするのは憚られたが、まあ今日ぐらいはいいだろう。旅の恥はかき捨てと言うではないか。


「あ! この近くに縁結びの神社があるんだって! 恋人の聖地らしいよ! これは行くしかないよね!」


 出た。全国津々浦々ありとあらゆるところにある、恋人の聖地だ。少し前の俺なら鼻で笑い飛ばしていただろうが、ひかりが行きたいと言うなら仕方ない。付き合ってやるか。


 それから二人で縁結びの神社に向かい、お参りをした。ガラガラと鈴を鳴らして両手を合わせたひかりは「これからも悠太と一緒にいられますように!」と堂々と声に出していた。多少気恥ずかしかったが、俺も心の中では同じことを願っていたので、何も言わなかった。


「楽しいね、悠太! 今日はずっと一緒にいられるなんて夢みたい!」


 そう言って笑うひかりを見ていると、やっぱり来てよかったな、と心の底から思う。毎日毎日顔を合わせていても、「バイバイ」と手を振って別れる瞬間はやはり寂しいものだ。


「晩ごはん、豪華なビュッフェらしいよー! ソフトクリームが巻き放題なんだって! いっぱい巻いちゃおう!」

「おまえ、さっきソフトクリーム食ってただろ……」


 さすがは放っておくと三食アイスで済まそうとする女だ。ウキウキしているひかりに向かって、俺は小さく肩を竦めた。



 

 宿に戻ってきた俺たちは、それぞれ大浴場で風呂に入って、夕飯を食った。部屋へと戻ってくるなり、ひかりがボフッと勢いよくベッドにダイブする。


「はー、おなかいっぱい……張り切って食べ過ぎた……」

「欲張りすぎなんだよ。どう考えても最後の一回は余計だったろ」

「だって、好きなものを好きなだけ食べられるのがビュッフェの醍醐味だもん! それにひきかえ、悠太のビュッフェは一切の無駄がなくて美しかったね……コース料理みたいだったよ……」


 当たり前だ。自分の限界を弁えつつ、さまざまな美味いものを少しずつ食べるのがビュッフェの醍醐味である。

 ひかりは膨らんだ腹をさすりつつゴロゴロしていたが、やがて「そうだ!」と起き上がった。


「お部屋にある露天風呂入らなきゃ! 悠太、先に入る?」

「……いや……」

「そう? じゃあお先に!」


 ひかりはそう言うと、ベランダにある部屋付き露天風呂へと向かう。当然のことながら、カーテンで仕切られているため、部屋の中からは何も見えない。しかし、檜風呂に入っている彼女の姿を、嫌でも妄想してしまう。

 俺は座禅こそしなかったが、カーテン越しのひかりの気配を意識しないように精神統一していた。この旅行が終わったら、悟りでも開けるんじゃないだろうか。


「おまたせー! はあー、気持ちよかった!」


 しばらくすると、ひかりが部屋の中に戻ってきた。相変わらず浴衣を着るのが下手くそで、襟元が既に乱れていて、白い鎖骨が見えている。頭の後ろでひとつにまとめた長い髪はやや濡れていた。ベッドに座っている俺の隣に、無防備に腰を下ろす。


「ここの温泉、三回入ったら美人になれるんだって! あと一回は絶対入ろうっと」


 果たしてこれ以上美人になりようがあるのか、と真剣に考えてしまうほど、風呂上がりの彼女は美しい。こんなに可愛い生き物と一晩一緒にいて、果たして俺は冷静でいられるのだろうか……。

 ひかりが甘えるような仕草で、俺に寄りかかってくる。触れ合った身体はほこほこと温かく、信じられないほどいい匂いが漂ってくる。なんだか頭がくらくらしてきた。今にも飛んでいきそうな理性の尻尾を必死で捕まえる。

 俺の葛藤などつゆ知らず、ひかりは無邪気に笑いかけてきた。

 

「そういえば悠太、トランプ持ってきてくれた? 七並べしようよ!」

「……持ってきたけど……二人でする七並べほど盛り上がらないゲーム、あるか?」

「リュック開けてもいいー?」

「勝手にしろよ」


 ベッドの脇に置いていた俺のリュックのファスナーを、ひかりが開ける。ごそごそと中を物色しているひかりの後ろ姿を眺めながら、俺ははっと気がついてしまった。

 ……リュックの中には、昨夜姉ちゃんから押し付けられたものが入っているはずだ。


「! ひかっ、ひかり! ちょっ、ちょっと待て!」


 ……泡を食って立ち上がったが、時すでに遅し。

 リュックの底から見事に四角い箱を探し出したひかりは、口をぽかんと開けてまじまじとそれを凝視している。パッケージの裏面に書かれた文言までご丁寧に熟読してから――まるで爆弾でも受け取ったかのように、それを放り投げた。


「ぎゃ、ぎゃあ!」


 避妊具の箱がベッドの上に落ちる。素早くそれを拾い上げた俺を、ひかりは驚愕の表情で見つめていた。両腕で自らの肩を抱きしめ、俺から逃げるように後退りをする。


「ゆっ、悠太……な、なんでそんなの持って来てるのお!?」

「いや、その、これは」

「も、もしかして、さ、最初からそういうこと……するつもりだったの!?」

「ち、違う! 姉ちゃんに押し付けられただけだ!」


 本当にそんなつもりはなかったのだから、勘違いをしてもらっては困る。ひかりは現状を確認するように、ゆっくりと首を回して周囲に視線を向ける。恋人との初めての旅行で、露天風呂付きの部屋に二人きりで、お互いにベッドの上で、男は片手に避妊具を握りしめている。

 何かに気付いたらしいひかりの顔色が、さーっと青ざめていく。


「……こっ、この状況……ま、まずくない!?」

「……まずいな」

「よ、よく考えたら……こ、恋人同士が温泉旅行に来てすることって、ひとつしかないよね!?」


 ……その事実、もう少し早く気付いてほしかった。できれば、スーパーの抽選で温泉旅行の宿泊券を当てた時点で。

 俺が黙って頰を掻いていると、ひかりが「うわあああ……」と唸り声をあげる。そのまま膝を抱えて、その場でアルマジロのように丸まってしまった。


「わ、わ、わ、私っ……何も考えずに来ちゃって……ど、どうしようっ……」

「……大丈夫。ひかりが何も考えてないことぐらい、ちゃんとわかってる」

「……ううっ、考えなしでごめんね悠太……き、キスもさせないくせにこんな……カマトトぶっちゃって……と、とんでもない女だよね……」

「おまえは最初からとんでもない女だろ」


 丸まっているひかりの背中を、宥めるように撫でてやる。おずおずと顔を上げたひかりの瞳は、不安と戸惑いで揺れていた。


「……その、ゆ、悠太は……」

「うん?」

「…………私と、そういうこと、したいと思ってるの?」


 ひかりの問いに、俺は言葉に詰まった。彼女の背中を撫でる手がぴたりと止まる。

 したいに決まっている。当たり前だ。俺は気力と体力に満ち溢れた健康な男子高校生で、何よりひかりのことが好きなのだから。

 もし正直にひかりにそう伝えたら、ひかりは俺を軽蔑するだろうか。結局俺もひかりを押し倒した元彼と同じなのだと、がっかりするだろうか。

 ……嫌われて、しまうだろうか。

 俺はひかりの目をまっすぐに見つめる。この欲を薄っぺらい嘘で包んでしまうのは、きっと簡単だ。それでも俺はもう、彼女に嘘をつきたくない。ひかりはきっと、俺のことを嫌いになったりしないから。


「したいよ。ひかりのことが好きだから」


 ひかりの頰が真っ赤に染まる。驚いてはいるようだったが、表情に軽蔑の色は見えない。俺はつとめて冷静な口調で「驚かせて悪い」と言った。


「でも、ひかりの気持ちを無視してまでするつもりはねえよ。何回も言ってるだろ」

「……悠太……」


 ひかりが抱えていた膝を解き、こちらに向き合う。震える手で浴衣の袖をぎゅっと握られて、ぎくりとした。潤んだ瞳で、上目遣いに見つめてくる。


「……ね、悠太。その……し、してもいいよ……」


 囁かれた予想外の言葉に、ヒュッと喉から変な息が漏れた。「な、何言ってんだ」と尋ねる声が掠れている。

 

「……わ、私ね。悠太が私としたいと思ってくれてるの、嫌じゃないよ」

「え」

「今までずっと、自分に向けられるそういう……欲のこと、気持ち悪いって思ってたけど……悠太なら、嫌じゃない。その、ちょっと怖いけど……」


 しっかりと捕まえていたはずの理性が、いつのまにか指のあいだからすり抜けていきそうになっていく。了承されたのだから、このまま抱きしめて押し倒してもいいじゃないか、と俺の中の悪魔が囁いてくる。


「……ひか、り」


 全身の血液が勢いよく巡って、フル稼働している心臓の音がうるさい。ひかりの肩に両手に掛けると、彼女はぎゅうっと固く目を閉じた。その身体が小刻みに震えているのに気付いた瞬間、俺は大事なことを思い出した。


「……あの、さ」

「は、はい」

「それはおまえが俺としたくて言ってるのか、俺に嫌われたくないから言ってるのか、どっちなんだ」


 俺の質問に、ひかりはおそるおそる瞼を上げた。少し考え込んだあと、消え入りそうな声で答える。


「……嫌われたく、ないから……かな」


 ……危ない。もう少しで、取り返しのつかないことをするところだった。

 俺はひかりの両肩から手を離すと、彼女と一定の距離を取ってから言った。


「じゃあ、しない」

「……え……?」

「そりゃ俺だってしたいけど、俺に嫌われたくないって理由ならやめようぜ。ひかりがしたくなるまで待つ」

「でっ、でもそんなの……いつになるかわかんないよ!?」

「別にいいよ。人生まだまだ長いだろ」


 水無瀬ひかりと人生を共にする覚悟なら、もうとっくにできている。俺の来世はきっとミジンコだから、今世は長生きするつもりでいるのだ。

 俺の言葉を聞いたひかりの表情が、安堵したように緩む。その顔を見ると、無理やり押し倒さなくてよかった、と心の底から思った。


「ありがと、悠太……」


 そう言うと同時に、瞳からポロッと涙がこぼれ落ちた。突然はらはらと泣き出したひかりに、ぎょっとする。


「おまっ……なんで泣いてんだ! そんなにビビらなくても、何もしないって言っただろ」

「……ちが、ちがうよお……ゆ、ゆうたが、やさしいから……」

「おまえ、最近泣き虫だな」

「ゆうたのまえだけだよぉ……」

「……それなら、まあいいか」


 躊躇いつつも、ひかりの身体を抱き寄せる。俺の胸にしがみついた彼女は、小さな子どものようにえぐえぐと泣いている。浴衣に鼻水つけるなよ。

 ようやく泣き止んだひかりは、「ごめんねえ」と言ってティッシュで鼻を噛んだ。真っ赤になった鼻をむぎゅっとつまんでから、俺は溜息をつく。


「じゃあ、おとなしく寝るか……」

「でも……ど、どうしよう悠太……!」

「なんだよ」

「このままじゃ、ドキドキして寝られないよ……」


 そう言って、ひかりが両手で頰を覆った。それにしても、さっきまで平気な顔をして風呂に入っていたくせに、いきなり意識し始めるとは勝手な奴だ。もとよりこちらは、眠れないのを覚悟で来ているというのに。

 さすがに少し腹が立った俺は、彼女にちょっとした仕返しがしたくなった。腰を強く引き寄せ、じっと目を合わせたまま、ゆっくりと顔を近付けていく。ひかりの表情が強張る。


「ひえ……」

「眠れないなら、寝なきゃいいだろ」

「ゆっ、悠太……!?」

「……たしかにおまえの言う通り、恋人同士が温泉旅行来てやることなんか、ひとつしかねえよなあ」


 ひかりの顔が、みるみるうちに真っ赤になった。逃げ場がないことに気付いたのか、慌てたようにじたばたと暴れ回る。


「ゆ、悠太の嘘つきー! な、なにもしないって言ったのにぃ!」


 大声で叫んだひかりの耳元で、俺は笑いを堪えて囁いた。




「……バカ。七並べに決まってんだろ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る