美少女の化けの皮
朝起きると、縛られていた手首がうっすらと赤い痕になっていた。
俺が暴れたから悪いのだが、やはりビニール紐で縛るのはまずかったらしい。もし次の機会があるならば、もう少し柔らかい素材で縛ってもらうことにしよう。そんな機会、できれば二度と訪れないでほしいが。
昨日はいつもより帰りが遅くなったせいで、弁当の仕込みをする余裕がなかった。みっつの弁当箱に、適当に作り置きのものを詰め込む。ひかりのぶんだけ、鶏の唐揚げをひとつ多く入れた。
誰にともなく「行ってきます」と声をかけてから、スニーカーを履いて外に出る。すると、ひかりがどんよりと暗い顔で立っていた。
「おはよう、悠太……」
表情には陰があるが、昨日あんなに鼻水を垂らして泣き喚いていたとは思えないほど、美しい顔をしている。目元が腫れないようにと、きちんと冷やしてやったのが功を奏したのだろうか。
しかしひかりは、完璧に整った顔を憂鬱そうに歪めていた。俺にもたれかかりながら「はああああ」と深い溜息をついている。
「おい、ちゃんと歩けよ」
「うん……」
「昨日のこと、まだ落ち込んでんのか? 気にしなくてもいいって言ったろ」
「うん、それもそうだけど……烏丸さんのことも……」
「烏丸?」
「私としたことが、あんなに怒鳴っちゃって……一応ちゃんと謝った方がいいよね……」
「別にいいだろ。おまえは何も悪いことしてねえんだから」
「でも、私にもこれまで培ってきた完璧美少女としての立場ってものがあるから……」
「なんだよそれ」
「私、みんなの前でカッコつけてヒロインぶって、〝他の女の子の気持ちを止める権利なんてないから……〟とか言っちゃってるんだよ!? ああ、恥ずかしすぎるよお……」
相変わらず世間体を気にするめんどくさい奴だ。水無瀬ひかりの化けの皮なんて、もうとっくに剥がれかけているというのに。ひかりに憧れていた男どもからも、「水無瀬さんって意外と面白いよな」という声を、ちょくちょく聞くようになっている。
「はあ、やだなあ……こんなことあんまり言いたくないけど、やっぱり私あの人のこと苦手だよ……」
「……」
「それにしても、なんで烏丸さんはあんなに徹底して私の真似するんだろ……私、何か嫌われるようなことしたかなあ?」
「……いや、どう考えても逆だろ」
「え?」
俺の言葉に、ひかりは怪訝そうに眉を寄せて首を傾げる。俺は「さっさと行くぞ」と手を掴んで、「いきたくなあい」と軟体動物のようにフニャフニャになっているひかりを引きずるように登校した。
学校に着く頃には、フニャフニャだったひかりは別人のようにシャキッとしており、表情も賢そうにキリッとしていた。相変わらず、凄まじい擬態能力だ。
二人で教室に入ると、既に自席に座っていた烏丸百合花が、こちらに気付いてはっと目を見開いた。気まずそうに目を伏せたひかりは、俺の制服の袖をぎゅっと握る。
「おはよう水無瀬さん、上牧くん! 今日も二人が仲睦まじいのは素晴らしいことだな!」
微妙な空気を吹き飛ばすように、新庄が朗々とした声でいつもの挨拶をしてきた。ひかりは勢いに気圧されつつも、笑顔を作って「おはよう」と答える。
ひかりの顔をまじまじと見つめた新庄は、心配そうにさっと表情を曇らせた。
「……水無瀬さん、今日はいつもより目が腫れていないか!? 何かあったのか!?」
「なんでそんな些細な変化に気付くんだよ……気持ち悪いな」
「……ありがとう新庄くん、大丈夫だよ」
「しかし……」
ひかりを気遣う新庄を押し退けるようにして、烏丸がこちらに歩み寄ってきた。ひかりの前で足を止めて、「あの……」と口籠っている。ひかりも謝るタイミングを見計らっているのか、両手を胸の前でモジモジさせていた。
「ひかりに話があるなら、俺が聞くけど」
俺が口を挟むと、烏丸は一瞬不愉快そうに眉を顰めた。しかしすぐにニコッと口角を上げて、媚びるような笑みを向けてくる。
「どうしたの? 上牧くんの方から話しかけてくれるなんて、珍しいね」
「好きで話しかけてるわけじゃねえけどな。どのみち、おまえとはちゃんと話つけるつもりだった」
「何の話?」
「ひかりのことだよ」
「……わかった。じゃあ、昼休みにしましょ」
烏丸は頷くと、ロングヘアを翻して自席へと戻っていく。ひかりはオロオロしながら、俺の顔と烏丸の後ろ姿を交互に見比べていた。
一部始終を神妙な顔で見守っていた新庄は、「上牧くん、修羅場か!? 水無瀬さんを泣かせたら承知しないぞ!」と憤っていたが、俺はそれを無視した。
昼休み。いつもの書道部部室でひかりと二人で昼飯を食っていると、烏丸が姿を現した。ひかりの私物が大量に持ち込まれ、完全にプライベートスペースになっている部屋を、烏丸は物珍しそうに眺めている。
「……すごいね。こんな場所二人占めしてたの?」
「たまに他の奴も来るけど。烏丸、昼メシ食ったのか」
まだ昼休みが始まってから五分も経っていない。俺の問いに、烏丸はかぶりを振った。
「私、いつもお昼ごはん食べてないから」
「は? ちゃんと食えよ。俺、メシ食わない奴が一番嫌いなんだけど」
嫌悪感を露わにした俺に、烏丸は何も答えず、小さく肩を竦めて微笑む。どこか小馬鹿にしたような仕草に、別にあなたに嫌われても構わない、と言われているような気分になった。
「そのお弁当、上牧くんに作ってもらってるの?」
「う、うん……」
「へえ。何が入ってるのかな。水無瀬さん、いつもどんなもの食べてるの?」
ひかりの弁当箱の中身を、烏丸が覗き込んでくる。無遠慮にじろじろと観察されて、ひかりはさっと弁当を隠した。もしや弁当を取られるのでは、と不安になったのかもしれない。
そんなひかりを見た烏丸は、「ごめんなさい。どうぞ、ゆっくり食べて」と苦笑した。
俺とひかりが弁当を食べ終わるまで、烏丸は退屈そうにしながらも、律儀に待っていてくれた。弁当箱を片付けたところで、俺は居住まいを正して、本題に入ることにした。
「烏丸」
「なあに?」
「おまえ、俺のこと嫌いだろ」
持って回った言い方はせず、直球で指摘した。烏丸に貼り付いていた笑みがスッと消えて、能面のような表情になる。俺の隣で、ひかりが「どういうこと?」と目を丸くした。
「言葉通りだよ」
「で、でもだって、あんなに悠太にぐいぐい来てたのに……」
「もし本気で俺のこと狙ってるなら、男を落とすの下手すぎだろ。あいつが俺に構うのは、俺がひかりの彼氏だからだよ」
ひかりは少し考えるそぶりを見せたあと、「ああ、そういうこと……」と呟いた。唇を歪に歪ませて、氷のように冷ややかな目つきで烏丸を睨みつける。
「……私の真似して、私のものを奪おうとして楽しい?」
「え」
「そんなに私のことが嫌いなの? 私、あなたに何かしたかな?」
必死で平静を装っているようだが、震えた語尾に隠しきれない怒りが滲み出ている。
凍てつくようなひかりの視線を受け止めた烏丸は、恥じ入ったように目を伏せた。スカートの上でぎゅっと拳を握りしめると、消え入りそうな小さな声で「ちがう」と呟く。
「何が違うの? ずっと悠太に話しかけて、悠太がくれたネックレスまで真似して! 悠太自身に興味がないなら、ただの私への嫌がらせじゃない!」
「そ、そんなつもりは……」
「じゃあどんなつもりだったの!?」
「……だってっ、私っ、私が……こんな男より、私の方がっ……!」
烏丸は床に落ちていたひかりのクッションをぎゅっと抱きしめ、下を向いて肩を震わせている。様子のおかしい烏丸に気付いたのか、ひかりは怪訝そうに眉を寄せた。
「……私のっ……私の水無瀬さんがっ」
「え?」
「……私の水無瀬さんが、なんでっ、なんでアンタみたいな男と付き合ってんのよー!」
耳をつん裂くような叫び声のあと、俺の顔面に勢いよくクッションが命中した。
……誰がおまえのだ。俺のひかりだぞ、このやろう。
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