きみの唇まで、あと
締め切ったカーテンの隙間から、オレンジ色の夕陽が差し込んでいる。俺は恋人の部屋のベッドに腰掛けていて、可愛い恋人が俺の上に跨っていた。彼女は先ほどからずっと、両肩に手をかけたまま、微動だにせずこちらを睨みつけている。
そのポジションいろんな意味でまずいんだが、と思ったが、背中側で両手首を縛られた俺は身動きが取れない。かなり際どいところに彼女が座っているため、万が一にも反応してしまわないよう、頭の中で必死に素数を数えていた。
……一体何の拷問なんだ、これは。
そもそも、俺が何故こんな拷問まがいのことをされているのか。やはりというかまあ、ひかりが言い出したことだった。
烏丸とのキス未遂(未遂ですらない)事件に危機感を覚えたらしいひかりは、「絶対に悠太とキスする!」と息巻いた。ボルテージの上がり切ったひかりを宥めた結果、学校でそういうことをするのはいかがなものか、という結論に至り、とりあえずひかりの部屋へと移動することにした。
部屋に入って内側から鍵を閉めた瞬間、二人のあいだに謎の緊張感が走る。制服姿のまま鞄を床に放り投げたひかりは、「さあどうぞ!」とがばっと両手を広げた。
「いや、どうぞって言われても……」
「悠太は私とキスしたいの!? したくないの!? どっちなの!」
「したいに決まってんだろ! 俺が何回拒否られてると思ってんだ」
「じゃあどこからでもかかってきてよ!」
「そんな相撲みたいなテンションでは臨めねえよ!」
この調子では、ムードもへったくれもない。謎の構えを取っているひかりを目の前に、俺はやれやれと首を振った。
「とりあえず、いったん落ち着け。紅茶飲むか?」
「飲む……」
「こないだ姉ちゃんに貰ったクッキー缶、まだ残ってたよな」
俺はキッチンに移動すると、マグカップに二人分の紅茶を淹れて、クッキー缶と一緒にトレイに乗せる。ひかりのところへ戻ると、彼女はテーブルの前で正座をしていた。
「ほら食え。イライラしてるときには甘いもんだろ」
「あ、ありがとう……」
ひかりは正座したまま、両手でもぐもぐとクッキーを齧る。クッキーを平らげ、紅茶を飲み干すと、ようやく落ち着いたらしいひかりがふうと息をついた。
「……ごめん。完全に取り乱してた……」
「そうだな」
「烏丸さんにも、絶対変に思われたよね……」
「あいつのことはいいだろ、どうでも」
「うう……悠太以外の人の前では、嫉妬なんかしない余裕綽々のパーフェクトひかりちゃんでいたかったのに……!」
メソメソと落ち込むひかりの頭を、ぽんぽんと軽く叩いてやる。ひかりは涙ぐみながら、こちらを見上げてきた。
「俺は余裕じゃなくても、完璧じゃなくても、めんどくさくても、そのままのひかりがいい」
「……めんどくさい、とは言ってないぃ」
「それは悪かった」
ひかりの肩を抱き寄せると、彼女の身体に緊張が走るのがわかる。そっと頰に手を当てると、ひかりは長い睫毛を震わせて、ぎゅっと固く目を閉じた。
……許可が出たってことは……いいんだよな?
様子を窺いつつも顔を近付けると、数秒もしないうちに、ボフッとクッションが顔に押しつけられた。
「ぶっ」
「ちょっ……ちょっと待って」
「……ひかり……おまえなあ」
「ダメ、やっぱりダメなのー! 悠太にぐいぐい来られると、ドキドキして死にそうになる……!」
ひかりは俺を突き飛ばすと、勢いよく立ち上がってクローゼットを開ける。何をしているのかと見守っていると、奥の方から引越しに使うようなビニール紐を引っ張り出してきた。嫌な予感に、冷たい汗が背中を流れる。
「おま、何を」
「あのね、悠太のこと……縛らせて!」
「……は?」
「きっと悠太にぐいぐい来られるから、ドキドキできないんだと思うの! 悠太を縛って身動きできない状態にしてから、私の方からキスするから!」
「……正気か!?」
相変わらず、数本ネジが飛んだ発言をする女だ。何が悲しくて彼女に縛られなければならないのか。マニアックなAVじゃねえんだぞ。いや、美少女に縛られたいっていうのはそんなにニッチな性癖でもないのか……?
「……いや、俺はそういう趣味ねえぞ!」
「わ、私だってそんな趣味ないよー! でも、もうこれしか方法がないの! わかって、悠太!」
「冷静になれ! どこまで追い詰められてんだよ!」
「さもなくば、私を縛って! 悠太を縛るか、私を縛るか、ふたつにひとつだよ!」
「んなことできるわけねえだろ!」
「悠太ぁ〜!」
ひかりは泣きそうな声をあげて、ビニール紐を持ったままじりじりとにじり寄ってくる。
そんなにロマンチストではない俺にだって、ファーストキスに対する憧れぐらいそれなりにある。縛られるなんてまっぴらごめんだ、断固拒否したい。しかし、ひかりを縛るのはもっと無理だ。こんなに細くて折れそうな白い腕を、ビニール紐なんかで縛るわけにはいかない。
「……ねえ悠太、ほんとにダメ? 私、悠太とちゃんとキスしたいよ……」
「……う……」
……俺はどうにも、ひかりの涙に弱い。うるうると潤んだ瞳で縋るように見つめられると、首を縦に振るほかなくなる。彼女を好きになるまでは、女の泣き落としに引っ掛かる男のことを馬鹿にしていたのに。
そのとき俺の頭に浮かんだのは、刑事ドラマのラスト十分で、崖っぷちに追い詰められた犯人の姿だった。全てを諦めた俺は、彼女に向かっておとなしく両の手首を差し出す。
「……もう、縛るなりなんなり、どうにでもしてくれ」
かくして後ろ手をビニール紐で縛られた俺は、ひかりのベッドに座っている。そもそも、まず場所が悪い。彼女の部屋に二人きりで、ベッドの上に座るなんて最悪だ。
そのうえひかりは、「いきます」と言って、遠慮なく俺の腿のあたりに跨ってきた。制服のプリーツスカートがふわりと広がる。触れた箇所から太腿の柔らかさと熱を感じる。彼女のスカートの下がどうなっているのか、俺は必死で想像しないようにしている。
まるでバンジージャンプ直前のような顔をしたひかりは、俺の両肩をガシッと力強く掴んでくる。かなり痛い。どう考えても、彼氏の肩を掴む力じゃねえんだよな。このまま首でも絞められそうな勢いだ。
一抹の不安を感じていると、ひかりは険しい表情でキッとこちらを睨みつけてきた。
「悠太、こっち見ないで!」
「そんなこと言われても。どこ見りゃいいんだよ」
「目! 閉じてて!」
「……はいはい」
ひかりに命じられるがまま、おとなしく瞼を下ろす。視界が遮られたぶん、感覚が敏感になって、彼女と触れ合っている箇所を嫌でも意識してしまう。もう数センチ前に来られたら位置的にやばいな、と変な汗が出てきた。
「……ゆ、悠太……意外と睫毛長いね……」
「……いいからさっさとしてくれ」
先ほどからずっと、彼女のことを抱きしめたくて仕方がない。反射的に腕を動かそうとするたび、縛られた手首が痛む。ひかりの奴、思いっきり遠慮なく縛りやがって。
少しずつ、ひかりの気配が顔に近づいてくる。甘い匂いがひときわ強くなる。おそらく、もう吐息が触れ合うぐらいの距離だ。自分の鼻息が荒くなっているんじゃないかと不安になる。
しかし、ひかりの気配はすぐそばにあるのに、一向に唇が触れ合う気配はない。さすがに焦れた俺がゆっくり目を開けると、眼前にあるひかりの顔が青ざめていた。
「……ひかり……?」
「……ごめん、ごめんね、悠太……」
大きな瞳から涙が溢れて、頬を伝ってポロポロ零れ落ちる。宝石のような大粒の涙が落ちて、スカートの上にぽたぽたと染みを作っていく。
「どうした。大丈夫か。そんなに嫌ならやめよう」
いつものように彼女の背中を撫でてやろうとして、縛られていることを思い出した。泣いている彼女を慰めてやることさえできず、もどかしい。
「ちが、違うの……ほんとに、嫌じゃないんだよお」
「ひかり」
「悠太のこと、大好きなのに……悠太は、あいつとは違うのに……なんで、あのときのこと思い出しちゃうのお」
えぐえぐとしゃくりあげる彼女の言葉に、はっとした。
あのとき、というのはきっと――元カレに押し倒されたときのことだろう。もしかするとひかりは、俺に迫られるたびに、ずっとトラウマを掘り返されていたのだろうか。キスのその先にあるものを想像して、恐怖に身を竦ませていたのだろうか。
俺が思っていたよりもずっと、彼女に染みついたトラウマは根深かったのだ。自分の不甲斐なさに、下唇を強く噛み締める。
「……私っ、ちゃんと、悠太とキスしたいのに……」
「ひかり、ひかり。大丈夫だ」
身じろぎをするたびに、縛られた手首がギシギシと痛い。けれど今はそんなことよりも、目の前で泣いている女の子のことが重要だ。
「ひかり、悪いけどこれ、ほどいてくれ」
「うう……」
「俺は、ひかりの嫌がることは絶対しないって言っただろ」
ひかりは泣きながら「うん」と頷いて、手間取りながらも手首の紐をほどいてくれた。自由になった両腕で、彼女の身体を抱きしめる。内に潜む下心を間違っても気取られないように、優しく。
――ひかりは俺を〝あいつとは違う〟と言ってくれたけれど、きっと一皮剥いてしまえば、ひかりを傷つけた男と少しも違いなんてなくて。今この瞬間もどうしようもなく彼女のことを欲しがっている、浅ましくて欲深い男だ。
「……ごめんね……悠太は、優しいね……」
俺の胸に顔を埋めたひかりが、ぐずぐずと鼻をすすりながらも、安心したような声色でそう言ってくれる。こんなに近くにいるのに、唇までの距離は途方もなく遠い。
それでも今は唇を重ねるよりも、腕の中にいる女の子に泣き止んでほしい。いつもみたいにアホみたいな顔で、嬉しそうに名前を呼んでほしい。ひかりが俺のそばで笑っていてくれるなら、それで充分だった。
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