夏休みの来訪者

 お掃除ロボットのスイッチを入れると、ウィーンと音を立てて動き出す。ソファやローテーブルにゴンゴンとぶつかりながらも、健気に掃除をする姿が愛おしい。上牧家の家事をほぼ一手に引き受けている俺にとって、お掃除ロボットだけが唯一の味方である。

 いいぞ、偉いぞ。ルンバ、おまえは頑張り屋さんだな。愛してるぞ。

 人間相手には口に出したこともない愛の言葉を投げかけながら、俺はお掃除ロボットの勇姿を見守っている。

 綺麗に磨き上げたガラス窓の向こう側では、まだ昼前だと言うのにギラギラとした太陽が輝いている。青い空に浮かぶ白い雲も、クーラーの効いた部屋の中から見るぶんには美しいものだ。

 お掃除ロボが一仕事終えたら、フローリングの隅々までウェットシートで磨き上げることにしよう。午後からはレンジ上の換気扇のフィルター掃除をするのもいい。いやはや、最高の夏休みだ。


 水無瀬と付き合い始めてからの嵐のような日々が過ぎ去り、平穏無事な夏休みが始まった。相変わらず水無瀬からは毎日のようにメッセージが来るが、定期的に届くネットニュースのようなものだと思えばもはや気にならない。安定の既読スルー。夏休み開始からの二週間を、俺はすこぶる平和に暮らしていた。

 とはいえ、たまに――ほんとに、たまにだが――あいつはちゃんとメシを食っているんだろうか、みたいなことを考えないこともない。

 夏休みに入る前に「これから悠太のお弁当が食べられなくなるなんて……」と悲しんでいた水無瀬の顔を思い出す。夏は特に暑さで食欲が減退する時期である。せめて素麺でも茹でて食っていればいいのだが。

 ……いやまあ、俺がそこまで心配してやる義理もないか。


「悠太ぁー! ちょっと、悠太いる!?」


 俺とお掃除ロボとの蜜月を邪魔したのは、勢いよくリビングに飛び込んできた姉ちゃんだった。

 最近はバイトで不在がちだったが、今日は朝から家にいる。俺の平穏な休日は、大抵この女のせいでぶち壊されるのだ。


「うわっ。あんた、またルンバとイチャイチャしてる。キモッ」

「キモくない。なんだよ姉ちゃん」

「あんた、いつまでそんな首ダルッダルのシャツ着てんのよ! さっさと着替えなさい!」


 今日は近所のスーパー以外に出掛ける予定もないので、俺の格好は部屋着のTシャツと短パンである。

 腰に手を当てて俺を睨みつけている姉ちゃんの服装は、背中の開いたデザインカットソーにワイドパンツだった。もしかすると姉ちゃんは、俺を買い物の荷物持ちにでも引っ張り出すつもりなのだろうか。この暑さの中、それは勘弁してほしい。

 げんなりしている俺をよそに、姉ちゃんはリビングにあるアロマディフューザーのスイッチを入れた。キッチンのシンクやコンロ周りを指差し確認しながら、「よし、綺麗だね!」と満足げに頷いている。掃除したの、全部俺だけどな。


「今から誰か来んの? 彼氏?」


 俺の質問に、姉ちゃんはにんまりと意地の悪い笑みを浮かべた。


「ふふん、内緒! いいから早く着替えなさいってば」


 俺は不思議に思いつつも、部屋着のTシャツよりは多少マシなTシャツに着替えた。姉ちゃんは「もうちょいまともな服ないの?」と不服そうだったが、出掛ける予定もないのに洒落込む必要はない。


 一通りの家事を終え、昼飯を食ったあとソファでダラダラしていると、インターホンが鳴った。

 姉ちゃんが「出て! いいから出ろ! 早く!」と背中を押してくるので、俺は渋々玄関に向かって扉を開いた。


「……はーい」

「あっ、悠太! こんにちは! 久しぶりだねー!」


 底抜けに明るい声が響いて、俺はぎょっと目を見開いた。そこに立っていたのは、私服姿の美少女――夏休み開始以来久しく会っていなかった、水無瀬ひかりだった。


「み……水無瀬」

「ひかりちゃーん! 待ってたわよー! どうぞどうぞ、入って!」

「お姉さん、こんにちは。お招きいただきありがとうございます」


 俺が呆然と立っているうちに、姉ちゃんが水無瀬を家に招き入れていた。ぺこりと頭を下げた水無瀬は、「お邪魔します」と遠慮がちにパンプスを脱ぐ。


「これ、つまらないものですが。甘いもの、お好きですか?」

「あー! アレクサンド・シモンのシュークリームじゃない! これ美味しいのよねー、ありがとう。気ー遣ってくれなくてもいいのにー」

「いえ、いつも悠太くんにはお世話になってるので……」


 姉ちゃんと水無瀬がそんなやりとりをしているのを、俺は「ちょっと待て」と遮った。水無瀬は「なあに?」と不思議そうに首を傾げる。


「水無瀬、なにしに来たんだよ」

「悠太! あんた、可愛い彼女に対してなんつー言い草よ!」


 姉ちゃんが俺の頭をバシンと叩いた。水無瀬は「えへ、急にごめんね」と悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「SNSでお姉さんから連絡来て。よかったら遊びに来ないかってお誘いされたから、来ちゃった」


 ……いつのまに姉ちゃんは水無瀬と繋がっていたんだ。姉の交友関係の広さのことを思えば不思議ではないが、最凶のタッグ誕生に俺は身震いした。


「ほらほら、悠太もひかりちゃんに会えて嬉しいでしょー? あんた、夏休み入ってからずーっと閉じこもって家事ばっかりしてんだから。もうちょっと青春らしいイベント起こしなさいよ」


 余計なお世話だ。俺が閉じこもって家事をしているお陰で、この家の居心地の良さが保たれてるんだろうが。

 リビングに招き入れられた水無瀬は、上品な所作でスカートを押さえてソファの上に腰掛けた。見慣れた我が家に水無瀬の姿があるなんて、なんだか変な感じだ。


「ね? 着替えといてよかったでしょ?」


 こそこそと囁いてくる姉ちゃんを、俺は横目で睨みつけた。

 ……まあ相手が水無瀬といえど、首元がダルダルのTシャツを見せるのは憚られるから、よかったのかもしれない。もう少しマシなポロシャツでも着ておけばよかったかな、とやや後悔した。

 姉ちゃんは水無瀬の隣に座ると、「悠太、お茶入れて」と俺に指示をする。俺は買い置きしていたアイスティーをグラスに入れると、リビングのローテーブルの上に置いた。


「今日はひかりちゃんとゆっくり話そうと思って! どういう経緯で悠太と付き合うことになったの?」


 コソコソと自室に逃げ出そうとした俺の腕をがしりと掴んで、姉ちゃんは目線だけで「座れ」と命じる。ソファは女子二人で満員だったため、俺はフローリングの床の上に腰を下ろした。


「えーと、六月ぐらいに悠太くんに告白されて……私も悠太くんのことずっと気になってたので、お付き合いすることになりました」


 そう言って水無瀬は恥ずかしそうに頰を染めた。

 彼女の言葉に一言一句間違いはないのだが、重大な事実が伏せられている。俺は水無瀬のことが好きではなく、水無瀬もまた「自分のことを好きではない男」だからこそ俺に好意を抱いている、という点だ。


「ぎゃー! ちょっと悠太、こんな絶世の美少女に告白するなんて怖いもの知らずねー! 身の程知らず!」

「うるせえな……」

「あんた、もっと彼女のこと大事にしなさいよ。ルンバとイチャついてる場合じゃないでしょ」

「あ、いいんです! 私、ほっておかれても塩対応でも、悠太くんのそういうところが好きなので」


 そう言って微笑む水無瀬の言葉には、ひとつの嘘もない。それなのに、そんな言い方をされると「冷たい彼氏とその仕打ちに耐える健気な彼女」みたいになるのはどうにも納得いかない。


「ひかりちゃん、良い子ねえ……こんなに可愛いのに、なんで悠太なんかと……」


 あっさり騙された姉ちゃんは、瞳を潤ませて水無瀬の両手を握りしめた。「よかったら今日は晩ごはん食べていって!」なんて言っているが、メシを作るのは俺である。


「やった! 悠太くんのごはん、美味しくて大好きです」

「ほんとにコイツ、料理だけは抜群に上手いのよねー……あ、ごめん。電話かかってきた」


 姉ちゃんはスマホを手に取ると、「もしもし?」とそのま電話に出た。みるみるうちに、眉間に皺が寄っていく。


「えーっ! あたし、今日出れないって言いましたよね? いやいや、そんなこと言われても……はぁ、わかりましたよ。もう、仕方ないなー! じゃ、貸しですからね」


 姉は不満げに電話を切ると、水無瀬に向かって「ごめんね!」と両手を合わせた。


「バイト先から呼び出し! なんか、今日シフト入ってた子が都合悪くなっちゃったみたいで。ちょっと出てくる」

「あ、そうなんですね」

「ひかりちゃん、ゆっくりしていって! 悠太、夜には帰ってくるからあたしのぶんのごはん置いといて。あっ、シュークリームもちゃんと残しといてよね!」

「はいはい……」


 バタバタと慌ただしく準備をした姉ちゃんは、リビングを出る間際にぴたりと足を止める。ロングヘアを揺らしてくるりと振り向くと、俺に向かって「悠太」と手招きをした。


「……んだよ」


 姉ちゃんの元に向かうと、ひそひそと小声で囁いてくる。


「……ちゃんとゴム持ってる?」

「……へ……は、はあ!?」

「こういうのは絶対女の子に無理強いしちゃダメだからね。ちゃんと相手の気持ちも考えなさいよ」

「や、や、や、やらねえよ! 何も!」


 姉ちゃんの言わんとしていることを理解した俺は、泡を食って否定する。いきなり何を言い出すんだ、この女は!

 特大爆弾を落とした姉ちゃんは、「じゃあいってきまーす!」と嵐のように去って行った。残された俺と水無瀬のあいだに、なんとなく気まずい沈黙が落ちる。

 俺は居た堪れない気持ちで、とりあえずアイスティーで喉を潤した。さっきまで饒舌だった水無瀬も、どことなく緊張した面持ちでスカートを弄っている。


「……なんか喋れよ」

「いや、悠太のおうちに二人きりだと思うと、ちょっと緊張して……」


 水無瀬が妙なことを言い出すので、なんだか俺まで変に意識をしてしまう。いやいや、別に緊張することなど何もない。二人きりとはいえ、放課後に特別教室で勉強するのと、そう変わらない状況ではないか。さっきの姉ちゃんのセリフを、必死で頭の中から追い払う。

 見慣れない私服姿の水無瀬を、チラリと横目で見つめる。焦茶色のセミロングはお行儀良くハーフアップに結われ、白の半袖ブラウスに膝下丈のミントグリーンのスカートを合わせている。いかにも「彼氏のご実家に挨拶に来ました」という清楚な服装である。

 そういえば、たった二週間ほど会っていないだけなのに、心なしか痩せた気がする。顔色もあまり良くないし、やはり夏休みに入ってからロクなものを食っていないのかもしれない。


「……おまえ、ちゃんと食ってる?」

「え? うーん、実はあんまり……毎日アイスばっかり食べてる。夏バテで食欲なくて」


 水無瀬は力なく笑った。アイスは美味いが、そんなものばかり食っていて夏バテが解消されるはずもない。俺は気まずい空気を跳ね飛ばすように、勢いよく立ち上がった。


「……カレー」

「え?」

「夏バテにはカレーに決まってんだろ! 夏野菜がしこたま入ったカレー! ほら、さっさと買い物行くぞ!」


 財布とスマホをエコバッグに放り込み、俺はズカズカと歩き出す。「悠太のカレー!」とはしゃいだ声をあげた水無瀬は、嬉しそうに俺の後ろを追いかけてきた。

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