明日はきっといつも通りに

 水無瀬が住んでいるのは、数年前に建ったばかりの単身者向けマンションだ。高校から歩いて十分ほどの場所にある。ちなみに俺は、彼女の部屋に足を踏み入れたことは一度もない。

 手ぶらで行くのもなんだと思ったので、先にスーパーに寄ることにした。少し悩んだが、スポーツドリンクと、みかんのたっぷり入ったゼリーと、リンゴを手に取る。購入した後で、水無瀬はリンゴの皮を剥けないかもしれない、と思い至った。……まあ、リンゴぐらい剥いて帰ってやるか。

 そびえたつ鉄筋コンクリートの塊を見上げながら、俺はごくりと唾を飲み込んだ。エントランスに足を踏み入れると、高級感のある大理石の床からひやりと冷たい空気を感じる。高校生の一人暮らしにしては、ちょっと贅沢すぎやしないか。家賃はいくらなんだろう、と下世話なことを考えてしまう。

 当然のことながらオートロックなのだが、部屋番号がわからない。仕方なく、水無瀬に電話をかけることにする。もし電話に出なければ、そのまま帰ってしまえばいい。そう思っていたのだが、数回コール音が鳴ったのち、スマホの向こうから掠れた声が聞こえてきた。


『……ゆうた?』

「よう」

『え、どうしたの……』


 突然の電話に驚いているようだったが、その声は力なく反応は薄い。あまり長く会話をさせるのも申し訳ないと思い、「おまえの部屋どこ?」と本題を切り出した。


『……私の、部屋?』

「今おまえのマンションの前に来てんだよ。顔見たらすぐ帰るから」

『え、悠太が……? うそ……え?』

「いいから早く教えろって」

『い、一三○一号室……』

「わかった」


 エントランスのパネルを操作すると、ほどなくしてオートロックの自動ドアが開いた。エレベーターに乗り込むと、ボタンを押すまでもなく勝手に十三階のボタンが点灯している。なるほど、他の階では降りられない仕組みらしい。新しいマンションだけあり、防犯対策もばっちりだ。

 十三階で降りると、目の前の部屋が一三○一号室だった。インターホンを押す。しばしののち、ゆっくりと扉が開いて、ボサボサ頭の水無瀬がひょっこりと顔を出す。俺の顔を見て、ぱちぱちと瞬きをした。


「……ほ、本物の悠太だ……」

「本物も偽物もあるかよ。入るぞ」


 玄関に足を踏み入れて、後ろ手で扉を閉めた。短い廊下の右手に小さなキッチンスペースがある。左手には扉がひとつあるが、おそらく洗面所とバスルームに続いているのだろう。

 ぐったりと壁にもたれかかった水無瀬は、上下グレーのスウェットを着ている。人に会う用事もないのに可愛い部屋着を着ている女なんてほとんどいない、と昔姉ちゃんが言っていた。


「これ今日のノート、新庄から。ゼリーとリンゴ買ってきたけど、食う?」

「あ、ありがとう……うれしい……」

「リンゴ剥けるか?」


 水無瀬は無言で首を横に振った。まあ、予想通りだ。


「……じゃあ、入るぞ」


 俺がスニーカーを脱ぐと、水無瀬が慌てたように「ま、まって」と声をあげた。そのまま、ずるずるとその場にへたりこんでしまう。ぐったりと力の抜けた彼女を見て、俺はさすがに慌てた。


「おい、大丈夫か?」

「……うう、だいぶ、ましになったんだけど……」

「立てる?」

「うん……」


 水無瀬の腕を掴んでなんとか立たせると、ふらつく身体を支えた。無遠慮に体に触るのは憚られたが、今は非常事態なのだから仕方がない。


「あっ……お、お風呂入ってないからあんまり嗅がないでね……」

「心底どうでもいいわ、そんなこと」


 妙なところで恥ずかしがる水無瀬を支えながら、短い廊下を通って一番奥の扉を開ける。と、視界に飛び込んできた光景に、俺は唖然とした。


「うわっ……きったねえ」


 水無瀬の部屋は、七畳ほどの広さのワンルームだった。広すぎることはないが、学生が一人で暮らすには充分なスペースがあるはずだ。それでも部屋の中にはありとあらゆる物が散乱しており、足の踏み場もなかった。

 玄関に足を踏み入れた時点で、なんとなく嫌な予感がしていたのだ。玄関には靴が五、六足出しっぱなしになっていたし、キッチンの流しには洗い物が山積みになっていた。まあズボラな性格なのだろうなと思ってはいたのだが、それでもここまでひどいとは思わなかった。

 本棚からは雪崩のように漫画や雑誌が溢れている。タンスの引き出しは全部空いており、無造作に放り込まれた服が申し訳程度に引っかかっていた。部屋の片隅では何故か巨大なバランスボールが埃をかぶっている。ローテーブルの上は蓋が開きっぱなしになった化粧品とコンビニ弁当のゴミが共存していた。

 うちの姉ちゃんもすぐに部屋を散らかすタイプだが、これは姉ちゃんの比ではないくらいに酷い。俺は呆れて肩を竦めた。


「……泥棒でも入った?」

「……悠太、適当に座って」

「いや、座る場所ねえよ」


 ソファの上にはビニールに包まれた冬物のコートが積まれている。おそらく、クリーニングから引き取ってそのまま置きっぱなしになっているのだろう。

 今すぐ窓を全開にして掃除をしたかったが、さすがに病人のいる前でそんなことをするわけにもいかない。しかし、こんな部屋にいると余計に具合が悪くなりそうだ。


「最後に掃除機かけたのいつ?」

「掃除機? ……掃除機、この部屋にあったかなあ」

「うわ……風邪治ったら絶っっっっ対掃除しろよ」

「わかったあ……」


 ベッドに潜り込んだ水無瀬の頰は赤く、表情もぼんやりしていて目がうつろだ。……仕方ない、説教は風邪が治ってからにしてやろう。


「水無瀬、なんも食ってねえの?」

「うん……昨日の夜からしんどくてずーっと寝てた。なんで風邪なんかひいちゃったんだろ……」

「ちゃんと栄養取らねえからだよ。おまえ、最近自炊サボってたろ」

「うっ」


 俺の指摘に、水無瀬は目を泳がせた。ローテーブルの上には空になったアイスクリームのカップがいくつか転がっているし、どうせまたアイスばかり食べて過ごしていたのだろう。というか、まずはゴミを捨てろ。


「この家、米ぐらいはあるか?」

「……あ、こないだ残ったごはん冷凍した気がする……」

「冷蔵庫開けてもいい?」

「好きにしていいよ……」


 他人の家の台所を荒らすべからず、は俺のモットーだが、家主のお許しが出たのでキッチンに移動した。流しに置きっぱなしの洗い物を片付けてから、冷蔵庫を開ける。

 幸いにも、パックに入ったままの卵がある。賞味期限はギリギリセーフ。未開封の生姜チューブもあった。野菜室には干からびたナスしか入っていない。冷凍室にはタッパーに入った米と、パックのまま冷凍された刻みネギ。コンロ脇の調味料置き場は意外と充実しており、鶏がらスープの素もある。

 水に鶏がらスープの素と醤油と塩を入れ、火にかけて湧いてきたら解凍した米を投入。溶き卵を加えると弱火にして、刻みネギを加えてしばらく加熱すると、シンプルなおじやの完成だ。

 ほとんど使われた形跡がなさそうなまな板と包丁を出して、リンゴを食べやすい大きさに切ってやる。適当な食器に移すと、おじやとリンゴを水無瀬のところに持っていってやった。


「ほら、食えるか?」


 水無瀬はゆっくりと目を開けると、すんすんと鼻を動かして「わあ、いい匂い」と微笑む。こうしていると、まるで小さな子どものようだ。

 寝転んだまま「あーん……」と口を開けた水無瀬の額を、俺はぱちんと軽く弾いた。触れた箇所が、いつもより熱を持っている。


「バカ。自分で食え」

「へへ、はあい」


 水無瀬は起き上がると、スプーンで熱々のおじやを口に運ぶ。いつものようにへらっと眉を下げて、幸せそうな笑顔を浮かべた。


「おいしい……ほんとにおいしい」


 ……急ごしらえのおじやで、そこまで喜ばれるとちょっと複雑だ。俺の本気はこんなものではない。家族が風邪をひいたときに作る生姜たっぷりのあんかけ卵とじうどんは、母さんと姉ちゃんから大好評なのに。やっぱりスーパーで材料を揃えてくるべきだった、と俺は後悔した。

 水無瀬はあっというまにおじやとりんごを食べ終えると、「ごちそうさま」と手を合わせた。さっきよりも顔色が良くなった気がする。やはり温かいメシの力は偉大だ。


「悠太はほんとにすごいね……何作ってもおいしい」

「……ま、こんなん手抜きだけど」

「ところで悠太、座らないの?」


 ずっと立ちっぱなしの俺を見て、水無瀬は不思議そうに首を傾げた。

 俺だって座りたいのはやまやまだが、この部屋には腰を下ろすスペースすらないのだ。水無瀬もそのことに気がついたのか、さすがに恥ずかしそうに目を伏せた。


「ご、ごめんね……あ、ベッド座ってもいいよ」


 なにげない水無瀬の一言に、俺はぎょっとした。

 たしかにベッドの上にはほとんど物は置かれていなかったし、座ろうと思えば座れる。しかし、女子の一人暮らしの部屋に来て、彼女が寝ているベッドに腰を下ろすほど、俺はデリカシーがないわけではない。


「滅多なこと言うなよ。危機感なさすぎるぞ」

「え?」

「女の部屋来て、ベッドに座るのはまずいだろ」


 俺の言葉の意味を、水無瀬はしばらく考えているようだった。ぱちぱちと瞬きをして――はっと目を見開いた水無瀬は、真っ赤になって布団に潜り込んでしまった。


「ゆ、悠太もそんなこと考えるの!? ばか! えっち! 信じてたのにひどい!」

「バッ……何言ってんだ! こんな部屋じゃ勃つもんも勃たねえよ!」


 意外な反応に、俺は泡を食って否定する。前々から思っていたが、水無瀬はちょっと潔癖すぎるきらいがある。自分に好意のある男に触れられるのが嫌いだというのも、このあたりの潔癖さが要因なのだろうか。

 布団から顔を出した水無瀬は、むーっと頰を膨らませて俺を睨みつけている。風邪をひいているせいか、今日の水無瀬はなんだかいつもより幼く見えた。

 この部屋は窓が西向きらしい。いつのまにか日は暮れかけていて、カーテンから差し込むオレンジ色の光が水無瀬の顔を照らしていた。風邪でボロボロの状態でも、この女は怖いくらいに美しい。

 ポケットに入れていたスマホを出して時間を確認すると、水無瀬がおずおずと尋ねてきた。


「……悠太、もう帰るの?」


 なんだか、やけに不安げな口調だ。うちの姉ちゃんもそうだが、どんなに傍若無人な人間でも、風邪を引くと少々しおらしくなるらしい。

 俺は仕方なく「もうちょっとだけいる」と答えた。ベッド脇の床になんとか座るスペースを作って腰を下ろすと、水無瀬はほっとしたように頰を緩めた。


「ねえ悠太」

「なに?」

「私が寝るまで、手握っててほしい……」

「はあ?」


 いつもよりも赤い顔をした水無瀬が「ん」と手を伸ばしてくる。ぱちんとはたき落とそうとしたけれど、そのままぎゅっと手を握り締められてしまった。

 水無瀬の指は細くて長いけれど、手は俺よりも小さくて柔らかい。俺の手を離すまいとしっかりと捕まえているそれは、熱のせいかかなり温度が高かった。


「……男に触られんの嫌なんだろ」

「私のこと好きな男の人に、ね。だから悠太は大丈夫」


 くすくす笑った水無瀬は、まるで小さな子どものように、安心しきった表情を浮かべている。「それに、悠太はこんな部屋じゃ何も感じないらしいから」と拗ねたように付け加えられた。

 ああ、そうだよ。こんなゴミ溜めのような部屋で、好きでもない女に手を握られたところで、何も感じないに決まっている。……そうでなければ、困る。

 触れた部分の温度が次第に上がっていって、水無瀬の手からどんどん力が抜けていく。ついに手と手が離れてしまった頃には、彼女はすやすやと穏やかな寝息をたてていた。


「……明日は学校来いよ。おまえがいないと、新庄がうるせーんだよ……」


 口から飛び出した言葉はやけに言い訳がましく響いたけれど、きっと彼女の耳には届いていないだろう。だらりと垂れ下がった手を緩く握りしめると、なんか調子狂う、と呻くように呟いた。

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