なすび記念日

 柔らかな花の香りを含んだ温かな風が吹き、青々とした葉が陽光にきらきらと照らされる春の盛り。四月十七日の空は、雲ひとつない爽やかな快晴だった。さすが神に愛されし美少女・水無瀬ひかりの誕生日である。

 俺は一ヶ月前から水無瀬に「クイズです! 四月十七日は何の日でしょうか!」「ヒントはねえ、悠太の可愛い彼女に関係がありまーす!」などと猛アピールを受けており、興味なさげに「なすび記念日」などと答えたりしていたのだが、実のところしっかり覚えていたし、ちゃんと準備もしていた。

 ちなみに新庄は、机の上に手製のアドベントカレンダーを置いてまで、水無瀬の誕生日をカウントダウンしていたので、さすがにあいつには勝てる気がしない。奴は俺の恋人のことを、イエスキリストかなんかだと思ってるんだろうか。


 俺は週末になると、午前中のうちに家事を片付けて、午後から水無瀬の部屋に行くことにしている。しかし彼女の誕生日である今日は、朝六時に起きてしかるべき作業をしたのち、家族の朝食を用意し、洗濯を済ませ、お掃除ロボを回して、午前九時に家を出た。いつものように、自転車に乗って水無瀬のマンションへと向かう。

 二人で出かけるときは外で待ち合わせをせず、俺が水無瀬の部屋まで迎えに行くことがほとんどだ。目を惹く美人である水無瀬ひかりは、人の多い駅前に立っているとそれだけでナンパの餌食になってしまう。

 マンションのエントランスに入ると、合鍵を使ってオートロックを解除した。二ヶ月前に水無瀬から渡された合鍵には、目の大きな犬のような生き物のキーホルダーがついている。

 エレベーターに乗って彼女の部屋まで来ると、合鍵は使わずインターホンを押した。着替え中という可能性もあるからだ。


「はーい! 入っていいよー!」


 扉の向こうから声が聞こえたので、遠慮なく鍵を使って中に入った。入ってすぐのキッチンにある冷蔵庫に、持ってきた箱を押し込む。そのまま、廊下の向こうにあるリビングスペースに足を踏み入れた。


「悠太、おはよう!」


 その瞬間。眼前に現れた美少女を見た俺は、唖然とした。ぱちぱちと瞬きをしても消えないので、きっと幻ではないのだろう。


「…………オフショル?」

「イエス、オフショル!」


 水無瀬が着ていたのは、肩から鎖骨が剥き出しになるようなオフショルダーのドットワンピースだった。

 俺と出かけるときの水無瀬は、カジュアルなTシャツやビッグサイズのパーカー、デニムなどを身につけていることが多い。もちろんTPOに応じてきれいめな格好をしていることもあるが、それでも肌の露出をすることはほとんどない。背中も臍も脚も絶対出さない、防御力の高そうな格好をしていた。

 しかしこれはどうだ。華奢な肩から綺麗な鎖骨、胸元に続く真っ白い肌まで惜しみなく曝け出されている。普段の防御力が100ならば、今日の装備は30ぐらいだろう。


「こないだ思い切って買っちゃったんだー! どう? 可愛い? 似合ってる?」


 とても似合っているし、俺の彼女は世界一可愛いに決まっている。が、もし素直にそう伝えた場合、盛大に照れて「やっぱり着替える!」なんてことを言いかねない。本心の一割ぐらいの感情を込めて「まあまあ」と答えた。


「……おまえがそういう格好すんの、珍しいな」

「うん、たまにはいいかなーと思って! だって、悠太が一緒だもん!」


 リビングの蛍光灯という名のスポットライトを全身に浴びた水無瀬は、その場でくるりと華麗に一回転する。空気を含んだスカートがふわりと膨らんで、まるで映画のワンシーンでも観ているかのような錯覚に陥る。

 水無瀬が普段露出の少ない格好をしているのは、異性から性的な目で見られるのを極端に嫌うためである。本当は周囲の目など気にせず、好きなようにお洒落をしたかったのかもしれない。

 そんな水無瀬が「俺の隣なら好きな格好ができる」と言ってくれることに、なんとも言えずくすぐったいような気持ちになる。全身全霊で彼女のことを大事にしてやりたい、という小っ恥ずかしい感情の中に、そんなに安心してくれるなよ、という仄暗い感情が隠れている。


「じゃ、行こっか!」


 しかし満面の笑みで手を差し伸べてくる水無瀬の顔を見ると、「この笑顔、守りたい」という感情が全てを支配してしまうのだ。

 差し出された手を強く握りしめた俺は、そのままマンションを後にする。いつも以上に周囲に睨みを効かせながら、彼女と手を繋いで歩く。水無瀬の下がった防御力は、そのぶん俺がカバーしてやればいい。


 事前に相談した結果、水無瀬の誕生日プレゼントは二人で買いに行くことになっていた。俺は己のセンスをそこまで信頼していなかったし、水無瀬が自分で欲しいものを選んだ方がいいと思ったからだ。

 俺たちが向かったのは、繁華街にあるファッションビルだった。水無瀬は「どうしよう! 全然決められない!」と嬉しそうに叫びながら、ありとあらゆる売り場に俺を引っ張っていった。

 姉ちゃんの荷物持ちに付き合わされるのはうんざりだが、相手が水無瀬だとまったく嫌な気持ちにならない。水無瀬が楽しそうにしているのを見るのはいいものだ。


「ねえ、これ可愛いよね? あーっ、でもこっちの色もいいなあ……ねえ、悠太はどっちがいいと思う?」


 バッグも靴もリップもネイルもアクセサリーも、どれもこれも彼女に似合いそうで大変困る。本当は全部買ってやれればいいのだが、小遣い暮らし(一応、日々の家事による労働の対価ではある)の俺にそんな財力があるはずもない。


 結局昼過ぎまで水無瀬はプレゼントを決められず、とりあえず昼飯を食うことにした。洒落たカフェを事前に予約していたため、土曜の昼時でもスムーズに入ることができた。「彼女の誕生日にそのへんのファーストフードでランチなんてありえない!」(※あくまでも姉個人の感想である)と言った姉ちゃんに教えてもらったのだ。持つべきものはおせっかいな姉である。

 通されたのは窓際のソファ席だった。そのとき店の外を通過した見知らぬ男が、大きなガラス窓越しに水無瀬を(さらに具体的には彼女の真っ白い肩を)見ていることに気付いた。水無瀬も無遠慮な視線を感じたのか、居心地悪そうに両手で肩を抱く。


「……あー。ちょっと冷房効きすぎか?」


 俺はそう言って、着ていた黒のカーディガンを水無瀬の肩にかけてやった。窓の向こうにいた男が、忌々しそうな表情で去っていくのが見える。水無瀬はほっとしたように頰を緩めた。


「ありがと、悠太……」

「なにが?」

「……悠太ってさ、こういうとこ結構スマートだよね。ソツがないって言うか……このお店もすごくオシャレだし……なんか慣れてる?」


 しかし、何故だか水無瀬は不満そうである。ぶすくれた表情で、桃色の唇をむーっと尖らせている。


「なんだよ。それの何が悪いんだ」

「ううん、悪くない! 悠太は何も悪くないんだけどぉ……私が勝手にめんどくさいこと考えてるだけ……」


 水無瀬はそう言って、しょんぼりと悲しげに目を伏せた。

 そんなこと、わざわざ言われなくてもわかっている。目の前のめんどくさい女はきっと余計なことを考えているのだろう。なんで俺がこんな店知ってるのかなとか、誰かと来たことがあるのかなとか。

 拗ねた顔つきでアイスコーヒーのストローをぐるぐる掻き回している水無瀬に向かって、俺は溜息混じりに返した。


「この店は姉ちゃんに教えてもらっただけだし、必死で背伸びして無理して、慣れないなりにスマートを装ってんだよ。おまえの誕生日だから」

「悠太……」

「……てか、わざわざこんなこと説明させんなよ……カッコ悪いだろ」


 この面倒な女は、格好さえもつけさせてくれない。ふてくされた俺を見た水無瀬は、眉を下げて「ふへへっ」と間抜けな顔で笑う。

 ……仕方ない。その笑顔が見れたなら、多少恥ずかしい思いをしてもいいか。


「……で、結局プレゼントどうするんだよ。早く決めねえと日が暮れるぞ」

「あっ。うーん、そうだなあ……ねえ、さっきのアクセサリー屋さんもっかい見てもいい?」

「わかった」


 そのとき、注文した料理が運ばれてきた。メイン料理にサラダとスープがついた、ランチセットだ。ナスとベーコンのトマトソースパスタを、水無瀬は「美味しい!」と幸せそうに食べている。

 彼女の喜ぶ顔が見られるのは嬉しいけれど、俺の作ったもの以外を美味そうに食べているのは、ちょっと複雑だ。トマトソースを口に運びながら、これ中に何入ってんのかな、などと考える。


「……昼食いながらする話でもねえけど……晩飯はどうする? どっかで食う?」

「ううん! 悠太の作ったごはん、食べたい!」


 俺の質問に、水無瀬は笑顔で即答した。ただそれだけのことで、どうしようもなく張り切ってしまう俺は単純だ。今夜は水無瀬の好きなものを、とびきり気合を入れて作ってやることにしよう。

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