眠れる獣
「……そんで? 彼女と二人で温泉行って、何もせずに夜通しトランプしてたって?」
一部始終を聞いた透が、にやにや笑いを堪えながらそう尋ねてくる。俺はぶすくれた表情で、「笑いたきゃ笑えよ」も吐き捨てた。
俺とひかりの、清く正しく健全極まりない温泉旅行は、つつがなく無事終了した。
結局俺たちは、夜を明かして七並べに興じた。二人でする七並べの何が楽しいんだと思っていたが、深夜テンションのせいか意外と盛り上がった。
一睡もしなかったせいで帰りの電車の中で仲良く爆睡して、危うく乗り換えに失敗するところだった。大量の土産を抱えたひかりを部屋まで送り届け、洗濯機を回してから帰宅した。
ゴールデンウィークが終わると、ひかりはクラスメイトに旅行の土産を配り歩いていた。椿ノ里温泉郷のゆるキャラ「つばきくん」のクッキーを、新庄は後生大事に机の上に飾り、毎朝拝んでいる。腐る前に食べてくれればいいのだが。
ちなみに、温泉旅行のことを聞きつけた烏丸百合花には、「よくも私の水無瀬さんを! このケダモノ!」と罵倒された。あいつにどう思われようが別にいいのだが、謂れのない罪で糾弾されるのは、なかなか辛いものがある。あと、くどいようだが俺のひかりだ。
先日姉から押し付けられた避妊具の出番は当然なく、今は俺の部屋の小物入れにひっそりとしまわれている。俺の中に潜む獣は未だ眠ったまま、来るべき時をじっと待っている。
そして、旅行から一週間ほどが経った放課後。
俺はいつもの書道部部室で、ひかりの委員会が終わるのを待っていた。同じく長岡のことを待っているらしい透と、土産であるせんべいを食べながら駄弁っていると、ひかりとの温泉旅行の話題になったのだった。
「悠太ってほんと……ふふっ……すごいよな……」
「おい。バカにしてんのか?」
「いやいや、本気でえらいと思ってるよ。おれが同じ状況だったら絶対手出してる。徹夜で七並べはなかなかできねーよ……ふふふっ……」
肩を震わせ笑いながら言われても説得力がないが、一応褒められてはいるらしい。俺はふてくされたまま、バリバリと音を立ててせんべいを齧る。素朴でシンプルな醤油味で美味い。
「そろそろ水無瀬さんと付き合って一年じゃなかったっけ。悠太って意外と我慢強かったんだなー」
「別に、そんな大層なことじゃねえよ。たかが一年だろ」
「おれ、水無瀬さんのこと普通にいい子だと思ってるけど、それでも悠太はよく付き合ってるなあと思うよ」
「そりゃどうも」
「……と、いうより。ぶっちゃけ悠太、水無瀬さんに振り回されるの楽しんでない?」
透は唇の端をつり上げて、ニヤリと意地悪く笑う。俺は無言のまま、魔法瓶に入った緑茶でせんべいを流し込んでいた。
「透くん! おまたせえ」
そのとき、扉が開いて長岡がひょっこり顔を出した。デレデレと頰を緩ませた透は立ち上がり、彼女の元へと駆け寄る。
「悠太、じゃあなー。おれ、るうと帰るわ」
「上牧ばいばーい」
「……おう」
ひらひらと手を振って、仲睦まじいバカップルを見送る。一人残された俺は、ひかりが持ち込んだクッションに頭を預けて目を閉じた。
この場所は日当たりは悪いが薄暗くひんやりとしていて、昼寝に最適である。遠くの方で、吹奏楽部が吹くトランペットの音が聞こえてくる。今日の晩飯のメニューを考えているうちに、ゆるゆると心地良い眠気が襲ってきた。
夢と現実の間をふわふわと揺蕩っていると、パタパタと廊下を走る足音が聞こえてきた。ひかりが来たのだろうか、と覚醒し切らない頭で考えていると、ややあって扉が開く音がする。
「……あれ? 悠太、寝ちゃってるの?」
ひかりの声がして、瞼の裏に影が覆いかぶさってくる。さらさらの髪の毛が鼻先をくすぐる。おそらく、ひかりが俺の顔を覗き込んでいるのだ。完全に眠っているわけではないが、脳と身体はまだ重く、目を開けるのが億劫で、俺はそのままじっとしていた。
「……わあ。悠太の寝顔だ……写真撮りたーい」
ひかりが嬉しそうな声を出すので、起きるタイミングを逃してしまった。前髪に手が触れて、そっと掻き分けられる。ひかりはうっとりと息をついた。
「……はぁ、かっこいい……誰にも知られたくない……」
「……」
「このまま連れて帰って監禁しちゃおうかな……」
可愛い顔をして、物騒なことを言うやつだ。監禁なんかしなくても、俺はどこにも行かないというのに。
露わになった額を、そっとひかりの指が撫でる。そのまま指が滑っていき、頰をぺたぺたと無遠慮に触られた。少々くすぐったいが、俺はまだ目を閉じている。
「……悠太、だいすき」
俺もだよ、と声には出さず返事をする。
次の瞬間、ちゅ、と額に柔らかな感触があった。まるで、グミのような、マシュマロのような……これは何だ?
しばらく考えたあと、額に触れたものの正体を把握して――俺の意識は一気に覚醒する。体温が急上昇して、かあっと頬に熱がともる。
「……悠太、寝てるよね……?」
しかし、ひかりがそう言うものだから、起きるわけにはいかなくなった。
目を閉じてじっと息を殺していると、今度は頰に唇が落ちてくる。次は瞼に、耳たぶに。俺は全身全霊をかけて、彼女の唇が触れる箇所に神経を集中させている。胸の奥を掻きむしりたくなるような、むず痒い感覚が襲ってくる。
できることなら、本当は今すぐ彼女を抱きしめたい。いつまで経っても触れ合わない唇を、思い切り押し付けたい気持ちだってある。それでもきっと、俺が今目を覚ましたら、彼女は恥ずかしがってキスするのをやめてしまうだろう。それは嫌だ。ものすごく嫌だ。
「悠太、いつも私のためにいっぱい我慢してくれてありがとう……ごめんね……」
ひかりの謝罪に、それは違うぞ、と心の中で答えた。
別に、ひかりのためだけに我慢しているわけじゃない。透の言う通り、俺はひかりにおあずけを食らっているこの状況を、結構楽しんでもいるのだ。めんどくさいひかりに振り回されている自分が、わりと好きなのかもしれない。
まだまだ遠い唇までの距離を、亀の歩みで詰めていくのも悪くない。俺はショートケーキのイチゴを、最後の最後まで残しておくタイプなのだ。
「……ねえ、悠太。まだ起きないでね……」
――仕方ない。彼女の覚悟が決まるまで、もう少しだけ寝たふりをしておいてやるか。
何度も何度も降ってくる彼女の唇は、俺の唇にはまだ届かない。柔らかなものが肌にぶつかるたびに、俺の中にいる獣が暴れ出しそうになる。頼むからまだ起きないでいてくれよ、と眠れる獣に向かって語りかけた。
終
私を嫌いなあなたが大好き 織島かのこ @kanoco
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