第20話 繋いだ手はそのままで
明かりの消えた自室のベッドで仰向けになりながら、一度、はぁー、っと深く長く、肺の奥底に沈殿していた二酸化炭素を吐き出した。それから、また吸う。改めて呼吸を始める。
窓から覗く夜空には、星なんか一つも浮かんでいない。当たり前だ。この辺は都会というほど都会ではないけれど、かといって田舎というほど田舎でもない。
人知れず輝く星々を目視するには、余分なものが多すぎる。
ベッド脇のスマホを取り出して、時刻を確認する。午後十時。小学生の時分は既に床についていた時間だ。今の私もベッドに寝転がっているけれど、それは眠るためじゃない。
大きくなるにつれて気苦労は増えていくのに休息の時間は減っていくなんて、考えてみればおかしな話だ。人生ってハードだな、なんて感慨を抱く。ついでに通知が入ってないか確認してみたけれど、誰からも連絡はない。まあ、いつものことだけど。
京子母は、もう京子に話をした後だろうか。許嫁の件はなかったことにする、って。
……そういえば私、京子母から口止めされた覚えはあるけど、口止めはしなかったな。
もしかして、言っちゃうだろうか。私が一人で家に来て、諸々の事情を話に来たこと。
いや、言うよね。だってそうじゃなきゃ、京子母が私と京子の交際を認めたみたいになっちゃうし。うわ、嫌だな、それ。
どことなく塞ぎがちだった気分が、さらなる憂鬱の底へと落ちていく。
京子は、京子母から話を聞いて何を思うのだろう。冷静になって考えてみれば、本当に出しゃばってしまったというか、僭越な行動だった。断りもなしに友人の母親に話をつけに行くなんて、余計なお世話どころの話じゃない。
……もしかしたら今頃、京子は私のことを迷惑だと感じてるんじゃないだろうか。
一度、そんな疑念が胸中に湧くと、後ろ向きな考えばかりが次から次へと思い浮かんで、泡のように私の脳内を満たしていった。不安になり、恐ろしくなる。私、京子に嫌われたんじゃないかって。今頃、京子は私に怒ってるんじゃないかって。
繋がりが切れて以前のような関係へ戻るだけなら、まだいい。でも、嫌悪感を抱かれるのは嫌だ。嫌というか、怖い。他人から悪意の矛先を向けられるのは、他の何よりも恐ろしい。
無意識に、胸の上でスマホをギュッと握りしめていた。
明日から、一体どんな顔して学校に行けば良いんだろう。わからない。こんなことなら調子に乗って白雪姫役なんて引き受けるんじゃなかった。練習や合宿で否応なしに顔を合わせることになるわけだし、気まずいどころの話じゃない。
思わず、子供みたいに頭を抱えそうになる。ああいや。実際、子供なのか。私は。
……本当、私は今まで何をしていたのだろう。
無駄をなくして楽して生きる、というのがポリシーだったはずなのに。いつの間にか、様々な厄介事にがんじがらめにされてしまって、どうにかしようと奔走して、でも結局はこんなふうにいつもどおり摩耗しただけ。疲弊しただけ。擦り切れただけ。
馬鹿だな、私って。疲れただけで、結局、何も得してない。新しく手に入れたと思った感覚も、感情も、もう味わうことはない。だって私と京子は、恋人(偽)なんかじゃないから。
手に入れたそばから、手放して。失って。そうして最後に残ったものは、傷つき磨り減った自分だけ。性に合わないことはするものじゃないな、と自嘲する。これもまた、人生の教訓か。
でも生憎、思春期真っ盛りの私としては、一つ一つの後悔をその程度の軽いノリで片付けることなんか出来ないわけで。ヘラヘラ笑って誤魔化すこともできなければ、アルコールで洗い流すのも許されてないわけで。
だから一々真に受けて、抱え込んで、背負い込んで行くしかない。一体、いつになったらこの重荷を手放すことができるのだろう。ただひたすらに、慣れるのを待つしかないのだろうか。
はぁ、と改めてため息がこぼれ出る。
ため息を吐くと幸せが逃げるとか言うけれど、それは違う。幸せじゃないから、ため息が漏れるんだ。そしてそれは多分、それを見た誰かに助けて欲しいからで。でも一人ぼっちの私には、助けてくれる人なんていないのであってヴーヴーヴー……ッ!
「わ、わ……っ⁉」
突然、手の中のスマホがブルブルと震え始めた。急な電話にビクッとしつつも、でも急じゃない電話なんてないよなと冷静に思い直しながら、画面を確認する。京子からだった。
息を呑む。そのまま、小刻みに震えるスマホを握りしめたまま、淡い光を発するスクリーンをじっと見つめる。
……何、言われるんだろう。やっぱり、文句でも言われるのかな。勿論、そうじゃないかもしれない。でも、そうかも知れない。わからない。だから怖い。この電話に出てしまったら、わからないのがわかってしまう。出なければ、有耶無耶なままにしておける。少なくとも、傷つくことはない。
そう考えると、画面に近づけた人差し指がそれ以上、動かなくなる。このまま見て見ぬフリをして、無視してしまおうか。そんな弱気な考えが頭をもたげる。
けど、そんなことしたら後々、余計に気まずいことになる。そのくらいの分別は、私だって身につけているわけであって。そういうのは、ポリシー的に許せないわけであって。
こんなふうに逡巡している内に、切れてくれないかなって思う。そうすれば、意図的に無視したわけではなくなるから。なんて都合のいい考えだ。格好悪い。
でも、電話はまだ切れない。相変わらず、右手の中でヴーヴーヴーヴー言ってる。
結局、出ることにした。勢いで通話ボタンを押して、耳元に持っていく。
「……もしもし」
「あ、もしもし。柳?」
「うん、そうだけど……、何か用?」
心なしか、声が強ばるのがわかった。この先を聞くのが、怖かった。
「あ、うん。用っていうか……、聞いたの。お母さんから。柳が今日、家に来たこと」
その一言で息が詰まる。この話だと確信してはいたけれど、こうして実際に突きつけられると緊張は免れない。
「そう、なんだ。……それで?」
恐る恐る、先を促す。スマホを握る掌が、じっとりと手汗を帯びていくのがわかった。
「――その、なんていうか……、ありがとね、柳」
電話越しに、京子が軽く笑ったのがわかった。
同時に、張り詰めていた肩の筋肉から急速に力が抜けていく。固形物みたいな空気が肺の奥から、ゆっくりと抜け落ちていくのがわかった。
「本当は、わたしが自分で話さなきゃいけなかったのに。柳には迷惑かけっぱなしだね」
「ううん、気にしてない」
電話越しに、小さくかぶりを振る。何にせよ、これではっきりした。京子は、私のことを恨んだりしていない。それがわかっただけで、全身を取り囲んでいた重苦しい大気が払われていくようだった。口元が自然と緩んでしまっているのを感じた。相当、気に病んでいたらしい。
「嘘。だって柳、気まずかったでしょ?」
「あ、わかる?」
「わかるよ。当たり前じゃん。わたしだったら胃に大穴空けて、今頃は病院だよ」
大して面白くもない冗談に、どちらからともなく笑い出す。
こうやって話していると、京子だなぁ、なんて不思議な感触を覚える。姿が見えているわけじゃないのに、聞こえる声は、やっぱり京子だ。そんなの、当たり前のことなんだけど。
「とにかく、ありがとう。柳。……なんか、わたしって柳に頼ってばっかりだね」
「え? 別に、そんなこと――」
「ねえ、柳」
どことなく角張った、ザラつきのある声だった。まるで、無理くりに押し出したみたいな硬さと緊張感があって。珍しく改まった様子の京子を、少し怪訝に思う。
「ん? どうかした?」
「その、……わたし、さ。……迷惑、じゃないかな? 煩わしく思ったりしてない?」
暗い部屋の寂寞にそっと染み入っていくかのような、細く、震えた声。
私は軽く意表を突かれて、二の句が継げなかった。
「柳って、優しいから。わたしが頼れるのって、柳だけだから。それで柳に甘えちゃって、迷惑かけてないかなって。……気苦労、かけちゃってるでしょ?」
「まあ、否定はしないけど」
ここで気を使ったら京子は余計に萎縮してしまうと思って、素直に答えた。
そうだよね、と京子が控えめに息を呑む音が聞こえてくる。
「でも、いいんだ」
「……いい? いいって、何が?」
面食らったかのように、京子が訊き返してくる。私はうん、と相槌を打って言葉を続ける。
「だって、その……、京子はさ。ちゃんと、私に返してくれるものがあるでしょ? 色々と。だから、なんていうのかな。疲れたぶんだけの採算は、取れてるかなって……」
なんだか照れくさくて、歯切れ悪く言葉を発する。面と向かってるわけでもないのに、頬が赤らんでいないか気になってしまって仕方なかった。
「返してるもの? わたしが? 柳に?」
しばらく間があって、京子がやけに呆けた声で言ってくる。
「え? そんなもの、あったっけ?」
「……は?」
困惑した様子の京子の言葉に、私は愕然とした。
「え。ま、待って京子。……わからないの?」
身体を起こしてベッドの上に座り込み、恐る恐る問いただす。自然と前屈みになってしまうのがわかった。本気? 本気でわかってないの、こいつ?
「う、うん。わたし、柳に何かしてあげたこと、あったっけ……?」
「は、はぁ……⁉ 嘘でしょ⁉ それ真面目に言ってるの⁉」
思わずベッドの上に立ち上がってしまった。今度こそ、頬がみるみるうちに紅潮していくのがわかった。それがどんな心情に起因するものなのかは、言うまでもないだろう。両方だ。
「も、もういい! なんでもない! 忘れて!」
「えー? 今更、そんなこと言われたって、気になるじゃん。教えてよ」
「や、やだ! 絶対やだ! そのくらい自分で考えてよ、この馬鹿! 鈍感! 人たらし!」
「ちょ、ちょっと柳? もしかして怒ってる?」
「怒ってない!」
「ほらー、やっぱり怒ってるじゃん。……まー、いいけどさ。よくわからないけど、柳の方が勝手に満足してくれてたんなら」
これ以上は埒が明かないと判断したのか、京子が追求を諦める。それから、苦笑したみたいな微かな吐息の音が聞こえてきた。
「なんにせよ、ありがと柳。そーいうことなら、これからも甘えさせてもらっちゃおうかなー?」
「……え? これからも?」
ベッドの上でバタバタ身悶えしていた身体が、ピタリと静止する。ひどく軽い調子で吐かれたその言葉に、虚を突かれたみたいな心地になった。
「うん。柳がそれでいいって言ってくれるんなら、これからも何かと助けてもらおうかなって。いいかな?」
「う、うん。それは別に、いい、けど……」
不意打ちを食らった脳みそはぽかんとなってしまって、返答がしどろもどろになる。
それから、もう少しだけやり取りを続けたところで話題も尽きて、電話を切った。私は軽い放心状態になってしまっていて、ツーツー、という電子音を十秒ほど耳の奥で聞いていた。
「……そっか。そういう、ものなんだ」
呆けた声で呟きながら、すとん、とベッドの上に腰を下ろす。
これからも、か。いい言葉だと思う。これからがあるというのは、これからも続いていくということだ。それは多分、悪いことじゃない。
要するに、何もかも私の杞憂だったのだ。京子と恋人(偽)でなくなってしまったら、それきり京子との関わりはなくなる。赤の他人に元通り。そんなふうに考えて、怖くなって、でもそれじゃ駄目だと思って決意して。
けどそれは、違ったらしい。
一つの関係が終わっても、繋がりは終わらない。お互いに、離れまいと手を伸ばし続けていれば。きっと。永遠とまでは言えずとも、まあ、ある程度は。
……なんだ。そんなに、簡単なことだったんだ。通話の切れたスマホを両手で握り、胸のあたりで抱きかかえる。そのまま、ゆっくりと息を吐く。
「京子」
なんとはなしに、京子の名前を呟いてみた。それだけで、胸の奥底からじんわりと温かいものがこみ上げてくる感覚がある。電話で聞いた京子の声が、頭の中で蘇ってくる。
私はまだ、京子と一緒にいられるんだ。
たったそれだけのことが何だかやけに嬉しくて、表情が緩んでしまって仕方ない。
誰かの側にいたいだなんて思ったのは、一体いつぶりだろう、と考える。
ああいや、いつぶりも何もない。
だってきっと、そんなことを思うのは、生まれて初めてのことだから。
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