「おもしれー女」

 十月に入り、我が校でも衣替えの季節になった。気候により多少の自由は効くが、基本的にはブレザーとネクタイを着用しなければならない。

 クローゼットを開くと、かけっぱなしになっていた赤いネクタイを手に取った。俺のものではない、水無瀬のものだ。水無瀬が俺の青いネクタイを締めている姿も、もう見慣れてしまった。

 ……仕方ない。校則違反をするよりマシだ。

 カッターシャツの襟を立てて、ネクタイを手早く締める。俺の首元に収まった見慣れない赤色は、嫌でも水無瀬の存在を思い知らされて、なんだか少し息苦しかった。

 ――あいつの両手は今も俺の首にかかっていて、いつでも俺を絞め殺すことができるのだ。告白をしたあの日から、ずっと。

 そんな物騒な想像をしながら、俺が彼女にトドメをさされるのはいつになるのだろうか、とぼんやり考えていた。



 俺が週一で掃除をしている書道部の部室は、日増しに生活感が増していた。いつのまにか水無瀬があれやこれやと物を持ち込んでいたせいだ。

 畳の上には菓子類や雑誌、あげくに巨大なビーズクッションまで置かれている。水無瀬がいろんなものをあちこち散らかすので、俺は定期的に「出したものはすぐに定位置に戻せ」と叱りつけている。

 今日の昼休みは、透が「彼女と学食で昼メシ食うから」と言ったので、水無瀬と二人になってしまった。もっとも俺も以前ほどは、彼女と二人きりの空間が苦ではなくなっている。


「ごちそうさま! 今日もおいしかったあ」


 俺の作った弁当をすっかり平らげた水無瀬は、満面の笑みで両手を合わせた。相変わらず、ガサツな本性からは想像ができないくらい綺麗な食べ方をする女だ。


「悠太のごはん、ほんとに全部美味しいよねー。もう最近は、お弁当食べるために学校来てると言っても過言じゃないよ!」

「おまえ、ちゃんとメシ食ってるんだろうな」

「昨日の晩御飯は玉ねぎ丸ごとチンしてお醤油かけて食べた!」

「原始的な……いや、美味いけどさ」


 先週風邪でぶっ倒れたばかりなのだから、もう少し栄養バランスを考えて欲しいのだが。まあ、晩飯をアイスを済ませるよりはマシだろう。


「ところで水無瀬、部屋掃除した?」


 俺の問いに、水無瀬はぎくりと表情を強張らせた。頰をひくひくと引き攣らせながら、「……そのうちに」と曖昧に答える。俺はジト目で彼女を睨みつけた。


「あのなあ……」


 あの魔境のような部屋を訪れてから、俺は口をすっぱくして「早く掃除しろ」と繰り返している。あんなところでずっと生活していたら、俺なら気が狂う。


「べ、別に部屋が散らかってても死なないもん! ちゃんと生活できてるし、快適だよ!」

「あんな部屋に住んでるから風邪ひくんだよ! こっちが病気になるかと思ったわ」

「しゅ、週末に! 週末にやります!」


 水無瀬はそう言って、「もうこの話終わり!」と強引に話題を打ち切った。俺も渋々追求を止める。

 水無瀬は気まぐれな猫のようなもので、構え構えと寄ってくることもあれば、自由に好きなことをしている日もある。今日は後者らしく、鞄から漫画の単行本を取り出すと、ぽすんとクッションに身体を預けて読み始めた。最近クラスで回し読みされている、長編の少女漫画だ。

 俺がスマホのパズルゲームをしていると、水無瀬は「うーん」と唸って漫画を閉じた。手にしているのは三巻だ。全三十巻くらいあるらしいし、まだ序盤もいいところだろうに。

 水無瀬は俺のところまでやって来ると、「ねえねえ」と制服の袖を引いた。どうやら構ってモードに突入らしい。俺はスマホから目を離さずに「なに」と答える。


「なんで少女漫画のヒーローは、主人公のことを好きになっちゃうんだろう?」

「はあ?」


 手元が狂ってミスをしたので、そのままゲームのアプリを落とした。水無瀬は不満げに眉を寄せて、上目遣いにこちらを見つめてくる。


「アキトも最初は全然みなみに興味がなくて塩対応だったのに、なんかどんどん『おまえのことほっとけない』とか言い出して……」


 アキトとみなみ、というのはさっき水無瀬が読んでいた漫画の登場人物だろう。ストーリーはたしか、女子に興味のないクールなイケメンと、そんなヒーローに健気な恋をするヒロインのラブコメディだったはずだ。姉ちゃんもその漫画を買っており、人気アイドル主演で実写化された際は映画館にまで足を運んでいた。ちなみに、置き場所がない、と言って今は俺の部屋の本棚に押し込まれている。


「なんでアキトは、みなみが雨の中追いかけてきたくらいで好きになっちゃうの?」

「いや……好きにならないと話進まねえだろ」

「……私は一巻の、みなみに興味がなくて心底嫌そうな顔してるアキトが好きだったのに……ほら見てよこの顔、口では『ばーか』とか言いつつ完全にデレてるよ……恋する男の顔だよ……」

「おまえ、少女漫画読むの向いてねえよ。それならクズヒーローにヒロインがボロボロにされる漫画でも読めば。よくスマホの広告で出てくるやつ」

「違うの! 精神的にキツい話が読みたいわけじゃなくて、ほのぼのハッピーエンドがいいの! でも両想いになって欲しいわけじゃないの!」


 つくづく思うが、水無瀬の嗜好はめんどくさい。

 俺は溜息をつくと、水無瀬が持っている単行本を奪って開いてみた。ちょうどイケメンヒーローが、「おまえと一緒にいると飽きないよ」と言っているシーンだった。ヒロインの「それってどういう意味?」という問いには答えず、ただ黙って微笑んでいる。たしかにこれは、完全に陥落してしまっている――恋する男の顔だ。


「まあアキトは三巻まで頑張ったからね、粘った方だよ。女子に興味のないヒーローが、一話で『フン、おもしれー女』ってなるパターンもあるもん。こっちは全然面白くないよ!」

「そういうのが好きな奴が多いから流行ってんだろ。おまえがマイノリティなんだよ」

「その点悠太はいいよね……いつまでたっても私のこと好きにならないもん」


 水無瀬はそう言って、あぐらをかいている俺の膝にごろんと頭を預けてきた。いわゆる膝枕の体勢だ。仰向けになった水無瀬が俺の顔を下から見上げて、「えへへ」とだらしなく笑う。他の連中には決して見せない間抜けヅラ。


「私ね、今すごく幸せ。ほんとはずーっと、少女漫画みたいな恋したかったから。自分のこと好きじゃない人と付き合えるって幸せだなあ……」

「あ、そ」

「悠太、私の彼氏になってくれてありがとう」


 水無瀬はそう言って、屈託のない笑みを浮かべた。俺に向かってそんなことを言う変人は、世界中のどこを探しても水無瀬ひかりしかいない。

 ……それならば、少しくらいは付き合ってやってもいいじゃないか。どうせこの歪な関係が、ハッピーエンドを迎える日は来ないのだ。


「……別に、俺もおまえといると飽きねえし」


 そんなことを口にしてから、はっとした。意図したわけではないのだが、少女漫画のヒーローと同じようなセリフを口にしてしまった。慌てふためいた俺は、しどろもどろに弁明をする。


「いや、今のはそういう意味じゃなくて」

「そういう意味ってどういう意味?」

「…………」


 水無瀬の質問に、俺は答えることができない。アーモンド型の瞳に映る自分の顔は、さっきのヒーローのように優しげなヒーローのように優しげな笑みを浮かべてはいなかった。そうだ、俺はこの女に陥落てなどいない。

 ほっとけない、一緒にいると飽きない、面白い。そんな理由でヒロインに恋をするヒーローの気持ちなんて、俺にはわからない。わかるはずもない。

 俺が勢いよく膝を立てると、頭を乗せていた水無瀬は「ぎゃっ」と叫んで畳の上にゴロゴロと転がる。頭を押さえて「ふぐぅ」と呻いている水無瀬は、俺にとってはそれなりに「おもしれー女」だった。

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