彼女は高嶺の花
おそらくうちの高校の生徒の中で、水無瀬ひかりの名前を知らない奴はいないだろう。
彼女は入学式の時点から、飛び抜けて目立っていた。すれ違う生徒たちが思わず二度見、三度見してしまうほどに、容姿が整っていたからだ。
艶やかな焦茶色のロングヘア。抜けるように白い陶器のような肌。アーモンド型の目は色素が薄く茶色がかっており、まるで宝石のような輝きを放っている。小さめの鼻は完璧な位置に配置されており、頰は薔薇色に染まっている。薄桃色の唇はやや薄く、口元には常に穏やかな笑みを湛えている。すらりと伸びた手足は長く、ぴんと背筋を伸ばして立つ姿は一輪の花のようだ。
水無瀬ひかりは容姿端麗なだけでなく、それに見合う華やかなオーラも兼ね備えていた。しかも成績優秀で運動神経も抜群、それでいて誰に対しても親切で、生活態度もごく真面目だった。
そんな彼女が当然モテないはずもなく、幾多の男どもが彼女にアタックした。しかし彼女はそのすべてを「ごめんなさい」の一言で撃退していった。水無瀬ひかりは高校入学から一年かけて、絶対に手の届かない高嶺の花の地位を確立していったのである。
俺、上牧悠太は――水無瀬ひかりとは対照的に、何をさせても人並かそれ以下、取り立てて特筆するところのない男子高校生だ。生まれてこのかた十六年間、誰かに告白された経験もなければ、当然彼女のひとりもできたことはない。
水無瀬とは高校二年になって、初めて同じクラスになった。男連中は皆、水無瀬ひかりのクラスメイトの座を手に入れて喜びに咽び泣いていたが、俺としては正直どうでもよかった。むしろ周りがうるさくて面倒だな、と思ったぐらいだ。
おれが水無瀬と会話らしい会話をしたのは、ただ一度きりだ。話はほんの少しだけ前に遡る。俺が馬鹿げた罰ゲームに巻き込まれて水無瀬ひかりに告白する、一週間ほどのことだ。
二年生に進学して二ヶ月が経ち、クラス内の人間関係もなんとなく固定されてきた。最初は大勢で固まって昼飯を食っていたクラスメイトたちも、次第に四、五人程度のグループに分かれていく。
俺はといえば、一年のときからクラスが同じで顔も見飽きた悪友どもと、教室の隅で弁当を食っていた。その日の弁当はそぼろとシャケと卵の三食丼で、我ながらそぼろの味付けが絶妙だと自画自賛していた。
少し離れたところで、女子のグループがまとまって座っていた。女子グループの中では最大派閥で、やや派手で垢抜けた女子が多い。何が楽しいのかギャーギャーとうるさく、甲高い笑い声がやや耳障りだった。盗み聞きする気はないのだが、会話が漏れ聞こえてくる。
「うわっ! 今日の音楽室の掃除当番、上牧と二人じゃん! 最悪!」
「あいつ、めちゃくちゃ細かいんだよね。ちょっと汚れてたら何も言わずにやり直してくるし、姑かっつーの」
「黙ってされんのが一番腹立つよねー」
もはや陰口というには隠す気の感じられない、俺――上牧悠太の悪口である。俺は無言のまま、三食そぼろ丼に舌鼓を打つ。
愛想がなく口と態度は悪く、クールを気取るほどの顔面偏差値も足りない俺は、クラスの女子からのウケが著しく低い。こちらも好かれるつもりがないので、好感度が永遠に回復しないのだ。
とはいえ向こうは俺に話しかけてこないし、俺の方からも女子に近付かないので、こちらとしては何の問題もない。むしろ平和でありがたいくらいだ。
「悠太おまえ、嫌われてんなー」
そう言ってニヤニヤしている悪友たちはやけに嬉しそうだ。奴らは総じて「他人の不幸が何より楽しい」というゲス野郎どもなのである。ちなみに女子からの好感度は俺とどっこいどっこいのはずだ。
「別にどうでもいい」
本心からそう言ったのだが、皆は「まーまー、強がんなって!」とバシバシ背中を叩いてくる。世の中の男がみんな女子にモテたいと考えていると思ったら大間違いだ。少なくとも、俺は出来る限り女子と関わりたくない。
「もしよかったら、私代わろうか。掃除当番」
騒がしい女子たちの会話の中で、鈴の音のような声が漏れ聞こえてきた。その瞬間、悪友どもは水を打ったように静まり返る。発言の主は確認しなくてもわかる、我が校きっての美少女である水無瀬ひかりだ。
「えーっ! ひかりちゃんにそんなことさせられないよ!」
「私、今日放課後予定ないから大丈夫だよ。それに私、上牧くんのこと嫌いじゃないから」
平然とそう言い切った水無瀬に、周りの女子たちは「うわあ、さすがだねー」と感嘆の声をあげる。
ひねくれた俺はその発言を素直に受け止めることができず、やや鼻白んだ。人気者なのに嫌われ者にも優しい私アピール、に利用されるのはなんとなく癪である。
「ほんとひかりちゃんって優しいよね……」
「いいよいいよ。上牧喜ばせるのもなんかムカつくし、わたしがやる」
まったくもって喜ばねーよ、と心の中で突っ込むのと同時に、水無瀬が「上牧くんは私が一緒でも、別に喜ばないと思うけど……」と言った。よしよし、よくわかっているじゃないか。
「ひかりちゃんと二人きりで喜ばない男なんていないってー」
「あー、ほんと見た目も中身も天使だよね。なんか自分のクズっぷりが嫌になっちゃう」
「ひかりちゃんと比べたらあたしら全員クズだよ」
「そりゃそうだー」
アハハ、と明るい笑い声が響く。その輪の中で、水無瀬はやや困ったような笑みを浮かべていた。女子グループ内で自分だけこういう持ち上げられ方をするのは、ちょっと居た堪れないものがあるだろう。俺は彼女にほんの少しだけ同情した。
「ひかりちゃん、上牧に勘違いされないように気をつけてね! うっかり好きになられちゃうかも!」
やけに大きな声で放たれたセリフは、おそらく俺に聞こえるように意識されたものだ。不愉快だが、こんなことでいちいち腹を立てても仕方がない。
「上牧くんは、私のことなんて好きにならないよ」
俺の気持ちを代弁するかのように、水無瀬がきっぱりと答えた。なんだか妙に自信のこもった口調だった。
終業のホームルームが終わり、掃除当番である俺は音楽室に向かおうと立ち上がる。前の扉から外に出ようとすると、クラスメイトの男によって出口が塞がれていた。その傍らには、貼りついたような笑みを浮かべた水無瀬がいる。
「水無瀬さん。今日、よかったら一緒に遊びにいかない?」
クラスメイトをナンパするのはいいが、もう少し邪魔にならないところでやってくれないか。俺はさっさと掃除を終わらせて、夕飯の買い物に行きたいのだ。
「ごめんなさい、私今日は早く帰るから」
天使のような笑みを浮かべたまま、水無瀬ひかりはばっさりと誘いを切り捨てる。それでも摂津は引き下がらず、退路を塞ぐように水瀬の前に立ちはだかる。
「今日の放課後、予定ないって言ってなかったっけ?」
こいつも昼休みに女子の会話を盗み聞きしていたクチだろう。悪趣味だな、と思ったがしっかり聞いていた俺も人のことは言えないかもしれない。
「早く帰って勉強しようと思ってるの」
「ほんと水無瀬さんって真面目だよなあ……たまには息抜きしよーぜ。あ、
そう言って、摂津は水無瀬の肩にぽんと手を置いた。無遠慮に触れられた水無瀬の表情に、ほんの一瞬嫌悪の色が浮かぶ。慌てたように笑顔を取り繕ったようだけれど、薔薇色の頰は強張っていた。
「えと、私ほんとに急いでて……」
「おまえら、邪魔」
痺れを切らした俺はそう声をかけると、二人の間に割って入る。そのまま教室を出て、振り返らずにスタスタと廊下を歩いていく。後ろから「摂津くん、また明日!」と言う水無瀬の声が聞こえた。
小走りで俺に追いついた水無瀬は、隣に並ぶとニコッと笑みを投げかけてくる。俺はチラリと横目で彼女を見ただけで、何の反応も返さなかった。
「上牧くん、ありがとう」
「なにが?」
「ふふ。じゃあまた明日ね。掃除がんばって!」
水無瀬はチェックのスカートをひらりと翻すと、軽やかな足取りで駆けて行った。別に彼女を助ける意図はなかったのだが、妙な勘違いをされてはいないだろうか。
俺は小さく溜息をつくと、足早に音楽室へと向かった。とにかく早く掃除を終わらせて、スーパーのタイムセールに間に合わせなければ。
そのときの俺は、まさか一週間後に水無瀬に告白してOKされるだなんて、想像さえもできなかった。クラス内のカースト中位の限りなく下位寄りをウロウロしている俺は、高嶺の花と関わることなどないだろうと思っていたのだ。一体何がどうなって、こんな事態を引き起こしてしまったのだろうか。
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