絶対好きにならないでね

「おはよう、悠太!」


 焦茶色のセミロングを揺らした美少女は、俺の顔を見るなり花が咲いたような笑みを浮かべた。まだまだ残暑は厳しいのに、一学期と変わらず長袖のカッターシャツとベストを着ている。俺のものだった青いネクタイは、元の持ち主の存在を忘れてしまったかのように自然に首元におさまっていた。

 夏休みが終わり、新学期が始まってからはや一週間。休み明けには「まだ別れてなかったのか」という落胆の声があちこちから聞こえてきたが、驚くべきことに水無瀬はまだ俺に飽きないらしい。毎日水無瀬が俺に構ってきて、俺はそれを冷たくあしらい、水無瀬がその対応に喜ぶ、というマッチポンプの関係が続いている。


「ねえねえ悠太、今日のお弁当は?」


 瞳をきらきらと輝かせながら、水無瀬が俺の顔を覗き込んでくる。無言で弁当袋を押しつけると、水無瀬は満面の笑みでそれを受け取った。「ありがとー!」と抱きついてこようとする彼女をひらりとかわして、俺はスタスタと歩き出す。


「もう、つれない! そういうところが好き!」


 追いついてきた水無瀬が、俺の腕にぎゅっとしがみついてくる。俺はいつものように乱暴にそれを振り払うと、「遅刻するぞ」と言って歩くスピードを早めた。いつのまにかもう慣れっこになってしまった、朝の光景だ。

 恥ずかしげもなく好意を振り撒いてくる水無瀬を横目に見ながら、果たしていつまでこの関係が続くのだろうか、と俺は考える。悠太に好きな人ができるまで、と水無瀬は言っていた。現状俺は誰かに恋情を抱く可能性は著しく低いので、そうなると水無瀬が俺に飽きるときがこの関係の終わりだろう。そのときまで、もうしばらくの辛抱だ。



 俺と一緒に昼飯を食べない日は、水無瀬はいつもクラスの女子数人と教室で弁当を食っている。しかし、今日の彼女は少し様子が違った。

 昼休みの開始を知らせるチャイムが鳴るなり、水無瀬は形の良い眉を寄せて、憂鬱そうに溜息をついた。意を決したようにぐっと唇を引き結んで、立ち上がる。


「ひかりちゃーん、どうしたの? お昼食べようよ」

「ごめん、先に食べてて! 私、ちょっと用事があって」


 女友達に呼び止められた水無瀬は、申し訳なさそうに両手を合わせる。教室を出る前に、ちらりとこちらに視線を向けた。俺を見つめる宝石のような瞳が、どこか不安に揺れているように見える。俺が反応を返せずにいると、水無瀬は俺に向かって力なく手を振って、そのまま教室を出て行った。


「おーい悠太、メシ食わねえの?」


 透たちに声をかけられて、俺は「あー」と生返事をする。ほっておけばいいのだが、最後に見た水無瀬の表情が気にかかった。俺の思い違いかもしれないが――なんとなく、助けを求められているような気がして。


「……俺、ちょっと飲み物買ってくる」


 俺はそう言うと、水無瀬の後を追うように教室を出る。彼女の後ろ姿は、もうとっくに見えなくなっていた。

 キョロキョロと周りを見回しつつ廊下を歩きながら、何やってんだ俺は、と自嘲する。別に俺があいつを気にかけてやる必要はないし、あいつだって俺に優しくされることなど望んでいないというのに。


 多くの生徒が群がる購買を通り過ぎると、人の気配はぐっと少なくなる。俺が水無瀬に告白した校舎裏まで来たところで、彼女の姿を見つけた。一人ではなく、見知らぬ男と向かい合っている。人気の少ないここは、この学校では有名な告白スポットなのだ。

 ぴんとまっすぐ背筋を伸ばした水無瀬は、真正面から男の顔を見据えている。口元は笑みの形を作っていたけれど、焦茶色の瞳は氷のように冷たかった。花火大会の日に一人で俺を待っていたときと同じような、他人を拒絶するオーラを放っている。


「それで、話ってなに?」

「あの、僕実は、水無瀬さんのことがずっと好きで」


 そんなやりとりが聞こえてきて、やっぱりな、と俺は肩を竦める。盗み聞きをするようで気が引けたが、反射的に身を隠してしまった。


「その、よかったら付き合ってもらえないかな、と思って」


 俺に背を向けている男の顔は見えなかったが、やけにオドオドとした小さな声だった。小さな背中は自信なさげに丸まっており、難攻不落の水無瀬ひかりに突撃するタイプには見えない。


「ごめんなさい。私、今お付き合いしてる人がいるから」


 長い睫毛を伏せた水無瀬は、やや申し訳なさそうにしながらも、男の告白をぴしゃりとシャットアウトした。

 それじゃあ、と水無瀬はその場から立ち去ろうとしたが、男は引き下がらなかった。「待って!」と声をあげて、水無瀬の細い腕をがしりと掴む。その瞬間、水無瀬の肩がびくりと大きく揺れた。


「彼氏って、上牧くん? のことだよね。あの目つきが悪くて無愛想で、ちょっと地味で冴えない感じの」


 男の発言に、俺はさすがにカチンときた。俺が無愛想で地味で冴えないのは本当のことだが、見知らぬ男にそんなことを言われる筋合いはない。

 水無瀬はいつもの凛とした姿はどこへやら、掴まれた腕を凝視しながら、震える声で「やめて」と言った。しかし、男は聞く耳を持たない。


「なんで上牧くんは良くて、僕はダメなんだよ。同じだろ。僕と上牧くんの、一体何が違うの?」

「さ、触らないで」


 男は必死さを滲ませながら、水無瀬に食い下がる。じりじりと迫ってくる男に、水無瀬は真っ青になって後ずさった。明らかに、水無瀬の様子がおかしい。たかが腕を掴まれているくらいなのに、なんだか尋常ではないくらいに怯えている。まるで肉食獣を目の前にした、草食動物のようだ。


「水無瀬!」


 見ていられなくなった俺は、思わずそう呼びかけていた。はっと我に返ったように目を見開いた水無瀬が、男の手を振り払う。一目散に俺の胸に飛び込んできた水無瀬を、俺は戸惑いながらも受け止めた。セミロングの髪からふわりと甘い香りが漂ってくる。


「何やってんの?」


 この質問は、男に向かって投げかけたものだった。正面から見た男の顔は、俺と似たり寄ったりの地味な風貌をしている。


「……なんでもない。ごめん、水無瀬さん」


 男はそう言って、そそくさと逃げるように去って行った。口を出したはいいものの、俺は生まれてこのかた喧嘩なんてしたことがない。逆上されなくてよかった、と胸を撫で下ろす。


「……おい、行ったぞ」

「う、うん……ありがとう」


 水無瀬はそう言いながらも、俺の胸にぎゅっとしがみついてくる。引き剥がそうかと思ったが、その背中が小刻みに震えていることに気付いて、結局されるがままになっていた。


「あれ、誰?」

「ほとんど知らない六組の人……なんか、話があるって呼び出されて。おとなしそうな子だったのに、まさかあんなことされるなんて……」


 そう言って溜息をついた水無瀬は憔悴しきっており、どうやらかなりダメージが大きかったらしい。少し悩んだが、俺は水無瀬に向かって問いかける。


「おまえ、もしかして……男に触られんの苦手なのか?」


 思い返してみれば、かつて摂津に肩を触られたときも、嫌悪感を露わにしていた。俺に対してはベタベタしてくるが、他の男に対しては一定の距離を保っている。水無瀬は俺の胸に顔を埋めたまま、こくりと頷いた。


「……私のこと好きな人に、触られるのが嫌なの。すごく怖いし、気持ち悪いって思っちゃう」

「……今この状況はいいのかよ」

「だって、悠太は私のこと全然好きじゃないし、それに悠太は断りなく私に触ってきたりしないから」


 水無瀬はそう言うと、ようやっと俺の胸から顔を上げた。じっと俺の目を見つめると、心底安堵したように目を細めた。


「悠太と一緒にいると安心する」

「……そうかよ」

「同じじゃない。やっぱり悠太は他の男の子とは、全然違うよ」


 きっぱりとそう言い切った水無瀬は、そっと俺の胸に頭を預けながら、小さな声で呟いた。

 

「……だから悠太は、私のこと絶対に好きにならないでね」


 もうすっかりお馴染みになってしまったセリフに、俺はいつものように「ならねえよ」と答えてやる。そうすると、彼女が心底嬉しそうに笑うこともわかっている。ああ、なんてくだらない茶番なんだろうか。


「あーあ。悠太と付き合い始めてから、告白されることもほとんどなかったのになあ……」


 水無瀬が溜息混じりに言った。ほとんど、ということはゼロではなかったのだろう。あれだけ一緒にいたのに、俺は何も知らされていなかった。なんだかむかっ腹が立ってきた俺は、水無瀬の額を人差し指で軽く弾く。


「イタッ」

「……あのなあ。そんなに告白されんのが嫌なら、今度から一言俺に言えよ。ついてってやるから」

「え、でも……」

「普段は用もないのに寄ってくるくせに、なんでこういうときだけ遠慮すんだよ。意味わかんねえ。んなもん、いくらでも俺のこと利用すりゃいいだろ」


 こちらを見上げていた水無瀬は、しばらくぱちぱちと瞬きをしていたが、やがて小さな声で「……いいの?」と問いかけてくる。俺が無言で頷くと、ぎゅっと勢いよく抱きついてきた。俺の口からグエッというカエルが潰れたような声が出る。背骨、折れるかと思った。


「ありがとう! 悠太、だーいすき!」

「ば、馬鹿力……」

「あ、そろそろ教室戻ろう! 早く悠太のお弁当食べたくなっちゃった! 今日は何かなあ」


 水無瀬は明るく言うと、ようやく俺から離れてくれた。どうやら、やっと普段の調子を取り戻したらしい。俺の腕を掴んで、「早く早く」と無邪気に笑いかけてくる。

 この妙な関係が終わりを告げるのは、俺が他に好きな人ができたときと、水無瀬が俺に飽きたときのどちらかだと思っていた。しかし今この瞬間、俺の頭に浮かんだのはもうひとつの可能性だった。

 ――もし俺が水無瀬のことを好きになってしまったら、この関係はいとも容易く壊れてしまう。

 そんなことはありえないとわかっているのに、どうしてこんなに胸がざわめくのだろうか。俺はおかしな考えを振り払うように頭を振ると、ずるずると水無瀬に引きずられるようにしながら教室へと歩いていった。

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