不毛な両想い
文化祭を終えて、一週間ほどが経った。俺と水無瀬の関係は表面上は少しも変わらず、周囲からは美女と野獣カップルだと揶揄されている。
ただひとつ変わったのは、俺の心情のみだ。現状、俺は絶体絶命の危機に立たされている。
「おはよう、悠太!」
十一月も半ばにさしかかり、ぐっと冷え込みが厳しくなった朝。上品なグレーのセーターを着た水無瀬は、自宅の前で健気に俺のことを待っていた。このクソ寒いのにまた風邪でもひいたらどうするんだ、と俺は舌打ちをする。
「……別に毎朝迎えに来なくていいっつってんのに」
「えー、でも朝から悠太に会いたいもん! ねえねえ、今日のお弁当は?」
「……もしかして、弁当目当てか?」
弁当の包みを渡すと、水無瀬は「ありがとう!」と嬉しそうに笑う。すっかり見慣れた笑顔のはずなのに、心臓がおかしな音をたてている。俺は彼女から無理やり視線を引き剥がすと、学校への道を足早に歩き始めた。
ああ、どうしよう。この世の終わりだ。
知らないふりをするのも限界だ。俺はとうとう、気付いてしまった。俺は水無瀬ひかりのことが好きなのだ。自分への好意を何より嫌悪している女に、恋をしてしまった。俺だけは彼女のことを絶対好きにならない、と豪語していたはずなのに。
これが少女漫画かなんかだったら、二人はめでたく両想いになってハッピーエンド、ということになるのだろう。しかし、俺たちの関係は普通じゃない。水無瀬が好きなのは、「自分にまったく興味のない上牧悠太」なのだ。水無瀬ひかりに興味がない、という唯一のアドバンテージをなくした俺は、そこらのモブ以下である。
「ゆ、悠太待ってよ。歩くの早い!」
赤信号で立ち止まった俺の背中に、水無瀬は勢いよく抱きついてきた。ふにゃりと柔らかいものがぶつかって、俺はぎくりと身体を強張らせる。水無瀬が俺に過剰接触してくるのはいつものことだ。真夏はもっと薄着で、ぐいぐいと胸を押しつけてきた。こんなものは脂肪の塊だ、と鼻で笑っていたではないか。
そう、ただの脂肪の塊だ。うちの姉ちゃんは毎日下着姿でそのへんをウロウロしているし、風呂上がりに俺にマッサージを命じることだって珍しくない。俺の女体への免疫は尋常ではない、はずだったんだが……。
――いや、無理だろ。姉ちゃんと水無瀬が同じはずがない。だって水無瀬は、俺の好きな女の子だ。
そう自覚した瞬間、カッと身体が熱を持った。反射的に水無瀬を振り払う。
「離せよ! ベタベタすんな!」
今まで俺は水無瀬に結構酷い態度を取ってきたが、こんなにも強い口調で拒絶したのは初めてだった。水無瀬ははっとしたように目を見開いて、一歩後ずさる。
「ご、ごめんなさい……」
水無瀬は小さな声でそう言うと、しょんぼりと俯いてしまった。しまった言いすぎた、と思ったが、どうフォローしていいものかどうかわからない。
そもそも俺に優しくされるのを、水無瀬は望んでいないんじゃないか? 露骨に態度を変えてしまったら、俺の気持ちを悟られてしまうんじゃないか? そんな考えばかりがぐるぐると頭を巡って、俺は口を噤んでしまう。俺、今まで水無瀬にどんな風に接してたっけ。
思い返してみれば、俺は生まれてこのかた異性を好きになったことがない。言わずもがな、横柄で身勝手な姉に振り回されてきたせいだ。初めて好きになった相手が水無瀬ひかりだなんて、初心者には難易度が高すぎる。ピカピカの若葉マークをつけたまま山道を攻めるようなものだ。
結局何も言えないまま、目の前の信号が青に変わる。俺はふいと水無瀬から目を逸らすと、無言のまま歩き始めた。そのまま学校に着くまで、俺たちは一言も口をきかなかった。
昼休み、俺は透と長岡と三人で中庭で飯を食っていた。水無瀬がいないせいで、妙なメンバーだ。今日の水無瀬は昼休みが始まると、俺を避けるように女子グループの輪に入っていってしまったのだ。別に約束をしているわけではないのだが、正直傷つく。
中庭はびゅうびゅうと冷たい風が吹き荒んでおり、昼飯を食べるにはかなり寒かった。しかし、水無瀬がいないので書道部部室の鍵がないのだ。透と長岡は互いに寄り添って膝掛けをシェアしており、それほど寒くはなさそうだった。俺の目の前でイチャつくな、バカップルめ。
「悠太、水無瀬さんと喧嘩してんの?」
「してない」
透の問いに、俺は仏頂面で答える。今日の弁当のおかずである竜田揚げはかなりの自信作で、水無瀬がどんな顔をするかと楽しみにしていたのに。カリッとした揚げ具合が絶妙で美味い。のに、なんとなく味気ないような気がする。
「水無瀬さん、朝から悠太のこと露骨に避けてるじゃん。いつも休み時間のたびに悠太のとこ来んのに」
「知らねえよ」
「なんか心当たりないの?」
心当たりといえば、今朝の一件くらいしか考えられない。俺は竜田揚げをつつきながら、小さな声で答える。
「……ベタベタすんな、って言った」
「わ、ひどーい! そもそも、上牧はヒカリーナに冷たいんだってば! 彼氏なんだから、もっと優しくしてあげなよ!」
長岡がギャーギャーと非難の声をあげたので、俺は「うるせえよ」と吐き捨てる。
「とりあえず謝っとけば? こういうのは自分が悪くなくても早めに折れた方が楽だろ」
「……透くん。いつもそういう適当な気持ちでわたしに謝罪してたの?」
長岡からジト目で睨みつけられて、透は「いや、そういうつもりじゃなくて……」と言い訳を連ねている。痴話喧嘩が始まりそうな気配を察知して、俺は透のために話題を変えてやる。
「でも、おかしいだろ。そんなことで拗ねるような女じゃないんだよ、あいつは」
そもそも水無瀬は俺に冷たくされるのを望んでいたはずだ。こんなことくらいで心が折れるはずもないし、むしろ喜んで近寄ってきそうなものだが。
腕組みをしたまま、「まあたしかに」と長岡は頷く。彼女の気が逸れたためか、透はホッとしたように表情を緩めた。
「ヒカリーナは、優しくない上牧のことが好きなんだもんね」
「よく考えると、好きになればなるほど嫌われるって不毛だよなあ。悠太、しんどくない?」
俺は数秒の沈黙ののち、やっとのことで「俺、あいつのことなんか全然好きじゃない」と絞り出した。やや憐れむような視線をこちらに向けてきた透は、訳知り顔で肩を竦めるだけだった。
放課後になっても、水無瀬は俺のところにやって来なかった。いつもは呼んでもないのに来るくせに、今日は自分の席から動こうともせず、じっと俯いているようだ。俺は水無瀬の丸い後頭部を眺めながら、ぼんやりと考える。
……もしかすると、水無瀬はもうこの「恋人ごっこ」に飽きたのかもしれない。そもそも俺だって最初は、水無瀬が飽きるまでの辛抱だと思っていたのに。今の俺は、なんとかしてこの関係を続けられないかと苦しんでいる。
俺は立ち上がると、水無瀬の席まで歩いて行った。クラスメイトの視線がぐさぐさと突き刺さるのを感じる。今日一日マトモに口を聞いていない俺たちのことを、みんな口に出さずとも気にしているのはわかっていた。
「水無瀬」
名前を呼ぶと、水無瀬は弾かれたように顔を上げた。俺の顔を見て、まるで叱られた後の子どものような表情を浮かべる。
「……帰らねえの」
「か、帰る……帰ります」
勢いよく立ち上がった水無瀬は、ぎくしゃくとまるでロボットのように歩き始めた。なんか変だと思ったら、右足と右手が同時に出ている。
クラスメイトたちが「水無瀬さん、一体どうしたんだ……」とざわつくのを聞きながら、俺は数歩遅れて水無瀬の背中を追いかけた。
校門を出て五分ほど経っても、俺たちは互いに無言のまま歩き続けていた。なんだかやけに人通りも少なく、スニーカーが落ち葉を踏む音だけが響いている。空も薄暗くどんより曇っているせいか、なんだか気が滅入ってきた。
水無瀬は下を向いて自分のローファーを見つめながら、俺と一定の距離を空けて歩いている。気まずさに耐えかねた俺は、思わず「あのさ」と口を開いた。
「……今日、なんかおかしいだろ。俺、なんかした?」
水無瀬がおずおずと顔を上げると、ぱちりと視線がぶつかる。アーモンド型の大きな目には、やや怯えたような色が浮かんでいる。俺が「なあ」と促すと、彼女は躊躇いがちに口を開いた。
「だって……ベタベタするなって、言った……」
やっぱりそれか、と俺は脱力する。
「んなもん、いつものことだろうが」
「そうだけど……そうなんだけど……」
「だいたい、おまえは俺に好かれたいわけじゃないんだろ」
仕方のないことだが、水無瀬が「うん」と頷いた瞬間、俺はかなり落ち込んでしまった。水無瀬は本当に、心の底から俺に好かれたいとは思っていないのだ。わかってはいたけれど、はっきり言われるとへこむ。
「……ね、悠太」
俺のブレザーの袖を掴んだ水無瀬が、上目遣いに俺を見つめる。「くっついてもいい? 怒らない?」と尋ねられて、俺はふいと目を逸らした。
「……勝手にしろよ」
俺の返事に、水無瀬は瞳に安堵の色を滲ませた。おそるおそる俺の腕を掴んで、俺が抵抗しないのを確認してから、力いっぱいぎゅっとしがみついてくる。「えへへ」と笑う顔はいつものアホ面で、俺は内心ほっとした。
「ごめんね、悠太。私のことは好きにならないでほしいけど、でも、私が悠太のこと好きでいることは許してね」
……今更ながら、なんてめんどくさい女なんだ、と俺は溜息をついた。
姉の存在により身をもって知っているが、女というのはそもそもめんどくさい生き物だ。その中でもとびきりめんどくさい、めんどくささの煮凝りのような水無瀬ひかりという女を、どうして俺は好きになってしまったのだろうか。
それでも、好きになってしまったものは仕方がない。恋愛感情というものは理屈では説明できないものなのだと、俺は生まれて初めて知った。
――好きになればなるほど嫌われるって不毛だよなあ。悠太、しんどくない?
昼間の透の言葉が頭に響く。辛くないといえば嘘になるが、それでも俺はまだ終わらせたくないのだ。せめて、水無瀬が俺に飽きるその日までは。少しでも長くこの関係を続けるために、俺は自分の気持ちを否定し続けるしかないのだ。
「……好きになんか、ならねえよ」
口に出した
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