地獄の淵で踊ろうぜ
水無瀬を連れて人気の少ない校舎裏までやってきたところで、掴んでいた手をようやく離す。模擬店のないこの場所は、先ほどまでの喧騒が嘘のように静かだ。そういえばここは、俺が水無瀬に告白した場所ではないか。
「おい、もういいぞ」
おそるおそる三角帽子を持ち上げた水無瀬の表情は、硬く強張っていた。
「……とりあえず、クレープ食えよ。ドロドロになってんぞ」
「……え、あっ、うん」
水無瀬は頷くと、校舎の壁にもたれてクレープをぱくぱくと食べ始める。きれいに平らげてティッシュで汚れた手を拭いたところで、ようやく人心地がついたような顔をした。
「ごめんね。ありがとう」
「……さっきの奴ら、誰?」
俺の問いに、水無瀬は唇の片側をいびつに上げた。おそらく笑顔を作ったつもりなのだろうが、普段からは信じられないくらいに下手くそだった。
「一瞬だけ付き合ってた元カレ。と、その仲間たち」
水無瀬の回答に、俺は少なからずショックを受けてしまった。心臓の奥がちくりと痛んだような気がして、俺はいやいやと首を振る。かつて水無瀬に恋人がいたからといって、俺が傷つく筋合いなんて少しもない。うちの姉ちゃんなんて、下手したら一週間単位で彼氏が変わる。
よく考えると、俺は水無瀬のことを何も知らない。おそらく水無瀬が抱いている「自分に好意を抱く人間への嫌悪」は、彼女にとって相当クリティカルな問題に根付いているのだろう。外野が口を出すべきではないのかもしれない、けれど。
――俺は本当に、このまま「外野」のままでいていいのか?
少し悩んだ後、俺は水無瀬に尋ねた。
「おまえ、中学の頃あいつとなんかあったのか?」
「悠太には関係ない」
きっぱりとそう言った水無瀬は、氷のように冷ややかな笑みを口元に浮かべた。目と目が合った途端に、背筋がぞくりとする。普段はへらへらとアホ面を晒しているくせに、こういうときの水無瀬は本当に怖い。それでも、俺は退かなかった。
「関係ないことねえだろ。俺、一応おまえの今の彼氏だぞ」
俺の言葉に、水無瀬は驚いたように目を見開く。躊躇いがちに口を開くと、平坦な声で言った。
「……あんまり面白くない話だよ」
三角帽子を目深にかぶった彼女が、観念したようにポツポツと話し始める。俺は黙って聞く体勢に入った。
中学時代の水無瀬ひかりは今と変わらぬ美貌で、当然のようにモテていたらしい。現在の水無瀬と違うところは、彼女がいわゆる「近付くのも畏れ多い高嶺の花」ではなく、「頑張れば手が届きそう」な親しみやすさがあったところだ。
そんな水無瀬は、中学二年に進学してから同じクラスになった男子と仲良くなった。バスケ部のエースだった彼は彼は長身の爽やかでイケメンで、誰からも好かれる人気のある男だった。
恋に恋する年頃だった中学時代の水無瀬は、彼のことをちょっと素敵だな、と思うようになった。周りからお似合いだなんだと持ち上げられたこともあり、だんだんその気になってしまったのだという。
ほどなくして水無瀬は彼に告白され、天にも上る気持ちでそれを受け入れた。しかし水無瀬は、付き合い始めてからやたらとベタベタしてくる彼のことを、「なんだか気持ち悪い」と感じるようになったという。
自分に触れる手も、自分を見つめる視線も全部不快だった。次第に水無瀬は彼を避けるようになったが、彼は水無瀬と二人きりになりたがった。
ある日、試験勉強をするという名目で彼の部屋を訪れた水無瀬は突然ベッドに押し倒されて――恐怖のあまり、わんわん泣き出してしまった。困り果てた彼は、面倒臭そうに水無瀬に言い放ったという。
――そんな奴だと思ってなかった。こんなことくらいで泣くなんて、おかしいんじゃないの。おまえ、一生まともな恋愛できないぞ。
それから彼とは自然消滅したけれど、それから水無瀬は、自分に向けられる好意に嫌悪感を抱くようになったという。自分を見る男の中に潜む欲を想像すると、吐き気を催すようになった。
話を終えた水無瀬は、ふうっと短い息をつく。黙っていたはずの俺の喉は、カラカラに乾いていた。どこかで飲み物でも買ってこればよかった、と後悔する。
「……ね。つまらない話だったでしょ」
ずっと俯いていた水無瀬は、ようやく顔を上げてこちらを見た。大きな三角帽子が影を落としているせいで、表情が読み取りづらい。
たしかに、思春期の男女にはよくある話なのかもしれない。性的なことに興味津々な男子と、潔癖な女子とのミスマッチ。よくあることだとしても、中学生の水無瀬が傷ついてトラウマを抱えたことには変わりない。やり場のない怒りを覚えて、俺はぐっと拳を握りしめた。
「……人の気持ちなんて考えずに、自分勝手に好意をぶつけてくる男の子なんて嫌い。本当の私のことなんて何も知らないくせに、上っ面だけで好きだなんて言ってくる男の子が嫌い」
「水無瀬」
「……でも本当は。見栄っ張りで面倒臭くて、他人からの好意を素直に受け入れられない自分が一番嫌い……あいつの言う通り、私きっと一生まともな恋愛なんてできないんだ」
血の通わない声で淡々と言った水無瀬は、三角帽子のつばを握って顔を隠してしまった。
――この世の誰もが好きにならずにいられない水無瀬ひかりのことを、他でもない水無瀬ひかり自身が一番嫌悪している。
そんなことないよ、君は魅力的だよ、だなんていう言葉を、きっと水無瀬は望んでいない。それならば、俺は一体彼女に何を言うべきなのだろうか。
考えたところで結局答えは出ずに、俺はじっと唇を引き結んでいた。しばらくして顔を上げた水無瀬は「そろそろ戻ろっか!」と笑みを浮かべると、ぎこちなく俺の腕を取って歩き出した。
「はぁ〜やっと終わったあ……」
「お疲れさま! 売り上げ、すごいことになってるよー!」
「材料費も結構かかってるけどな……ぱーっと打ち上げしようぜ!」
最後の客を見送った後、クラスメイトたちは口々に互いを労い合った。なんだかんだで、俺もそれなりに達成感を覚えていた。これほど真面目に文化祭に参加したのははじめてだ。我ながらよく頑張ったものだと思う。女子から手渡されたクレンジングシートで傷メイクをきれいに落とすと、ほっと胸を撫で下ろした。
「上牧、お疲れ! ほんとに今日は上牧のおかげで助かったよー!」
「ほんとほんと、上牧くんがいなかったらどうなってたことやら」
文化祭の空気に飲まれているのか、女子が珍しく俺に話しかけてきた。俺の「あ、そう」というそっけない返事にもめげず、ぺらぺらと一方的な話を続ける。
「ひかりちゃんがやたらと推すから、どこがいいんだろうって思ってたんだけど! 意外とやるじゃーん」
「ちょっとだけ見直したよー! ま、ひかりちゃんの趣味はやっぱりわかんないけど!」
「はあ、そりゃどうも……」
答えながら、そういえば水無瀬はどこに行ったんだろう、と考える。休憩から戻ってきてからも、客寄せパンダの本領を発揮していたようだったが。教室をぐるりと見回してみても、三角帽子をかぶった魔女の姿はどこにもなかった。
「……水無瀬は?」
「ひかりちゃんならミスコンだよ。そろそろ結果発表じゃない?」
「あ! そうだったー! 見に行かなきゃ!」
女子二人はそう言って、バタバタと慌ただしく教室を飛び出して行く。他の奴らも続々とグラウンドへと向かった。取り残された俺に、ドラキュラのマントを羽織った透が声をかけてくる。
「悠太、ミスコン見に行かねーの?」
「……なんで俺が」
別に興味もないし、結果を見るまでもなく水無瀬が優勝するに決まっている。この学校に、水無瀬以上に顔立ちの整った奴はいないのだから。
「そういや水無瀬さん、結局誰と踊ることにしたんだろうな」
「……さあな」
忙しさにかまけて忘れていたが、そろそろミスコンの結果発表が終わり、その流れで後夜祭のダンスパーティーが始まるはずだ。俺は結局、水無瀬が誰と踊ることにしたのか知らない。一応今日確認するつもりだったのだが、元カレ騒動のゴタゴタで聞きそびれたのだ。
「俺、るぅと踊る約束してるからそろそろ行くけど……悠太、ほんとにいいのか?」
「なにが」
「このままだと、水無瀬さん全校生徒の前でゲロ吐くかもしんねーぞ」
冗談めかして言ってから、透は「じゃーな」と片手を上げて去って行った。夕暮れの教室に残されたのは俺一人だけだ。ミスコン会場であるグラウンドからは、大きな歓声と拍手の音が聞こえてくる。もう日は暮れかけていて、がらんとした教室をオレンジ色に染め上げていた。
水無瀬は果たして、ダンスの相手を見つけたのだろうか。触れられても嫌悪感を抱かないような、水無瀬ひかりに微塵も興味のない男を。
――そんな奴、いるわけねえだろ。
気付けば俺は、グラウンドに向かって走り出していた。腹の底から湧き上がる衝動が、一体何なのかまったくわからない。とにかく今、彼女の元へ行かなければならないことだけはわかる。
グラウンドに設置されたステージの上に、水無瀬ひかりは立っていた。きらきらと眩いスポットライトに照らされた水無瀬は、いつのまに着替えたのか明るい黄色のワンピースを身につけている。焦茶の髪はきれいに結い上げられて、耳たぶのイヤリングがライトを反射してきらりと光った。
「優勝は、二年四組の水無瀬ひかりさんでーす!」
完璧な笑顔で優雅なお辞儀をした水無瀬は、この世のものとは思えないくらいに美しい。ほんの半年ほど前までは、俺は彼女のことを完全無欠な人間だと思っていた。それでも、今は違う。
あいつは強引で人の話を聞かないし、一ヶ月前に食べたアイスのゴミを放置するような女だし、餃子さえまともに包めない。見栄っ張りで潔癖で面倒臭くて、他人からの好意を素直に受け入れられない人間だ。それでも、俺は――
「それではミスコン優勝者である水無瀬ひかりさんに、ダンスを披露していただきます! ダンスのお相手はお決まりですか?」
「えーと、その……まだ、決まってません」
水無瀬は困ったように眉を下げた。場を盛り上げようとしたのか、司会者は観衆をテンション高く観衆を煽る。
「我が校イチの美少女の、栄誉あるダンスのお相手に! 我こそはと立候補したい方! いらっしゃいませんかー!」
目立つ男子の一団が、「はいはーい!」と一斉に手を上げて、どっと笑いが起こった。水無瀬は頰を引き攣らせて、その場から一歩後ずさる。
俺は人混みを掻き分けて、ステージの真ん前まで進んでいった。オロオロと視線を泳がせていた水無瀬が、俺を見つけて目を見開く。ゆうた、と彼女の唇が動くのが見て取れた。俺は深呼吸をしてから、腹に力を込めて叫ぶ。
「……水無瀬!」
周囲の視線が俺に集まるが、構いやしない。水無瀬と付き合い始めてから、無駄に目立つことにも慣れてしまった。
「おまえ、俺と踊るんだろ」
俺の言葉に、水無瀬はぱっと花が咲いたように笑った。くそ。俺はどうにも、その顔に弱い。
「うん!」
力いっぱい頷いて、ステージからぴょんと飛び降りてくる。勢いよく胸に飛び込んできた彼女を、俺はなんとかキャッチした。あ、危ない。下敷きにされるかと思った。
「あ、危ねえな! 俺の力を過信すんな! こちとら根っからの文化系だぞ!」
「でも、受け止めてくれた! ありがとう悠太、愛してる!」
ぎゅーっと抱きついてきた水無瀬を引き剥がすと、俺は渋々彼女の手を取る。水無瀬の腕が俺の背中に回された途端、周囲がざわざわと騒がしくなる。あちこちからブーイングの声も聞こえてきたが、そんなこと知ったこっちゃない。
ゆったりとした音楽が流れてきたので、俺は水無瀬の手を握ったままぎこちなくステップを踏み始めた。右、左、左、右。ここでターン。
「悠太! すごい、ちゃんと踊れてるよ! コソ練した?」
「う、うるせえ。忘れるからちょっと黙ってろ」
「もしかして、ほんとは最初から私と踊ってくれるつもりだったの!?」
「あーもう、うるさいうるさい!」
図星を突かれて、俺は声を荒げた。
……結局のところ、俺はこの役目を他の奴に譲るつもりなんてなかったのだ。水無瀬が俺以外の男と踊っているところなんて、想像したくもない。
「ね、悠太」
俺の手をしっかりと握りしめた水無瀬は、アーモンド型の瞳を細めて笑う。さっきまでの完璧な笑顔は失せていたけれど、そっちのアホ面の方がずっといい。
「私、悠太に触られるのは全然嫌じゃないよ」
……俺の心の奥底に隠れている気持ちを知ったとしても、果たして彼女は同じことを同じ顔で言ってくれるのだろうか。
自覚したばかりの感情に胸を押し潰されて、息が止まりそうだ。この感情だけは、絶対に彼女に知られるわけにはいかない。
終わりに向かうだけの恋だとわかっていても、もう止められない。俺は水無瀬ひかりのことが好きなのだ。もう、どうしようもないくらいに。
喉元からせり上がってきそうになる台詞を飲み込んで、繋いだ手にぎゅっと力を込めることしかできなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます