魔女と傷だらけの男

「ねえ、ほっぺたに傷入れてもいい?」


 俺の顔にメイクを施していた水無瀬は、頰を軽く撫でながら言った。もはやされるがままになっていた俺は「勝手にしてくれ」と投げやりな気持ちで答える。

 あっという間に迎えた十月最後の土曜日、文化祭当日。開店を控えた教室の空気はやけに慌ただしく、あちこちから「メニュー表が足りない」「立て看板はどこだ」といった声が飛び交っていた。血みどろのゾンビナースや着物姿の幽霊、チャイナドレスのキョンシーなどに扮した女子たちは、教室の後ろで写真撮影に興じているようだ。

 俺の目の前にいる水無瀬は、黒のロングワンピースに大きな三角帽子をかぶっている。どうやら魔女のつもりらしい。他の女子に比べると、露出は著しく少ない。似合ってるし可愛いけどミニスカートが良かった、という男子の声もちらほら聞こえてきた。


「うんうん、いい感じだよー」

「おまえ、写真撮らなくていいの」

「私はさっき撮ったから大丈夫。あっ、悠太もあとで一緒に撮ろうね!」

「絶対嫌だ」

「えーっ、せっかくの文化祭なのに……見てよ、この完璧なメイク!」


 差し出された手鏡を覗き込むと、俺の頬には痛々しく血が滲んだ切り傷が完成していた。俺は裏方なのだから仮装はしないと抵抗したのだが、結局押し切られてゾンビメイクを施されてしまったのだ。服装はいつもの制服と黒のエプロンなので、ただ傷だらけになっている人のコスプレにも見える。うーん、地味ハロウィン。


「悠太、やっぱりオデコ出した方がよくない?」


 俺の前髪に軽く触れながら、水無瀬が言う。俺は髪型にこだわりはないが、あまり顔を出したくないという理由により、基本的に前髪は長めをキープしている。姉ちゃんから「その鬱陶しい前髪切りなさいよ!」と言われることもしばしばだ。


「……好きにしろよ」


 ここまできたら、もうどうにでもしてくれ。俺の返事を聞いた水無瀬は、机の上にあるワックスを手に取る。前髪をまとめてサイドに流すと、普段は隠れている額が露わになって、なんだか落ち着かない。


「…………」

「……んだよ?」


 水無瀬がぴたりと手を止めて固まってしまったので、俺は不思議に思って尋ねる。

 俺の顔をまじまじと見つめた水無瀬は、ぽっと頰を赤く染めた。しばらく凝視されていたけれど、水無瀬ははっと我に返ったように動き出すと、せっかく分けた前髪を元に戻してしまう。


「やっぱりダメ!」

「なんで?」

「ダメなものはダメなの! 悠太、絶対前髪切ったらダメだからね! ちゃんとその長さをキープしてて! オデコ出さないで!」


 水無瀬はそう言うと、いつもの髪型に戻った俺を見て「これでよし!」と満足げに頷いた。よくわからないが、俺としてはこっちの方が落ち着くので別にいい。


「悠太、文化祭一緒にがんばろうね! おー!」


 元気よく拳を振り上げた水無瀬に、俺は溜息で答える。今年は去年のように、午後からバックれるわけにもいかないだろう。面倒だが、のらりくらりとやり過ごすしかない。

 教室にあるスピーカーから、「ただいまより、文化祭の開会式を行います。生徒のみなさんはグラウンドにお集まりください」というアナウンスが流れてくる。俺は水無瀬に腕を引かれるまま、重い腰を上げた。




「カボチャのスコーンふたつ、オーダー通ってるよー!」

「三番テーブルのドリンクもうできてるー?」

「ごめん、このパンケーキ先に出して!」

「ちょっと待って、今レンジ埋まってる!?」


 蓋を開けてみると、全然のらりくらりできる状況ではなかった。

 朝九時にオープンしてからずっと、我がクラスの出し物であるハロウィンカフェのバックヤードはてんてこまいだ。教室の三分の一ほどのスペースを仕切って調理場にしているのだが、とにかく慌ただしい。

 メニュー数も最小限に絞ったし、調理の行程も限りなく単純にしたのだが、なにせ次から次へと客がやって来るのだ。それほど広くない店内は常に満員で、廊下には行列ができている。

 理由はただひとつ。我がクラスには最強の客寄せパンダ・水無瀬ひかりがいるからである。


「はい、三名さまご来店ー! オーダー入りまーす! 恐怖のハロウィンカレーみっつ!」

「任せた料理長!」

「誰が料理長だ!」


 隼人の軽口に言い返したが、たしかに現在この厨房を仕切っているのは俺である。温めたレトルトカレーを米の上に出したそのとき、トッピングを担当していた富田の悲鳴が厨房に響く。


「やば! どうしよう上牧、オバケ卵のストックがもうない!」

「はあ!? くそ、もうちょっと早く言え!」


 俺は舌打ちをすると、あらかじめ茹でておいた卵を殻を剥いていく。卵に切り込みを入れて、ハムで作った舌を乗せる。小さく切った海苔で目をくっつけると、オバケ卵の完成だ。単純であるが面倒くさい作業である。

 次々とオバケ卵のストックを作る俺を見て、富田は惚れ惚れしたように「手際が良い……」と嘆息する。俺は「ボーッとしてねえで、これ一番テーブルに持って行って」と完成したカレーを押しつけた。


「上牧くん、申し訳ない。君、ずっと休んでないだろう。そろそろ客足も途切れそうだし、休憩してきてくれ」


 バックヤードに顔を出した新庄が、俺に向かってそう声をかけた。あらかたオバケ卵を完成させた俺は、ぴたりと手を止める。


「客減った? さっきまで満員だっただろ」

「今、水無瀬さんが休憩に入った」


 俺の質問に、新庄が苦笑混じりに答える。なるほど、把握した。そういうことなら、お言葉に甘えさせてもらおう。

 エプロンを脱いで教室の外に出ると、「悠太ー!」と待ち構えていたかのように誰かが飛びついてきた。顔を確認するまでもない、水無瀬である。


「悠太! せっかくだし、文化祭一緒に回ろうよ!」

「いや、俺ちょっと休みたい……」

「私一人だとナンパの餌食だもんね! ねえねえ、私クレープ食べたいなあ!」


 そう言って無邪気に笑っている水無瀬は、おそらく花火大会と同じく、俺を男避けに利用したいのだろう。おまえのせいで死ぬほど忙しかったんだぞ、と言いたくなる気持ちをぐっと堪える。こいつは自分の仕事をしただけなのだから、責めるわけにもいかない。


「……俺、チョコバナナクレープ」


 そう言って歩き出すと、水無瀬は「待って! 私から離れないで!」と叫んで、しっかりと俺の腕にしがみついてきた。



 我が校の文化祭の規模はなかなかのもので、他校の学生や父兄も大勢やってくる。サッカー部の男子が声をかけているセーラー服の女子グループは、近隣にある高校の生徒だ。去年はあまり気にしていなかったが、改めて見るとかなり賑わっている。

 中庭にはテーブルと椅子が並べられて、急ごしらえのフードコートになっていた。クレープを買った俺と水無瀬は、空いていた席に腰を下ろす。

 予告通り購入したチョコバナナクレープにかぶりつくと、疲れていたせいか甘いものが身体に染みた。ぽかぽかと降り注ぐ太陽の光も心地良い。このまま昼寝のひとつでもしてしまいたいくらいだ。


「ハロウィンカフェ、大盛況だね! 悠太のおかげで助かってる。ありがとう」


 バニラアイスの入ったキャラメルクレープを手にした水無瀬は、巨大な三角帽子を「邪魔だなあ」と脱ぐとテーブルの上に置いた。顔が露わになった途端に、周囲の視線が彼女に集まるのがわかる。


「それにしても悠太って、なんだかんだ律儀だし面倒見いいよね……なっちゃんが褒めてたよ」

「別に。中途半端で放り出すのが気持ち悪いだけ」

「それを律儀って言うんだよ」


 ニコニコとこちらを見つめる水無瀬の視線がくすぐったくて、俺は紙コップに入った水をごくごくと飲み干す。水無瀬は生クリームたっぷりのクレープと格闘していたが、突然俺の背後に何かを見つけて、はっとしたように目を見開いた。そのまま、がばっとテーブルに顔を伏せてしまう。


「? どうした」

「……しっ。知らないふりしてて」


 水無瀬は顔を隠したまま、声をひそめて言った。怪訝に思っていると、俺の後ろにあるテーブルに、騒がしい男子グループがやってくる。


「席ちょうど空いてるじゃん! ラッキー」

「あー足だりー」

「この学校、結構可愛い子多くね? さっきの子、ちょっと好み」

「あーおまえ好きそう、声かけてみる?」


 どうやら他校の生徒らしい。男たちの会話を背中で聞きながら、俺は黙って水無瀬のつむじを眺めている。彼女が手にしたクレープのアイスが溶けてしまいそうで、ハラハラした。


「そういやこの学校、おまえの元カノいるよな? 水無瀬ひかり! あの、めちゃくちゃ顔の良い女!」


 男子グループの一人がそう言った。正面にいる水無瀬の肩が、びくりと揺れる。反射的に振り向きそうになったが、ぐっと堪えた。


「付き合ってたって、たかだか一ヶ月ぐらいだよ。何もさせてもらえなかったもん」

「すげー可愛かったけど、ガード硬そうだったよな」

「ちょっと押し倒しただけで泣かれてさあ……勘弁してくれって感じだった。意外とガサツだったし、完全に顔だけだったな」

「でもさ、今ならワンチャンいけるんじゃね? 顔と身体が最高ならそれでいいじゃん」

「おまえ、最低ー!」

「あんだけ可愛かったら目立つだろ、後で探してみようぜー」


 長閑な昼下がりの中庭には不釣り合いな、下卑た笑い声が響く。俺はなんだか胃のあたりがムカムカしてきた。水無瀬の背中は小刻みに震えている。テーブルに顔を伏せた彼女が、どんな表情をしているのかはわからない。どろりと溶けたアイスが、白い手を汚している。

 ……事情はよくわからないけれど、こいつらに水無瀬を会わせたくない、と思った。今目の前で震えている女の子は、仮にも俺の彼女なのだ。知らない男に好き放題言われるのは不愉快である。

 俺は彼女が脱いだ三角帽子を手に取ると、ぽすんと小さな頭にかぶせる。顔の半分ほどが隠れた彼女の手を取って、足早にその場から立ち去った。

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