第37話 暗闇で、二人

「お邪魔するね」


 一人ぼっちの暗闇の中に、白々とした光線がスッと差し込む。四つん這いになった京子が、暗幕を捲って内側に入り込んでくるところだった。流れるような金色の髪の毛が、微かな光に照らされて仄かに光る。でも、京子が完全に中に入ってしまうとその僅かな光も失せて、再び周囲が暗黒に戻った。自分の手足も京子の姿も、何もかも見えなくなる。


 左側でギィ、という甲高い音がして、隣にあった机が動かされているのだとわかった。


「それじゃ、失礼するね」


 耳元で京子の声がするや否や、背筋がピンと伸びて全身が強ばるのがわかった。


 そこに……、いるんだよね。京子が。すぐ隣に。すぐ側に。暗くて、何も見えないけど。


 肩が触れるほどの近距離というわけでもないのに、京子の放つ体温を、穏やかな息遣いを鮮明に感じ取れる。身体はみるみるうちに芯から熱を持ってきて、頬がカアッと赤くなっていく。


 心臓の鼓動が瞬く間に速くなり、呼吸も不自然になってくる。


 京子が、いる。それだけが、黒色で覆われたこの世界の全てだった。


 京子は特段、何を話しかけてくるでもなかった。ひたすらに無言で、でもどこかへ行ってしまうこともなく、ずっとずっと、私の隣に腰掛けている。


 いつもなら心地いいはずのそれが、今は何故か、苦しい。息が、苦しい。胸が、苦しい。


 ドクン、ドクン、と心臓が力強く収縮を繰り返して、痛い。


 すると突然、床の上に放り出していた左手の上に、何かが、とても温かくて柔らかで滑らかな何かが、そっと乗せられたのがわかった。


 久しぶりに感じる、京子の掌の感触。頬が、更に赤みを増していくのを感じた。


 京子が私の手を取って、指を絡めてくる。恋人繋ぎだ。その感触に、胸が高鳴る。息が詰まる。頭の中が熱く蕩けていくような錯覚をする。


「ねえ、柳」


 一面の真っ暗闇の中に、京子の澄んだ声だけがスッと染み入り、私の鼓膜を震わせる。


「……なに?」


 か細くてガタガタ震えた、不格好な返事。ちゃんと京子に届いたかなって、不安になる。


「わたしが怖気づいてたとき、柳はこうやって勇気づけてくれたよね」


 そんな私に、ちゃんと届いてるよって言わんばかりに、京子が繋いだ掌に力を込めてくる。


「……偽の恋人、だったときのこと?」


 京子の掌は、温かい。私の身体のほうがよっぽど熱を持っているはずなのに、何故か、京子の手の中は温かかった。淡い水色の瞳は、あんなにも涼やかなのに。


「うん、そう。わたしね、柳がああして手を握ってくれたとき、本当に嬉しかったし、心強かったんだ」


 その熱と一緒に京子の様々な思いが、感情が、情念が、胸中へゆっくりと伝わってくる。


 一つも取りこぼさないように、私からも京子の掌を握り返す。


「……そっか。なら、よかった」


 私が力を入れると、そのぶんだけ京子も握り返してくる。一方通行じゃなくて、ちゃんと返ってくるものがある。そのことに、奇妙な安心感を覚えた。


「だからさ、わたしにできることがあるとすれば、こうして手を握ってあげることだけなんだけど……、それでもいい、かな?」


 ちょっとだけ不安そうに、声を震わせる京子。


「……ん」


 返事ともつかない、短い声。けど、それだけで充分だ。


 今の京子との間に、言葉はいらない。繋いだ掌の感触だけで、事足りる。


 そうして、二人だけの小さな世界が、静寂に沈む。でもその間にも、京子の右手から勇気とか安心感とか心強さとか、そういうものがじわじわと伝播してきて、私の胸をだんだんと満たしていくのがわかった。あんなにパニックになっていた脳内が少しずつ落ち着いて、平静を取り戻していく。京子と手を繋いだだけで、私の心はこんなにも簡単に、有り様を変えてしまう。


「それじゃあ、そろそろ明かり消すぞー」


 しばらくして、照明役の男子の声が響いてきた。暗幕の内側だから変化は感じないけれど、きっと既に、ここの外からも光は失せてしまったのだろう。


「そろそろ行こっか」


「……うん」


 二人一緒に立ち上がり、暗幕の外に出る。それと同時に、繋いだ手をそっと離した。


 私達だけの、秘密にしておきたかったから。他の誰にも、分け与えてなんかやるもんか。


 予想通り教室の中は真っ暗で、控えめに灯されたテーブルライトだけがステージ裏に最小限の明るさを残していた。


 皆が緊迫した面持ちで私と京子のことを一斉に見つめてくる。でも何を思ったのか、すぐに表情を緩ませてホッと息を吐き出した。多分、そういう顔つきをしていたのだろう。私が。


「わかってると思うけど、そろそろ始まるよ。本庄は待機してて」


 日比谷に背中を押されて、舞台袖まで移動する。そんな私のことを、京子はどこか穏やかな面持ちでじっと見つめていた。


 頑張ってね、と。そう言われた気がした。私も視線だけで、うん、と返す。


 私は、京子のことを好きなのか。


 その問いかけの答えが出たわけでは、勿論ない。でも既に、先程まで脳内を埋め尽くしていた焦燥とか混乱とか不安とか、そういうものは意識の上から抜け落ちてしまっていた。京子の掌から伝わってきた熱が、そういう面倒な物事を頭の隅っこに追いやってくれたから。


 今ならもう、大丈夫。だって私は、一人じゃないから。


 私にしては珍しく、そんな根拠のない自信が胸中に茫漠と広がっていた。


 左手を、スッと心臓の辺りで抱きかかえる。先程の心地よい温かさが心臓にじんわりと染み入り、広がっていく感覚がした。


 そうして、本番が始まった。

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