ハッピー・バースデイ
俺のもっとも好きな休日の過ごし方は、平日にはできない手間のかかる家事を片付けて、お掃除ロボットと戯れながら少しのんびりした後で、スーパー買い物に出かけて、自分の食いたいものを思う存分作ることである。余裕があれば作り置きなんかもしておけば、平日の夜がぐっと楽になる。
十一月最後の土曜日はすっきりと晴れ渡っており、絶好の洗濯日和だった。衣類の洗濯が終わったら、家中のシーツと枕カバーを全部洗っておこう。洗濯機に入っている靴下で神経衰弱をしていると、洗面所に顔を出した姉ちゃんが呆れた表情を浮かべる。
「うわっ! あんた、なに自分の誕生日に洗濯してんの!? 誰も祝ってくれないわけ!? 寂しい奴!」
――そう。本日十一月二十六日は、俺の十七歳の誕生日である。
後が怖いので言い返さないが、別に寂しくもなんともない。俺にとっては最高の誕生日の過ごし方なのだから、己の価値観を押しつけるのはやめていただきたい。今日の晩飯は、自分の好物を思う存分作ろうと思っていたのだ。それに誰からも祝われてないわけではない。透からは祝いのメッセージが届いたし(ちゃんと礼を言った)、悪友たちからはエロ動画のU RLが送られてきた(死ね、と返信しておいた)。
「お母さん、悠太から誕生日プレゼントに圧力鍋ねだられたって嘆いてたわよ。あんたほんとに高校生男子?」
高校生男子が圧力鍋を欲しがって何が悪い。豚の角煮だって短時間で簡単に作れるんだぞ。ちなみに俺が愛するお掃除ロボットは、去年の誕生日プレゼントである。
「そういえば今日、ひかりちゃんは? もしかしてもうフラれた?」
「……まだ、フラれてない」
そう、「まだ」である。俺と水無瀬との関係は、細い綱を渡るような危ういバランスで継続しているのだ。俺の気持ちがバレてしまったら、きっと俺は秒でフラれてしまうだろうから。
「だったらなんで誕生日に放置されてんの? せっかく土曜日なんだし、ふつうデートとかしない?」
「いや、そもそも……あいつ、俺の誕生日知らない気がする」
思えば俺は水無瀬に誕生日を教えた記憶がない。昨日の夜も水無瀬からメッセージが何通かきていたが、特に誕生日については触れられていなかった。
姉ちゃんは「えっ、そうなの!? そんなことってある!?」と形の良い眉を顰めると、スマホを取り出し何やらメッセージを打ち込み始める。それから俺の頭をぽんと叩いて、にやりと笑ってみせた。
「ふふん、お姉さまからの誕生日プレゼントよ」
「はあ?」
怪訝に思って訊き返すと、スウェットのポケットに入れていたスマホが震えた。取り出して画面を見ると、水無瀬からの着信画面が表示されている。姉ちゃんは「ひかりちゃん、早い!」とはしゃいだ声をあげた。
――くそ、姉ちゃんめ。余計なことしやがって。
「……はい」
『もしもし悠太!? 今日誕生日ってほんと!?』
電話の向こうで、水無瀬が大きな声を出した。俺はニヤニヤしている姉ちゃんを横目で睨みつけながら、「まあ、一応」と答える。
『な、なんで言ってくれなかったのー! 今お姉さんから、誕生日だから祝ってやってーって連絡きて、びっくりしたよ!』
「いや……自分から言うのも変だろ」
『言ってよ! ああ、そもそも私がちゃんと確認しとけばよかったんだよね……なんか、そういうことに頭回ってなくて……付き合うって難しいな……ねえ悠太、今日予定ある? 会いに行ったらダメかな?』
「予定、は……」
予定ならある。今日はシーツと枕カバーを洗濯したらエアコンの換気扇も掃除して、夕飯には俺の好きな筑前煮を作ろうと思っていたのだ。それでも口から飛び出したのは、まったく別の言葉だった。
「……特にない」
『ほんと!? じゃあ一緒に買い物行こうよ!』
はしゃいだ声の水無瀬に「わかった」と頷くと、二時に駅前で待ち合わせる約束をして電話を切る。
したり顔でこちらを見ていた姉ちゃんは、ばしんと俺の背中を叩いて言った。
「気の利くお姉さまに感謝しなさいよ」
「うるせえよ、余計なお世話だ」
……ありがとうございます、お姉さま。本音を言うなら、俺だって水無瀬に誕生日を祝われたくないわけではなかったのだ。
枕カバーとシーツを洗って干した後、俺は出かける準備をする。身支度を整えて玄関から外に出る前に、姉ちゃんが大声で叫んだ。
「悠太ぁー! 今日、あたしもお母さんも夜いないから、ちょっとくらい遅くなっても大丈夫だからねー! あ、朝帰りはダメよ!」
俺は「しねえよ!」と答えてから、スニーカーを履いて家の外に出た。きらきらと降り注ぐ太陽の光は眩しく暖かく、まるで俺の誕生日を祝ってくれているように感じられた。
約束の十五分前に、待ち合わせ場所である駅に到着した。このあたりでは一番の繁華街であるこの駅は、大勢の人間でごった返している。改札のそばには軽薄そうな男二人組が、行き交う女性に値踏みするような視線を向けていた。ナンパ相手でも探しているのだろうか。早めに来てよかった、と俺は思う。こんな場所で水無瀬を一人で待たせるわけにはいかない。
五分ほどぼーっとしていると、改札から水無瀬が出てくるのが見えた。相変わらず、遠くからでも目立つ風貌をしている。駅前にある人間たちの視線が、すっと彼女に集まるのがよくわかった。
秋らしいカーキ色のマウンテンパーカーに細身のデニム、足元は赤のハイテクスニーカーだ。花火大会のときと同様、なかなかカジュアルな服装である。ナンパ避けの意味もあるのだろうが、単に水無瀬の趣味なのかもしれない。制服の着こなしはかなり清楚なので、ちょっと意外だ。
さっきの男二人組が水無瀬を見ながらひそひそと話し合っていることに気付いて、俺はいちはやく動き出した。
「水無瀬」
きょろきょろと周りを見回していた水無瀬だったが、俺が声をかけると、ぱっと表情を輝かせる。
「あっ、悠太ー! 早かったね! ごめんお待たせ!」
俺を見つけるなり、猪のように勢いよく胸に飛び込んできた水無瀬を受け止める。俺に抱きついたまま、水無瀬は顔を上げてニッコリ笑った。
「悠太、お誕生日おめでとう! 当日に会えてよかった!」
「ああ、うん。どうも……」
「ねえねえ、今から悠太の誕生日プレゼント買いに行こうよ!」
水無瀬はいつものように俺に腕を絡めて歩き出そうとする。普段は自分のテリトリー内なのであまり気にしていなかったのだが、繁華街で彼女と腕を組んで歩くという行為は結構恥ずかしいものがある。
水無瀬の腕を振り解くと、彼女は拗ねたような、それでいてちょっと嬉しそうな顔をした。こいつはこうして俺にすげなくされるのが好きなのだ。しかし申し訳ないが、今日はおまえの思う通りにはしてやらない。
俺は水無瀬の手を取ると、指を絡めてぎゅっと握りしめた。今までは水無瀬が一方的に俺の腕にしがみついてくるばかりで、手を繋いだことは一度もなかった。目を丸くした水無瀬の顔が、みるみるうちに真っ赤に染まる。
「ゆ、ゆっ、悠太! て、て、手が」
「……うるせえな。腕組んで歩くよりマシだろ」
「そ、そ、そ、そうなんだけど」
「……嫌なら離す」
こいつは「自分のことを好きな男に触られるのが苦手」なのだ。今となっては、俺も例外ではない。少しでも水無瀬が嫌がるそぶりを見せるなら、俺はすぐに手を離してやるつもりだった。
しかし水無瀬は、ぶんぶんと首を横に振った。恥ずかしがりながらも俺の手をぎゅーっと握り返してくるものだから、折れてしまうのではないかと不安になる。この馬鹿力。
「い、嫌じゃない! ね、悠太何が欲しい? とりあえずそこのロフト行こうか!」
俺は一人でこんなところに買い物に来るようなタイプではないし、ここに来るときは大抵姉ちゃんの荷物持ちだ。それほど詳しいわけでもないので、水無瀬には任せることにした。
水無瀬に連れられるがままに雑貨店へとやってきた俺たちは、とりあえず調理器具のコーナーへと向かった。
あれやこれやと見てみたが、俺はもともと物欲が薄い方だ。安価な調理器具でも買ってもらおうかと思ったが、めぼしいものは大体持っている。レンジで半熟卵が作れるケース(百円也)を買ってもらおうかとも思ったが、「安すぎる!」とダメ出しを食らってしまった。
「鍋とかフライパンは?」
「そこそこ良いやつ持ってるんだよな……」
「どうしよう……エプロンも持ってるもんねえ」
「もともとそんなにこだわりない。あれも姉ちゃんが誰かに貰ったやつだし」
「やっぱり? 悠太にしてはやけにかわいいと思った」
水無瀬に「あれは? これは?」と勧められるが、どうにも欲しいと思えるものがない。強いて言うなら今欲しいのはバルミューダトースター(二万五千円也)だが、そんな高価なものを水無瀬にねだる気にはなれなかった。
とはいえ、何も買うつもりがなくても、自分が興味のある雑貨を見るのは楽しいものだ。俺があれやこれやと物色しているのを、水無瀬はやけに嬉しそうに眺めていた。
食器が並ぶ棚まで来たところで、俺はふと足を止める。そういえば、このあいだ餃子を食ったとき、水無瀬の家には茶碗がひとつしかなかった。渋々味噌汁のお椀を使ったのだが、なんとなく落ち着かなかったのだ。
「悠太、お茶碗買うの?」
じろじろと茶碗を物色し始めた俺に、水無瀬が声をかけてくる。俺は棚を眺めたまま「うん」と頷いた。
「おまえんち、ひとつしか茶碗ねえだろ」
「え? うん、一人暮らしだからね」
「俺、茶碗以外の器で米食うのなんか嫌なんだよ……これにしようかな」
シンプルな白い茶碗を手に取ると、水無瀬はきょとんとして固まっていた。あれ、なにかまずいこと言ったかな――と考えて、はっとする。いや、なんで水無瀬の部屋に俺の茶碗を置く前提で話をしてるんだ。
水無瀬の部屋で飯を食ったのは、餃子を作ったあのとき一度きりである。それなのに、自分用の茶碗を用意させるなんて図々しいにも程がある。俺は慌てて、手にしていた茶碗を棚に戻した。
「いや、ごめん……今のなし。やっぱやめ」
「なんで!? すごくいいと思う! 私の部屋に置くんだよね!? 私も買う! お揃いにしよう!」
水無瀬は髪を振り乱しながらかぶりを振ると、ものすごい剣幕で茶碗の棚を睨みつけた。茶碗を選んでいるとは思えないくらいの迫力だ。
「ね、これは? 北欧風デザインでかわいくない?」
「やだよ。茶碗は和柄一択だろ」
「じゃあこれにしようよ! 有田焼らしいよ!」
水無瀬が選んだのは、麻の葉模様が入った夫婦茶碗だった。白地にそれぞれ青と赤で模様が描かれている。特に反対する理由が見つからなかったので、俺は「それでいい」と答えた。
水無瀬は「割り箸じゃなんだから」と言って、俺の分の箸も購入していた。黒い立派な塗り箸で、そこそこ良い値段がする。なんだか申し訳ない気持ちがしてきた。
「はい、悠太! ハッピーバースデー!」
会計を済ませてきれいにラッピングされたばかりの包みを、水無瀬は嬉しそうに差し出してくる。俺はそれを受け取ると「……ありがとう」と小声で言った。プレゼントを受け取ったとは思えない愛想のなさだが、それでも水無瀬は満足げにしている。
思えば俺は、水無瀬の誕生日を祝っていない。こいつの誕生日はたしか四月の初めの方だったはずだ。クラス替えをしてすぐ、周囲から盛大に祝われていたからよく覚えている。俺はクラスメイトに囲まれている高嶺の花を、どこか冷めた目で眺めていた。
……あのときはまさか、水無瀬ひかりに自分の誕生日を祝われることになるとは思わなかった。
「……水無瀬、このあとまだ時間ある?」
「うん、大丈夫だよ!」
「じゃあアイスかなんか奢ってやる」
買い物をするのに意外と時間を使ってしまい、時刻は既に十六時前だった。カフェにでも行って甘いものを食べるには、ちょうどいい時間だろう。
「え!? ダメだよ! だって悠太の誕生日なのに……」
「俺、おまえの誕生日に何もしてないし」
「だってあのときは、まだ付き合ってなかったじゃない! 私の誕生日には、また悠太がお祝いしてくれたらいいよ! デートしようね!」
水無瀬の言葉に、俺は頷くことができなかった。彼女の誕生日は来年の四月だ、あまりにも遠い。おそらく、水無瀬との関係はもうそこまで長くは続かないだろうと予感していた。俺はきっと、水無瀬の誕生日を祝うことができない。
「……いいから、黙って奢られろよ」
なかなか折れない俺に、水無瀬はうーんと腕を組んで思案顔をした。それから俺が持っているラッピングの包みを指差して、はにかんだように笑う。
「じゃあこれ、使おうよ」
「え?」
「今から私の部屋行って、一緒にごはん食べよう! 私、悠太の作ったごはんが食べたい!」
そんな風に無邪気な笑顔を向けられると、俺は「わかった」と答えるしかない。水無瀬に向かって無言で手を伸ばすと、彼女は頰を染めながらも嬉しそうに俺の手を握ってくれた。
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