カエルの王子様

 昔読んだ絵本の中に「カエルの王子様」という御伽噺があった。

 とある国のお姫様が池に金の鞠を落として途方に暮れていると、突如現れたカエルが「私と一緒に食事をして、一緒に寝てくれるならば鞠を取ってあげる」と言ってくる。渋々承諾したお姫様だったが、いざベッドに入ろうとしたところで、嫌悪のあまりにカエルを壁に叩きつけてしまうのだ。その瞬間にカエルは美しい王子様に戻り、めでたしめでたしというストーリーである。

 初めてこの話を母から読み聞かされたとき、俺は子ども心に、やはり女は恐ろしい、と震え上がったものだ。

 さっきまで壁に叩きつけるほど嫌悪していたというのに、見た目が美しい王子だったら許されるのか。幼少期から気まぐれな姉のワガママに振り回されていた俺は、女心の理不尽さというものをまざまざと思い知らされた。

 生まれながらのカエルである俺は、いくら力いっぱい床に叩きつけられたところで王子様にはなれない。




 ひかりの誕生日から一夜明けた、月曜日。登校すべく玄関から出た俺は、数メートル離れた電柱から顔を出しているひかりを見て、溜息をついた。

 いつもならば「おはよう悠太ー!」と言って勢いよく抱きついてくるのだが、昨日の出来事が完全に尾を引いているらしい。臆病な猫のようにこちらの様子を窺っていたひかりは、俺が近付くと電柱の後ろにさっと隠れてしまった。


「……何やってんだ」

「おっ、おはっ、おはよう悠太!」

「……はよ。はい、弁当」

「い、いつもありがとうございます! じ、じゃあ行こうか!」


 あからさまに挙動不審な彼女は、身体を二つ折りにして両手で弁当を受け取ると、俺と距離を取りつつぎくしゃくと歩き出す。右手と右足が同時に出ているのを見て、俺は溜息をついた。

 昨日はあれから二人でケーキを食べて、やや気まずい空気のまま別れた。一晩経てば互いに冷静になって、いつも通りに戻るだろうと思っていたのだが、まさかここまで事態が悪化するとは。

 今までだって、ひかりに迫って拒絶されることは何度もあった。そのたびに彼女は申し訳なさそうにして、それでも喉元過ぎればまたすぐにくっついてきた。

 しかし今回ばかりは、彼女は本当に俺に嫌悪感を抱いているのかもしれない。


 そのとき、目の前の信号が赤に変わる。せかせかと歩くひかりの後ろを、数歩遅れて歩いていた俺は、慌ててひかりの腕を掴んで引き寄せた。


「おい、ひかり」

「ヒイッ」

「危ねえだろ。ちゃんと前見ろよ」

「ご、ごめんなさい……」


 ひかりは真っ赤な顔で俯いた。華奢な腕は、俺の手で簡単に一回りしてしまう。少々強く掴みすぎたか、と慌てて彼女の腕を解放した。


「……」

「……」


 ひかりが黙っているので、俺も何を言っていいのかわからなくなる。ピヨピヨという赤信号の音だけが間抜けに響いている。所在なく赤いネクタイを弄っていると、ひかりも同じ仕草をしていることに気付いた。


「……あー、その」

「は、はい」

「昨日、悪かったな。あそこまでするつもりじゃなくて、えーと」

「う、ううん……わ、私がっ」

「ひかりが嫌がることは、もうしねえから」


 俺の言葉に、ひかりの顔がみるみるうちに真っ赤に染まる。青信号になったというのに動き出さない彼女を不思議に思って、俺は顔を覗き込んだ。


「どうした?」

「…………ひっ」

「うん?」

「ひ、ひかりって呼ばないでー!」


 ひかりはそう叫ぶと、猛スピードで横断歩道を渡って走り去ってしまった。取り残された俺が唖然としているうちに、再び信号が赤に変わる。


「……名前呼ばれんのも、嫌なのかよ……」


 ……好きだった相手が振り向いてくれた瞬間に、その相手が気持ち悪くなってしまう現象のことを、御伽噺をもじって〝蛙化現象〟というらしい。

 もしかすると、ようやく彼女は正気に戻って気付いたのだろうか。今まで夢中になっていた彼氏は、無愛想で目つきの悪いつまらない男なのだと。自分に興味のないふりをしているだけで、腹の底では他の男と同じような――いや、それ以上の欲を抱えているのだと。




 結局今日は一日、ひかりに無視され続けた。

 ひかりは授業中も一度もこちらを見ようともせず、昼休みも別々に飯を食った。そして終業のホームルームが終わるなり、ひかりは俺を待たず、そそくさと教室を出て行く。


「上牧くん! 水無瀬さんは一体どうしたんだ!? 先に帰ってしまったぞ!」


 すっ飛んできた新庄にそう問われたが、俺は「あいつはいつもどうかしてるだろ」と返すことしかできない。新庄一人だけが、あたふたと慌てふためいている。

 とりあえずひかりを追いかけようと立ち上がったところで、後ろからトントンと背中を叩かれた。


「ね、水無瀬さんと喧嘩でもした?」


 そう言って小さく首を傾げたのは、烏丸百合花だ。俺は「してねえよ」と答え、足早に教室を出る。驚いたことに、烏丸は小走りに追いかけてきた。何の断りもなく、俺の隣に並んで歩き出す。


「……んだよ」

「よかったら一緒に帰らない? いろいろ話も聞きたいし」

「帰らねえよ」

「じゃあ、下駄箱までご一緒するね」


 烏丸はそう言うと、ロングヘアを揺らして優雅に微笑む。やはり表情や仕草が(取り繕っているときの)ひかりによく似ている。俺の拒絶を聞き入れる耳があるだけ、かつての水無瀬ひかりよりは理性的だ。

 しかし、この女は一体どういうつもりなのだろうか。ただでさえ微妙な時期だというのに、これ以上余計な揉め事を増やすのは避けたい。

 げんなりしている俺に構わず、烏丸は美しい笑みを湛えたまま話しかけてくる。


「ねえ、そもそも上牧くんと水無瀬さんってどういう経緯で付き合ってるの? 意外な組み合わせだよね」

「……俺があいつに付き合ってほしいって言ったんだよ。そしたら了承されたから、付き合うことになった」


 これは厳密に言うと真実ではないが、嘘でもない。烏丸は「へえ」と意外そうに目を丸くした。


「それはなんというか、上牧くんって身の程知ら……ううん、厚顔無恥……いや、ええと…………すごく勇気ある行動だよね」

「極厚オブラートに包んだコメントどうも。全然包み切れてねえけどな」

「そういえば、三股して水無瀬さんのことボロクソに振ったって噂も聞いたんだけど、ほんと? 水無瀬さんに泣きつかれて、ヨリを戻したって」

「事実無根だ」


 きっぱり答えると、烏丸は肩を揺らして「たしかに、そういうタイプには見えないよね」と笑った。一応、褒められていると解釈していいのだろうか。


 そのとき、下駄箱の影に隠れてこちらの様子を窺っている、ひかりの姿を見つけた。おそらく、俺のことを待っていてくれたのだろう。俺は烏丸に向かって、しっしっと手を振った。


「下駄箱までって約束だろ。俺、あいつと帰るから」

「あら残念。じゃあまた明日ね」


 烏丸は上履きからローファーに履き替えると、軽やかな足取りで立ち去っていく。ひかりとすれ違いざま、「水無瀬さんも、さようなら」と優雅なお辞儀をした。ひかりも「さよなら」と答えたが、全然上手く笑えていない。


「行くぞ」


 立ちすくんでいるひかりにそう声をかけると、こくんと首を縦に振ってくれた。拒絶させなかったことに、ひとまず安心する。


 俺の半歩後ろを歩くひかりは、俯いたまま黙りこくっていた。何を考えているのかは不明だが、きっとめんどくさいことをあれこれ考えているのだろう。

 校門をくぐってしばらく歩くと、俺たちと同じ制服を着た生徒の姿はほとんど見えなくなる。俺は周囲に知り合いの目がないことを確認してから、ひかりの手を取って握りしめた。彼女の肩がびくりと震えて、繋いだ手から緊張が伝わってくる。


「……その、えーと」

「……」

「もしかして俺のこと、嫌になった?」

 

 我ながら情けないなと思いつつ、尋ねずにはいられなかった。ひかりは長い髪を揺らして、ぶんぶんと首を横に振る。


「う、ううん、違うの……その……」

「ひかりがしたくないなら、もう何もしねえから……」

「ち、違う!」

 

 ようやく顔を上げたひかりは、俺の手をきつく握りしめると、必死さを滲ませながら叫んだ。


「し、したくないわけじゃないの! 私だって、ほ、ほんとは悠太とキスとかしたいよー!」


 周囲に響き渡るほどの大声に、犬の散歩をしていた中年女性が、すれちがいざま目を丸くしてこちらを見る。ワンッ、と犬が咎めるように吠えて、俺たちは揃って赤面した。


「……TPOを考えろ」

「……はい」


 ひかりは叱られた子どものような顔で、上目遣いに俺を見つめた。


「……悠太ぁ。避けたりして、ごめんなさい」

「いや、そもそも俺がひかりに変なことしたせいだから」

「ちっ、違うの……いや、それもあるんだけど、その」

「ん?」


 俺は腰を屈めて、ひかりの顔を覗き込む。ひかりは真っ赤になった顔を両手で覆うと、いやいやをするように首を振った。


「そ、それやめて……」

「え? 何を?」

「名前……」

「へ」

「……昨日からずっと、悠太の名前呼びの破壊力がすごくて……もう冷静じゃいられない……」

「……はあ?」


 俺はぽかんと口を開いた。たかが名前を呼ぶぐらい、一体何が問題だというのか。自分は最初から俺のことをファーストネームで呼び捨てているくせに、まったく訳がわからない。名前で呼ぶことすら許されないとは、つくづく難儀な女だ。


「なんでいきなり、そんな慣れた感じで名前呼べるの!? ときめきすぎて胸が苦しい! 致死量のキュンだよお……」

「なんなんだよ、めんどくせえな……」

「……ねえ悠太、やっぱり苗字呼びに戻さない? このままだと、私の心臓が止まっちゃうよ……」

「嫌だ」


 彼女の望みはできる限り叶えてやりたい俺だが、今回ばかりは譲れない。俺はひかりの目をまっすぐに見つめると――避けられた仕返しの気持ちも、ほんの少しだけ込めて――言ってやった。


「ひかり」

「……うっ」


 ひかりはまるで心臓を撃ち抜かれたかのような仕草で、胸の辺りを押さえてよろめく。「……心臓止まった」と呟いたひかりの額を、「バカ」と軽く小突いてやる。

 どうやらこの一風変わったお姫様は、カエルのことがまだ王子様に見えているらしい。もうしばらく魔法にかかったままでいてくれよ、と願いながら、彼女の髪を乱暴に撫でた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る