第36話 直前準備 2
そこから先は、もうあっという間だった。
既に一般客の入場は始まっていて、仕事のない生徒たちは教室から追い出され、役者陣は暗幕で隔たれたステージ裏へと追いやられた。元から大したスペースもないくせに、小道具やら物置用の机やらが置いてあるおかげで、舞台裏は相当に手狭だった。
ステージに繋がる暗幕を数センチだけ捲って、客席の様子を窺ってみる。まだ開演時間には余裕があるというのに、ポツポツと席が埋まり始めていた。
一席、また一席と空席が減っていくところを眺めていると、どうしても緊張が高まった。
ついに本番なんだ、という実感がじわじわと押し寄せて、それと同時に失敗したらどうしよう、という弱気な考えがむくむくと体積を増していく。
正直なところ、上手くやる自信はまったくなかった。未だに、京子に対する感情に答えを見つけられたわけでもなければ、それを上手いこと脇に置けているわけでもない。今のままじゃ、私は絶対に失敗する。そんな不吉なことこの上ない確信が、胸中でじっとりと渦巻いていた。
「柳」
いきなり、京子に声を掛けられた。驚いた拍子に暗幕を破りそうになってしまって、ヒヤッとする。遅々とした速度で首を後ろに回し、京子のことを視界に捉える。
京子の顔が、すぐそこにあった。京子はいつでも馬鹿みたいに美人だけれど、こうして化粧を施した姿にはいつもとはまた趣を異にした美しさがある。ポニーテールにした髪の毛からチラリと除く白色のうなじが眩しくて、顔を再び正面へと戻す。この状態の京子とまともに言葉を交わすことなんて、今の私には到底できそうもなかった。
「いやー、まだ朝早いのに意外と入るものなんだね」
「そ、そう……っ、だね……」
予想通り、思い切り声が掠れて上ずった。もう駄目だ。頭を抱えてぶっ倒れそうになる。
今のやり取りで他の役者からの、いやこいつ本当に大丈夫か的な視線が一層強まった気がした。あーそうだよ、大丈夫じゃないよ悪かったな……!
これでも一応、普通に話そうとはしているのだ。頭の中では愛猫のことを考えて、努めて京子のことを意識しないようにしている。京子のことが好きとかどうとか、そういうのだって思考の外に追いやってる。けどそれなのに声は裏返るわ途切れるわで、どうしようもなかった。
こうして客席を見ていると余計に気が重くなりそうだったので、大人しく舞台裏に引っ込んでおくことにした。隅の方に放置されている机と壁の間に丁度、人一人ぶんくらいのスペースがあるのを見つけた。その間隙に、体育座りして入りこむ。私は猫か。いやもう、猫でいいよ。というかなりたいよ、猫。猫になって、この場から逃げ出してしまいたい。
「……重症みたいだね、これは」
膝の間に顔を突っ込んで項垂れていると、白木の声が聞こえてきた。どうやら、舞台裏の様子を見に来てくれたらしい。やっぱり、責任を感じているのだろうか。
「まー、見ての通りね。けどそもそも、本庄はどうして急にこんな状態になっちゃったわけ? ただ緊張してるだけってふうにも見えないんだけど。何か知ってる?」
日比谷が何か勘づいたのか、白木から事情を問いただそうとする。
でも、訊かれたところであんなの、答えられるわけがない。というか、答えられてしまったら私は余計に頭がおかしくなる。割と真面目に、この場から走って逃げ出すだろう。
「その……、知らない、わけではないんだけど……」
白木が言いにくそうに口ごもる。詰問とまではいかずともこんなふうに質問されては、白木としても相当に居心地が悪いだろう。
けどそれも、もとを正せば私のせいだ。私が謎の独占欲じみた心理を発揮して、白木から京子を引き離すようなことをしてしまったのが諸々の原因というか、諸悪の根源なのであって。
要するに、何もかも私が悪いのだ。私の自業自得なのだ。白木は、何も悪くない。こうして自分の思いを見失って皆にまで迷惑かけてるのも、全て私の短絡的な行動が招いた結果だった。
「だけど多分……、私じゃ力にはなれない、と思う。もし本庄さんを復活させられるとしたら、それは絶対、西宮さんだけだから」
「わたし?」
京子がきょとんとした声を出す。微かに顔を上げて様子を見てみると、皆の視線が一斉に京子に集中している。「うんうんそうだよ」「西宮じゃなきゃ駄目だって」とか、未だに名前を覚えていない役者の子たちからも言われている。
「ま、そうだよなぁ。よくわかんないけど、あたしも西宮じゃなきゃ無理だと思う。ほら、なんか気の利いた言葉の一つや二つ、掛けてやってよ」
真鍋からもお願いされて、京子がそうだなぁ……、と思案し始める。
「わたしは、柳のことだし変に声かけたりしないほうがいいと思ってたんだけど」
「いやいやいや、本番直前でこんなになってる本庄見て、それ言う? これ絶対、放置してなんとかなる問題じゃないだろ」
「それは、そうかもしれないけど……」
んー、と京子が唸りながら頭を悩ませる。
それで改めて思った。ああもう、私ってば一体、何やってるの? 本番直前だって言うのにこんなふうに皆に迷惑かけて。主役失格どころの話じゃない。人として最低だ。
「あ、そうだ」
私が一人、自己嫌悪の谷を猛スピードで転がり落ちていたところ、京子がいきなり、何か閃いたみたいに呟いた。
「ねえ真鍋、暗幕って余ってないかな?」
「暗幕? 確か、その辺に転がってたけど……、何するの?」
「まあ、ちょっとね。皆、手伝ってくれる?」
京子の呼びかけに、役者陣プラス白木が威勢よく、でも客席に聞こえないくらいの小声で返事をする。それで、私は更にいたたまれない気分になる。流石に何か手伝わないとと思って腰を上げようとしたところ、いーからいーから、と皆に気を使われた。マジで申し訳ない。
「だからさー、さっきも言ったでしょー? 本庄だけに背負わせたりはしないって。ここは大人しく、私達の好意に甘えてよ」
日比谷の声に、他の面々もうんうんと頷く。
「よくわからないけど元気だしてよ、本庄さん」
「私、本庄さんが元気に白雪姫やってるところ、見たいから」
「私も私も。今の本庄さん、すっごく可愛いし」
例の名前を覚えてない女子群から、口々にそんなことを言われた。その物言いに棘のようなものはなく、素直に私のことを案じてくれているのがわかった。むず痒いような、ありがたいような思いがすると同時に、ひっそりと決意する。これが終わったら、ちゃんと名前覚えよう。
働いてる皆の姿をボサッと観察するのも気まずく思えたので、膝の隙間に顔面を突っ込んだまま、作業の音だけを聞いていた。ハサミを使っているのか、ジャキジャキという小気味よい音が聞こえてくる。
程なくしてそれが止むと、突然、視界から光が消え失せた。うわっと思って顔を上げると、辺りは完全な黒一色。どうやら、暗幕の残りを上から被せてきたらしい。横にあった机ごと覆われている。蛍光灯の明かりを断たれ、外の様子が何も見えなくなる。
まさか、京子の考えた策というのはこれなのだろうか。私みたいなドのつく陰キャは、こうして暗い闇の中で一人にしておくのが一番良いとでも? まあ、ある意味で正解だ。
けど、今こんなことされた、らいつまで経っても闇の中から抜け出せない気が――
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