最終話 ライトブルーに住まわせて
それがわかった瞬間、急速に血の気が引いていくのがわかった。貧血にでもなったみたいに頭の中が真っ白になって、呆然と立ち尽くしてしまう。両手を力強く握りしめて、その場にぶっ倒れそうになるのだけは、かろうじて回避する。
ヤバい。ヤバいヤバいヤバいヤバい……っ! どうしよう。本当に何も思い出せない。この後、なに言えばいいんだっけ。なにすればいいんだっけ。全然……、全然わかんない……!
死ぬ気で記憶の糸を手繰り寄せようとするけれど、あの、とか、その、とか不明瞭な言葉が訥々とこぼれ出るばかりで、本来の台詞が出てくる気配はない。
次第に観客たちも異変に気がついたのか、何やら訝しげな顔つきで私のことを凝視してくる。
その視線に気づいた瞬間、胸中の焦りは更に増幅されて、頭の中がどうしようの一言だけでどんどんと埋め尽くされていく。
どうしよう、これ本番なのに。何か……、何か言わなきゃ。じゃなきゃ、いつまで経ってもこのままだ。こんないたたまれない雰囲気のまま、立ち尽くす羽目になる。やだ。そんなの絶対やだ。でも、なんて言えばいいのかわかんない。どうしようどうしようどうしよう――
「ねえ、こっちを見て」
「……え?」
両頬に走った温かい感触で、一瞬にして現実に引き戻される。目の前にいる京子を捉え、それから、京子が私の両頬を掌で包み込んできていることに気がついた。
あれ? 京子、何やってるの? こんなの台本になかったよね? 瞳だけでそう問いかけみる。と、京子は水鏡みたいな瞳を鈍く光らせて、そうだね、と肯定の意を示してきた。
え、じゃあこれ、もしかしてアドリブ……⁉
待って。いくらなんでも無茶だ。台詞を忘れたからって、土壇場で気の利いたこと言えるわけない。余計に頭の中がグチャグチャになるだけ。無言のまま、どうにか京子に訴えかける。
「ごめん。突然、こんなこと言っちゃって。混乱させたよね」
「……ほ、本当だよ。どういうことなの? わけ、わからないよ」
そこまで言ったところで、ハッとする。私、何言ってるの? 今の反応は別に、口にするつもりはなかったのに。でも気づいたら声に出てしまっていた。なんで? 何やってるの、私?
混乱がさらに増す。どうにか意味の通じる文言になっていたのが、不幸中の幸いだった。
「ごめん。でも、今はわたしだけを見て。わたしの目を見て、わたしの声だけを聞いて欲しい」
……あ、違う。ここに来て、ようやく気づいた。これは多分、台詞じゃない。京子は今、白雪姫に語りかけてるんじゃなくて、私に話しかけてるんだ。ようやく京子の意図を悟った。
だって、声質がいつものに戻ってる。真っ直ぐこっちに向けられた瞳を見ていればわかる。
これは私に、私だけに向けられた言葉だ。だからさっきも、言うつもりのなかった言葉を思わず口にしちゃったんだ。王子に向けたものじゃない、京子に対する私からの言葉を。
「う、うん。……わかった」
いつの間にか、自分が舞台に立っているという意識は飛んでいた。懸命にイメージし続けていた猫の姿も、とっくに吹き飛んでしまっている。
今、私の目の前にいるのは京子だけ。この世界にいるのは、私と京子の二人だけ。白色のライトで切り取られ、私と京子だけがこの世界にたった二人、取り残されたみたいに存在している。だから私も、白雪姫じゃなくて他ならぬ本庄柳として、京子に言葉を返せばいい。
「わたしはね、ずっと……、ずっとずっと、あなたのことを見てたの。だからわたしは、あなたのことを知ってる。あなたが本当は誰よりも優しくて、誰よりも真面目で、誰よりも甘えたがりで、誰よりも頑張ってるのを、知ってるの」
「ちょ、ちょっと……。そんなの、買いかぶり過ぎだよ。私は、そんなに立派な人間じゃ……」
「ううん、違う」
京子がかぶりを振って、私の弱音を遮った。いつの間にか伏せられていた私の顔をまた両手で掴んで、強制的に視線を合わせてくる。私は、逃げ場を失う。
「わたしは、あなたが目の前に現れてくれて、本当に良かったと思ってる。あなたが、手を握ってくれたのが嬉しかった。あなたが、助けてくれたのが嬉しかった。……わたしにとってあなたは、本当に、特別な人。この世界でたった一人の、大切な人。だから、好きなの。あなたのことが」
じっと見つめる京子の瞳は、いつの間にか本物の湖面みたいな水気を湛え、しっとりと揺れている。透明な水晶体に映り込む私の両目は、もっとだ。まるで泣き出す直前の子供みたいに、潤々と光を滲ませているのがわかった。
「……あなたは、どうなの? 聞かせて欲しいな。わたしのこと、どう思ってるのか」
強張った声で言いながら、僅かに首を俯ける京子。
その頬にも微かな朱が差していて、胸の前に置かれた右手はギュッと握りしめられている。
それを見て、ああ、怖いんだな、と悟る。怖くて不安で逃げ出したいのは私だけじゃなくて、京子の方も同じなんだ。だって京子は、私と一緒で結構不器用な奴だもん。だから、側にいたいと思う。隣にいさせて欲しいって、思う。
「そんなの……、そんなの、決まってるでしょ……!」
気づけば、一歩、前に足を踏み出していた。
ただ力なく震えるだけだった声帯が、今は確かな声を、私の感情を乗せた言葉を、力強く吐き出している。目の前にいる京子に向かって、剥き出しの思いをぶつけようとしている。
京子が顔を上げ、瞳孔の開いた双眸で私のことを見据えてくる。私のことを見ていてくれる。
「さっきからなんなのよ、もう……! 女同士だからどうとか、そんなの、どうだっていいでしょ……⁉ 私は、好きなの! あなたのことが! なら、それ以外のことはどうでもいい! 私は、あなたのことが好き! どうしようもないくらい好きで好きで好きで、大好きなの!」
まるで心臓が声帯に直結しているみたいな生身の思いが、私の口からするするとこぼれ出ていく。名前を呼びそうになるのだけは、ほんの一握りだけ残った冷静さでどうにか我慢した。
「わかるでしょ、そのくらい……⁉ なら、不安になんてならないでよ! 不安になんかさせないでよ! 私のこと、ずっとずっと特別だと思っててよ!」
更に一歩、二歩、前に踏み出す。京子との距離がゼロになる。身長差があるせいで、私が見上げる形になった。京子は逃げずに、目も逸らさずに、私の瞳をじっと見つめ返してくる。
「私は……、私は、あなたに可愛いって言われるのが、好き。頭を撫でられるのが、好き。抱きしめられるのが、好き。一緒にいるのが、好き。あなたのことが好き。だから、だからだからだから……っ! 余計なことなんか考えないで、私のことだけ見てて欲しいの……っ!」
「――ありがとう」
あ、と気の抜けた声が漏れる。京子が私のことを抱きしめてきた。既にほぼ密着していたから、腕を後ろに回すだけでその動作は完了する。私は、京子の胸元にそっと額を押し当てた。
……本当は、ずっと前から気づいてた。私は、京子のことが好きなんだって。でも、その気持ちを認めてしまうのが怖かった。京子のことが好きなんだと気づいたら、もう今のままではいられない気がして。京子の隣にいられなくなってしまうんじゃないかって思えて。
――だけど、それももう、終わりにしよう。
私は京子のことが好きだ。私も女で京子も女だけれど、それでもやっぱり、京子のことが好きなんだ。京子のこと、誰にも渡したくないって思う。独り占めしたいって思う。ライトブルーの澄んだ瞳に、私のことを映して欲しい。私のことを、住まわせていて欲しい。
だからもう、自分の気持ちから目を逸らすのは、やめにする。
あのとき感じた、そして今も感じているこの熱は、恋の温度なんだって、わかったから。
「……京子。私、京子のことが好き」
誰にも聞こえないように、小声で呟く。
同時に、世界から光が消え失せた。照明役の男子が空気を読んで、ここで幕引きにしたのだろう。日比谷がそれらしい締めの口上をマイク越しに述べ、演劇を終わらせる。でも私はなんだか頭の中がぼーっとするばかりで、全然、終わったという感慨が湧かなかった。そもそも、終わったと言うよりかは乗り切ったという表現のほうが適切な気がするし。
「さ、柳。一旦戻るよ」
漫然と客からの拍手を聞き流していた私に、京子が耳元で囁いてくる。でも今の私の身体は全身から気力という気力が抜け落ちてしまってみたいで、少しも動いてくれなかった。
こうして京子に抱きとめられていないと、その場にぶっ倒れてしまいそうなくらいだ。
「……ご、ごめん無理。なんか、力入んない」
「え、嘘」
結局、京子にずるずると引きずられるようにしながら、私は舞台裏へと輸送されるみたいに運び込まれた。親猫に連れて行かれる子猫みたい。暗転後とはいえ、我ながら情けなかった。
腰を抜かしてへたり込んでいると、皆から労りの言葉をかけられた。誰も彼もが一様に、肩の力が抜けきったみたいな顔つきをしている。相当な心配をかけたらしい。
今更だけど、非常に申し訳なくなってきた。……あとでちゃんと謝罪しないとな、これ。
「お疲れ、本庄。それで、この後カーテンコールあるんだけど……、大丈夫?」
日比谷が心配そうな面持ちで顔を覗き込んでくる。え、なにそれ無理なんだけど。多分あと一時間は立てないと思う。ふるふると首を振ると、日比谷は困ったように思案顔を浮かべた。
「マジかー、どうしよう。あんまりもたもたしてると、お客さん待たせちゃうし……」
「取り敢えず、あたしらが先にやっちゃおうよ」
「でも、本庄は?」
「そこはまあ、西宮になんとかしてもらう感じで」
適当なことを言う真鍋に、「え、私?」と面食らう京子。しかし、否定する間もなく真鍋が壇上に行ってしまった。他の面子も、うんうん、とか神妙な面持ちで頷いているので、結局、そういう流れに落ち着いてしまう。なんか、いつの間にか京子が私の世話役みたいな扱いになってない? ……まあ、私としては満更でもないんだけど。
「ほら柳。そろそろだよ。立てる?」
床に手を付き、どうにか立ち上がろうと試みる。が、すぐにふらふらっとよろめいてしまって、このままでは暗幕をぶっ壊しそうだった。何かやらかす前に、大人しく床に腰を下ろす。
「これ、本格的に駄目そうだね」
「う、うん、そうみたい。……ごめん」
「こうなったら、背に腹は代えられないか。ごめん柳、ちょっと失礼するね」
「え、ちょっと……⁉」
京子が唐突に、座り込んでいる私の腰と膝裏に腕を突っ込んできた。そのまま、よっと、とか言いながら私のことを持ち上げてくる。所謂、お姫様抱っこだった。
「も、もしかして、このままステージに出る気?」
あわあわしながら私が訊くと、京子がうん、と事も無げに首肯してくる。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ。柳、軽いから」
とか何とか言っているけど、こうして抱きかかえられているとわかる。京子の腕はさっきからプルプルと震えている。私の体重は……、いや具体的な数字はともかくとして、とにかく人間一人を抱えているのだ。いくら軽めだとしても、京子の細腕じゃ支えきるのは大変なはず。
でも京子は、そんな様子などおくびにも出さずに、よたよたとステージの方へ歩いていく。
「それに多分、こっちの方が観客受けするって」
「そ、そういう問題じゃ……⁉ 私、こんなの恥ずかしいって……!」
「いやいやいや。さっきの柳の台詞の方が百万倍は恥ずかしかったし」
思わず、う、と口ごもる。それを言われると弱い。
というか、今になって考えてみると、馬鹿みたいに好きとか連呼してなかった? うわ、なんだそれ……! いくら感情が昂ぶっていたとはいえ、冷静になると恥ずかしすぎる……!
「ほらほら、とにかく行くよ。このぶんの借りは、後できっちり返してもらうからね。何か奢ってもらおっかなー?」
「……え⁉ ま、待って、本当にこれで行くの……⁉ ちょ、ちょっとタンマ……!」
私の心からの悲鳴を無慈悲に黙殺し、お姫様抱っこのまま壇上に躍り出る京子。
瞬間、まばゆいスポットライトに照らされて目を細める。わっ、と観客が一気に沸き立つのがわかった。一部にスタンディングオベーションまでしている輩もいる。
私は一度、はぁ、と小さくため息を吐く。
京子は、本当に強引だ。初めて会ったときもそうだった。私の事情なんかお構いなしに、自分の都合だけで突っ走ってきて、そんな京子に振り回されて……、気づいたら好きになってて。
――だから、うん。
今このときくらいは、京子のこの強引さに付き合ってもいいだろう。そう思い直して、客席ではなく京子のことをじっと見つめる。視線があった。なに、と無言で問いかけてくる京子に、私は何も答えない。両腕をスッと京子の首に回して、返事の代わりにしてみるのだった。
それで一層、観客席の温度が上がる。うるさい、見世物じゃないぞ。
私は内心で毒づきながら、照れ隠しの苦笑交じりに、京子のライトブルーの瞳をじっと見つめた。その瞳の奥底に、私の姿が焼き付いてくれるのを、ひっそりと願いつつ。
ライトブルーに住まわせて 赤崎弥生(新アカウント「桜木潮」に移行) @akasaki_yayoi
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