神に愛されし女

 校門をくぐると、満開の桜が咲き誇っていた。淡いピンク色のわたあめのような花々が、通い慣れた学び舎をやけに華やかに飾り立てている。澄んだ青空とのコントラストが美しい。穏やかな春の風に乗って、薄桃色の花びらがふわりと舞う。

 少し前を歩く水無瀬は、艶やかなロングヘアを靡かせて振り向いた。


「悠太ぁー! 早く早く! クラス発表貼り出されてるよ!」


 満面の笑みで手を振る水無瀬は、このまま切り取って絵画にできそうなぐらいに綺麗だ。もともとは俺のものだったはずの青いネクタイは、すっかり彼女の首元に馴染んでいる。俺の首には、彼女の赤いネクタイがしっかりと巻きついていた。


 春休みが終わり、今日から新学期が始まる。無事に進級した俺たちは、晴れて高校三年生になった。薔薇色の青春を謳歌しているとは言い難い俺だが、高校生活も残り一年かと思うと、それなりの感慨を覚えた。

 そういえば去年のクラス替えで、水無瀬と初めて同じクラスになったのだった。当時の俺は彼女に微塵も興味がなかったので、はしゃぐ悪友たちに冷たい視線を送っていた。まさかほんの一ヶ月後に、彼女に告白して付き合うことになるとも知らずに。


「私ね、悠太と同じクラスになれますようにって、ちゃんとお祈りしてきたの!」


 そう言った水無瀬は、俺の記憶にある「学園一の美少女」の澄ました笑みよりも、ずいぶんアホっぽかった。こいつは俺と付き合い始めてから、どんどん知能指数が下がっている気がする。もっとも、精巧な人形のような顔よりも、へらっと眉を下げる天真爛漫な笑顔の方が俺は好きだ。


「なんかね、新月の夜に祈りを捧げるのがいいんだって。好きな人の髪の毛をポプリの袋に入れて、枕元に置いて寝るの」

「なんだよそれ、黒魔術か」

「ばっちり十本ぐらい髪の毛つめておいたから、きっと大丈夫だよ!」

「……ちょっと待て。こないだ俺が寝てるときに髪の毛ぶちぶち引っこ抜いてたのはそのためか」

「ちゃんとお祈り聞き届けてもらえたかなー! あー、ドキドキする!」


 相変わらず人の話を聞かない水無瀬は、両手で心臓のあたりを押さえている。

 俺は照れ隠しでもなんでもなく、別に水無瀬と同じクラスじゃなくてもいいな、と考えていた。クラスが別でも登下校や昼休みを共にするのに支障はないし、週末になれば彼女の部屋に行くのだから、一緒にいる時間が格段に減るわけでもない。むしろ別のクラスの方が、余計なやっかみやからかいを受けずに済んで良いかもしれない。

 クラス分けの掲示の前には、大勢の人だかりができてきた。しかし水無瀬がやって来た途端に、海を割るモーゼのように目の前の人間たちが避けていき、なんなく一番前まで来ることができた。水無瀬ひかり、なんて便利な女なんだ。


「……あーっ! 見て見て悠太! 今年も一緒のクラスだよー! やったね!」


 俺よりも早く俺の名前を見つけたらしい水無瀬が、その場でぴょんぴょんと飛び上がる。少し遅れて、俺も自分と水無瀬の名前を見つけた。二人揃って、三年三組の欄に名前が載っている。

 そのとき俺の胸に訪れたのは、喜びでも落胆でもなく「やっぱりな」という感情だった。

 彼女の願いが聞き届けられないはずがない。相手が神様だろうが天使だろうが悪魔だろうが、水無瀬ひかりから願われたならば叶えてやりたくなるのが心情というものだろう。美少女の祈りに勝るものはないのだ。


「……こういうのって、ふつう恋人同士はクラス離したりするもんじゃねえの。受験に支障があったらどうすんだ」

「え! 悠太ってば、私がそばにいたらドキドキしすぎて受験に集中できないってこと!? やだもう! 大丈夫だよ、私がばっちり勉強教えてあげるからね!」


 そういって俺の腕に抱きつく水無瀬を、溜息混じりに「はいはい」と軽くいなす。クラス掲示の前でイチャつくバカップルのことを、周囲は温かい視線で見守っていた。




 始業式が終わると、俺たちは体育館から三年三組の教室へと移動した。今日はこのあとのオリエンテーションが終わればすぐに帰宅できる。俺は始業式のあいだずっと、今夜の晩飯のメニューを考えていた。最近は新玉ねぎと春キャベツの季節になったから、料理が楽しい。


「あっ、水無瀬さん!」


 俺と水無瀬が教室に入るなり、長身のイケメンが満面の笑みで駆け寄ってきた。水無瀬にこのうえなく心酔している、新庄貴之である。


「水無瀬さん! まさか今年も同じクラスになれるとは……! 君と高校最後の一年を共に過ごせることを、心から光栄に思うよ」


 相変わらず、ずいぶんと大仰な奴だ。感極まった様子の新庄とは対照的に、水無瀬は人形のような笑みで「どうもありがとう」とクールに答える。少しずつ素を出せるようにはなってきたとはいえ、相変わらず自分に好意を向けてくる異性に対しては塩対応だ。

 新庄は水無瀬の反応に気を悪くした様子もなく、くるりと俺へと向き直る。がしりと勢いよく両手を握り締められて、さすがにたじろいだ。


「上牧くん、去年は君のおかげで水無瀬さんの新たな表情を見ることができた。ありがとう」

「……はあ、どうも」

「今年もまた水無瀬さんと君を見守ることができて嬉しいよ。一ヶ月前から水無瀬さんが君と同じクラスになれるよう、毎日祈祷をし続けた甲斐があった」


 どうやらここにも、祈りを捧げていた奴がいるらしい。おまけで新庄を水無瀬と同じクラスにしてやったのは、神様が手心を加えてやったに違いない。なにせ、こいつは良い奴なのだ。来世もきっとイケメンになれるぞ。今世で運を使い果たした俺の来世は、きっとミジンコだ。


 新庄を適当にあしらったあと、名簿順に指定された席に座る。廊下側の後ろから二番目だった。前の席に座っていたのは悪友の大宮隼人で、「また悠太と同じクラスかよー」「それはこっちのセリフだ」と軽口を叩き合う。

 水無瀬は窓側寄りの、一番前の席に座っている。こちらを振り向いて、チュッと投げキッスを飛ばしてきたので、俺は仏頂面でそれを叩き落とす振りをした。水無瀬は満足したらしく、嬉しそうに正面に向き直る。投げキッスの流れ弾が当たったらしい隼人は、その場で悶絶していた。


「クソッ、水無瀬さん可愛すぎる……! なんっっだよ今のバカップル仕草……!」

「失礼なことを言うな」

「どこからどう見てもバカップルだろうが! 今すぐできるだけ苦しんで死ね」

「いや、俺は今世はなるべく長生きするぞ。来世はきっとミジンコだから」


 そんなやりとりをしていると、ふわり、と背後から甘い香りが漂ってきた。どこかで嗅いだことのある匂いだな、と思って反射的に振り向く。俺の後ろの席に腰を下ろした女を見た瞬間、俺はぎくりとした。

 俺が驚いたのは、その女が驚くほど水無瀬ひかりに似ていたからだ。いや、よく見ると顔立ち自体はそれほど似ていない。たしかに美人ではあるけれど、ひとつひとつの顔のパーツは水無瀬と全然違う。

 似ているのは髪型や化粧の仕方、制服の着こなしや全体の雰囲気だ。艶やかな焦茶色のロングヘアに、品の良いグレーのカーディガン。アイラインの引き方やアイシャドウの色、おそらく香水も水無瀬と同じだ。

 彼女は口角を完璧な角度で上げて、ニコリと美しい笑みを作った。そんな笑い方も、水無瀬ひかりが有象無象の男どもに向ける笑顔によく似ている。


「私、烏丸からすま百合花ゆりか

「え? あ、ああ……」


 一拍遅れて、自己紹介をされているのだと気がついた。こちらも名乗るべきか迷ったが、俺が口を開く前に「上牧悠太くん、だよね」と名前を呼ばれる。


「……俺のこと、知ってんの」

「当たり前でしょ、水無瀬さんの彼氏だもん。今この学校に、上牧くんのこと知らない人いないよ」


 はあ、そうですか。俺はほんの一年前までそこらのモブだったのに、妙な形で有名になってしまったものだ。学校一の美少女と付き合うというのは、さまざまな弊害がつきものである。水無瀬と別れるつもりは毛頭ないが、こういうのはちょっと面倒臭い。

 憮然としている俺の様子に気付いたのか、烏丸は長い髪を耳にかけて、くすくすと笑みを零す。そういう仕草も水無瀬を彷彿とさせて、なんだか変な気分になってきた。


「それに、ね。私ずっと、上牧くんのこと気になってたの」

「はあ?」


 予想外の発言に、俺はぎょっと目を剥いた。水無瀬と似たような顔をして、似たようなことを言う奴だ。俺に興味のある奇特な人間なんて、水無瀬ひかり以外に存在しないと思っていたのに。

 唖然としている俺の手を、烏丸はぎゅっと握りしめる。今日はよく手を握られる日だな、と俺はぼんやり考えた。


「これから一年間よろしくね、上牧くん」


 もちろん俺は、水無瀬ひかり以外の女とよろしくするつもりなど毛頭ない。


「遠慮しとく」


 きっぱりとそう答えて、烏丸の手を振り払った。烏丸は特に気を悪くした様子もなく、顔面に完璧な笑みを貼りつけている。

 振り返ってチラリと前方の水無瀬に視線をやると、彼女は鬼神の如き形相でこちらを睨みつけていた。

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