第38話 白色の雪の姫

「昔々、とある国のとあるお城に、白雪姫という大層美しいお姫様がいました」


 日比谷のナレーターとともに、スポットライトが灯される。ステージの中央で椅子に座りながら縫い物をしている私が、パッと照らしあげられた。


 一斉に観客たちの視線を浴びて、怯みそうになる。でも、大丈夫だ。私の掌にはまだあのときの熱が、京子のくれた温かさが残っている。それだけを意識しながら、指先を動かし続ける。


「この日は世界中の王族が招かれて、華やかなパーティーが催されていました。しかし、あまりの美しさから女王様に疎まれていた白雪姫は一人、命じられた針仕事に明け暮れていました」


 日比谷が語り終えるとともに、ゆっくりと顔を上げる。


 だがその瞬間、私は前につんのめってぶっ倒れそうになった。


 照明の消えた部屋の中でも、明らかに目立つ金髪のショートヘア。染めているわけではない。明らかに地毛だった。でも京子は長髪だし、そもそも舞台袖で待機している。ということは、考えるまでもない。京子母だ。わざわざ見に来たのかよ。


 突然の知り合いとの邂逅に、意表を突かれる。私、京子母の前でこの内容の劇やるのか……、と怖気づきそうになる。


 だけど、まあ。冷静になって考えてみれば、来るよね。あのとき話した感じだと、どうにかして娘との距離を縮めたくて仕方ない様子だったし。娘が劇で主役を演じるともなれば、足を運ばないわけがないだろう。効果的かどうかはさておき。


 ふぅー、と。客席にも音が聞こえるくらいに大仰さで、ため息を吐いた。


 素ではない。こういう演技なのだ。……いやまあ、三分の一くらいは素だけど。


「今頃、皆はパーティーの真っ最中、か」


 京子母を努めて意識しないよう、宙空に焦点を合わせながらぼんやりと呟いた。


「なんでだろう。なんで私だけ、こんなに埃臭い部屋で縫い物なんかしていなくちゃならないんだろう。王女様はいつもそう。まるで当てつけみたいに、私にこんな地味で退屈な仕事ばかり押し付けて来る。……私、嫌われてるのかな」


 嘆息混じりに、常日頃から抱いている鬱憤や感傷を滲ませながら吐き出す。今思えば、こういう陰気臭い台詞は全部、白木が私の人物像をイメージした上で書いたものなのかも知れない。


「でも、口答えでもしようものなら、なんて言われるかわからないし……」


 はぁ、と再びため息を吐いてから顔を伏せ、大人しく手先を動かす作業に戻った。


「……いいなぁ、皆は。楽しそうで」


 愚痴でもこぼすような陰鬱さで、ひとりごちる私。


 それからしばらくすると、下手からいきなりドタドタという激しい物音が鳴り響いてきた。


「うわ、足が……っ!」


 すごい勢いで京子がこちらに向かって突っ込んでくる。階段で足を滑らせた、という体だ。


 瞬間、客席の空気が相転移したのがわかった。皆、一様に息を呑み、突如として舞台に闖入してきた金髪美女(今は王子)に視線を釘付けにされている。そういう力が京子にはあった。


「え……っ⁉ ちょ、ちょっと……⁉」


 これも三分の一くらい本気で驚きながら、突っ込んでくる京子に目を見開く。でも京子の勢いは止まらず、ずどん、と見事に激突。私は椅子から転げ落ち、京子に押し倒される形になった。布と針はステージの隅に放り投げてしまっている。


 同時に、観客たちがゴクリと唾を飲み下したのがわかった。一部のそういう趣味と思しき男子たちから、「おぉ……」とかいう微かな歓声が上がっている。


 手首をガッチリと鷲掴みにしながら、私の上で伸びている京子。それから少しずつ体勢を起こして、四つん這いになる。白いスポットライトに照らされた京子の顔が、真上にあった。


 静謐な砂漠みたいな黄金の前髪が、私の頬をくすぐる。淡いブルーの双眸に射抜かれて、ドクン、ドクン、と脈拍がどんどんと速くなっていくのがわかった。


 ……ヤバ。これ、もしかしたらマズイかも。


 頭の片隅に追いやっていた不安が、息を吹き返してくる。頬がどんどんと紅潮していき、さっきまでの落ち着きが刻一刻と剥がれ落ちていく。


「す、すまない。階段で、足を滑らせてしまって。怪我はないかい、お嬢さん?」


 ひとまず先に起き上がった京子が、私に手を差し出してくる。


「あ、いえ……」


 声が上ずった。思わず目をぎゅっと瞑りそうになっていると、京子が強引に私の手を取って、ぐい、と力強く引き寄せてきた。そうして、私にしか聞こえなきくらいの声量で呟く。


「大丈夫。それでいいよ。いじらしい感じがして」


 そのまま、京子に助けられながら立ち上がる。握られた右手から、再びあのときと同じ熱が伝わってくる。それで、テンパっていた脳内に安堵にも似た穏やかな感覚が蘇ってきた。


「いえ、怪我はないけれど……、あなたは? どうして、こんなところに?」


 今度は、スッと声が出た。深く胸を撫で下ろしたのは、多分、私だけじゃない。


「そうか。ならよかった」


 京子演じる王子が、微かに頬をほころばせる。心なしか練習の時よりも低い、安定感のある声質になっている気がした。


「私は、隣国の王子でね。この城のパーティーに招かれていたんだが……、お恥ずかしい話、会場への道を見失ってしまって。いやぁ、この城は広いねぇ」


 誤魔化すように苦笑する京子に、待って、と困惑気味に声を掛ける。


「迷ったにしても、こんな辺境の部屋に迷い込んでくるなんて……、あなたって方向音痴?」


 私からの問いかけに、京子がはははと苦笑しながら髪を耳にかける。底しれぬ色気を湛えたその仕草に、私だけでなく観客までもが息を呑む。


「まあ、そうかも知れないね。けど、方向音痴も悪いことばかりじゃないさ。……なんせ、こんな綺麗なお嬢様をお目にかかれたんだから。君、名前は?」


「白雪姫、だけど」


「へぇ、可愛い名前だね」


「……あ、ありがとう」


 ここで一旦、照明が消えて教室内が完全な闇に落ちる。私はひとまず、序盤のシーンを乗り切ったことに胸を大きく撫で下ろしつつ、舞台袖へと戻った。


 日比谷のナレーションを挟んでから、息つく間もなく次の場面が始まる。白雪姫と王子が先の出会いをきっかけに逢瀬を重ね、親密になっていく過程がハイライトふうに描かれる。


 これが終わると、白雪姫役である私の出番はしばらくなくなる。舞台裏に戻って大きく息を吐き出して、序盤はなんとかなったことにホッとする。


 この次の場面では、実は王子の性別が女で、跡取りの男子が生まれなかったせいで男性として育てられてきたことが明かされる。王子は白雪姫に惹かれていることを吐露するも、自分が本当は女であること、白雪姫のことを騙していることに強く葛藤していく。段々と百合劇らしい要素が増してきて、客席のそういう趣味の方々の熱気が増してくるのを暗幕越しに感じた。


 その後はしばし、普通の白雪姫と同じ展開が描かれる。なんだかんだあって毒りんごを食べさせられて眠る、というお決まりの流れだ。ここまでは、取り敢えず順調だった。あれ以降、京子と一緒に演じるシーンがなかったからだろう。


 だから結局の所、問題なのは、例のラストシーンなのであって。


 初めて読み合わせをしたとき、私は最後の場面の台詞を読み上げることが出来なかった。あの頃はまだ、京子のことが、その……、好き、なんじゃないかとか、煩悶してなかったのにも関わらず、だ。猫の姿を思い浮かべるという子供騙しでなんとかしてきたとはいえ、今の私にそんなものが通用するのか。正直、ものすごく疑わしかった。


 劇が終わりに近づいてくるにつれ、次第に胸中の不安も存在感を増していく。今は京子、即ち王子が方向音痴に苦しみながらも、城から消えた白雪姫のことを必死で探している場面だ。


 これが終われば、いよいよ例のシーン。必然的に緊張は高まる。


 暗幕の隙間から微かに漏れていた光も失せて、舞台が暗転したことを知る。


 最後だよ、と日比谷に促され、舞台袖へと移動する。暗がりの中、軽い装飾を施した机を急ごしらえで並べて、音を立てないよう注意しながらゆっくりと上に横たわる。


 再び照明が灯されて、最後の場面が始まった。


 両目を固くつぶった状態で、京子が舞台に上がってくる音を聞く。私の側の椅子に腰掛けていた小人と言葉を交わした後、京子がつかつかと私の元へ歩み寄ってくる。小人は既に、壇上から消えている。ステージの上には、私と京子の二人きりだ。


「……ねえ、白雪姫」


 力の抜けた私の右手を両手で包み込みながら、京子が細い、けれどよく通る声で言う。


「私は、ずっと君のことを騙していた。君は私のことを男だと思い込んでくれていたようだけど……、本当は違うんだ。私は、女だ。君と結婚することも、子供を作ることも出来ない」


 深い葛藤と逡巡を感じさせる、揺れた声。京子の口からこぼれ出る麗しい王子の述懐に、私は耳を傾ける。


「君の呪いは、愛する人からの口づけを受けることで解ける。でもその瞬間、私は君に新たな呪いをかけることになる。同性である私に愛され、同性である私に唇を奪われた、という呪いをね。……目覚めた瞬間、君は一体、何を思うんだろう」


 京子の細い指先が、私の髪をそっと梳く。目を閉じているせいか、以前に頭を撫でられたときよりもっと鋭敏に、京子の手の肌触りを感じてしまう。熱い吐息が漏れそうになるのを、どにか堪える。


「……ずっと気づいていないフリをしていたけれど、知っているんだ。君も、私を好きでいてくれたということを。だけど……、だけどもし、私が女であることを明かしたら、君はどんな顔をするのだろう。そう思うと、怖い。私なんかに、君を目覚めさせる資格はないんじゃないかって思えて、怖いんだ。――でも」


 最後の一言だけ、声色がガラリと変化したのがわかった。今までの細い物言いとは打って変わった、強い決意と覚悟を感じさせるような、逆説の接続詞。


「決めたよ。私は、君にキスをする。たとえそれで私が君から拒絶されようと、構わない。この世の誰よりも美しい君が、こうして永遠に眠り続けるくらいなら」


 スッ、と京子が息を吸う音がする。観客席からは、物音の一つも聞こえてこない。壁際の空調の控えめな稼働音だけが、静寂を埋めるかのように微かに響く。


 京子の両手が、再び頬に触れられる。同時に、一際強く両目を瞑った。口元で、京子の吐息を感じる。それほどの至近距離に、京子の唇があるのが感じ取れた。今、私が少しだけ頭を持ち上げれば、本当にキスしてしまうくらいの近距離に。


 しばらくの後、スッと京子の顔が離れるのがわかった。私は一度、大きく息を吐き出してから、ゆっくりと弱々しい動作で上体を起こしていく。


「……あれ。私は今まで、何を――」


 京子の方を向くと共に、軽く目を見開いて破顔する。そっと息を吐き出して、続ける。


「……そっか。あなたが、助けてくれたんだ。わかるよ、何も言われなくても。私ね、感じたの。目覚める直前に、誰かの唇が私の唇に触れるのを。あなた、だったんでしょう?」


 脳内で必死に愛猫の姿を思い浮かべつつ、劇じゃなければ絶対に口になんかできない文言の数々を、どうにかして声帯から押し出していく。


 大丈夫大丈夫。これは劇。京子相手に言ってるんじゃない。相手は猫。うちの猫。可愛い。うん可愛い。超可愛い。猫だから照れる必要なんてない。だって猫だもん。京子じゃないもん。


「違うんだ……っ!」


 私の台詞に被せるようにして、顔を伏せながら京子が言った。その勢いで吹き飛びそうになる猫のイメージを、全力で繋ぎ止める。


「違うんだ、本当は。……私は君に、一つ嘘を吐いていた」


「嘘? どういう、こと?」


「私は、君に懺悔しなければならないことがある。――白状するとね、実は、私は……」


 俯いていた京子がゆっくりを顔を上げながら、髪を結んでいたゴムを取る。束ねられていた黄金の長髪が、花束か何かのようにふんわりと広がり、京子の細い肩に落ちる。


 そこにいたのは、京子だった。何度も何度も目の当たりにした、でもその度に綺麗だなって実感させられて、見飽きることなんか決してない、京子の姿。


 溶けるような金色の睫毛が繊細にスッと伸び、その下で清い湖面みたいな碧眼がライトブルーに輝いている。鼻と鼻筋はシャープなラインを描き出し、ぷっくらと厚みのある薔薇色の唇は艷やかだ。白色のライトに照らし出された京子が、まるで一人だけ世界から切り取られたみたいな明瞭な輪郭を伴って、網膜の上に投影される。


「私は、女なんだ」


「……え?」


「もう一度言う。私は女だ。男じゃない。正真正銘の女だ。……私は、君を騙していた」


 一歩前に踏み出してきた京子が、悄然と項垂れる。


 もうすぐ、例のシーンだ。心臓の鼓動がどんどんとスピードを増していき、京子から目を逸らしそうになる。どうにか首を正面に固定して、力なく俯く京子のことを見つめ続ける。


「だが、一つだけ言わせて欲しい。私は、君のことが好きだ。君と同じ女ではあるけれど……、君が好きだ。……それを踏まえた上で、君の答えを、訊かせて欲しい」


 恐る恐る、けれどどこまでも真っ直ぐに投げかけられた、その言葉。


 私はたじろぎそうになる。京子はなにも、私に好きと言ったわけじゃない。私に告白したわけじゃない。それなのにどうしてか、まるで私自身が京子に好きだと言われ、その返事を求められているように思えて仕方なかった。ほっぺたに急速に朱が差していくのを感じる。体温がじわじわと上昇していくのがわかる。


 私はシナリオ通りに前に出て、京子と正面から向かい合った。


 猫、猫、猫、と脳内で何度も何度も自分に言い聞かせながら、スッと不器用に息を吸う。


「わ、わたす、は……っ」


 ヤバい噛んだ⁉ わたすってなんだカボスかよ、いや待てそんなに似てないじゃん混乱しすぎでしょ馬鹿か⁉ ……と、とにかく落ち着け、私! 大丈夫まだリカバリーできる。前までは出来てたんだから。とにかく猫を思い浮かべろ。余計なことは考えるな。


 違うの。今から言うことは、私の気持ちとは関係ないの。これは劇。劇だから。私が京子を好きとか好きじゃないとか、そんなのは関係ない。ただ、脚本に書いてあった通りの台詞を言えばいいの。……あ、あれ? でもちょっと待って。この後の台詞って、なんだっけ……?


 あ、ど忘れした。

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