第35話 直前準備 1
「あ、おはよう柳」
「……お、おはよう」
校門のあたりで京子と鉢合わせた。案の定、声はガチガチに強張って掠れた。インコみたいだった。でも京子の方はあくまで普段どおりに接してくれていて、それが救いといえば救いだ。
それ以降は特段、言葉を交わしたりはしなかった。お互いに黙然と、教室に向かってスタスタ歩いていく。けどその間、私は何度も何度も京子のことを見てしまって、その度に頭がボッと茹で上がりそうな感覚に襲われた。状況は昨日と変わらないらしい。要するにヤバかった。
ホームルームが終わると、すぐに直前準備に移った。
役者である私は衣装に着替えた後、普段はご法度のメイクを施されることになる。私は化粧なんてろくにした経験がないので、日比谷にやってもらうことになっていた。
洗面台の前のパイプ椅子に座らされて、ポーチを持った日比谷と向かい合う。
「さー、他にも希望者いるし、ちゃちゃっと済ませちゃおっか。本庄さんは軽くにしておく予定だし。元がいいからね」
「そう? ……まあ、ありがと」
変に謙遜するのも面倒なので、素直に礼を言う。たとえお世辞だとしても、見た目を褒められて悪い気はしなかった。けどやはり、京子に可愛いと言われたときのような高揚は感じない。あくまで、頭でさらっと受け止めるだけ。心の奥底まで浸透してくるようなことはなかった。
……やっぱり、私にとって京子は特別なんだ。改めて、思い知らされる。
日比谷にメイクしてもらっている最中も、その仕上がりがどうとか、そういうのは全くもって気にならなかった。脳内を支配するのは京子のことと、劇のこと。
なんだかんだ言って、時間を空けたことで昨日よりかは幾分、心が落ち着いてくれたとは思う。けどそれは所詮、幾分に過ぎなくて、今の状態で本番に望んでしまったら絶対マズい。大事なところで恥ずかしくなって台詞を噛んで、台無しにしてしまうのが目に見えている。
いや、噛むだけならまだいい。最悪、頭が真っ白になって台詞さえ脳内から吹っ飛んでしまうかもしれない。そうなったらもはや出来が良い悪いどころの話じゃなくなってしまう。
一応、昨日のリハーサルでもそこまでの事態にはならなかったから、考えすぎだとは思うけど……、一抹の不安は拭えなかった。
でもそれは私だけじゃなくて、他のクラスメイトたちや、今まさにアイラインを引いている日比谷だって同じなのだろう。皆、気を使ってか直接的に言ってきたりはしないけど、内心では深く憂いているはずだ。ホームルームの最中も、クラスメイトからのあいつ大丈夫なのかよ的な視線を感じてしまって、胃が痛いことこの上なかったし。
……ああもう、どうしよう。劇は私一人でやるものじゃない。だから失敗できない。醜態を晒せば、他の皆にも迷惑がかかるのに。本番前であるのにも関わらず、気分は暗くて冷たい海の底に沈んでしまったかのように、塞ぎ込んでいた。
「――よし、こんなものかな」
そうこうしているうちにメイクが終わり、日比谷が満足げな表情で私の顔を覗き込んでくる。
鏡で確認してみると、思っていたより顔が変わっていてびっくりした。
普段より目元が凛としている気がするけれど、それでいて鋭くはなっていない。私はどちらかと言うと切れ長でつり目な方なのだけど、目尻のラインが緩やかせいか優しげな印象があった。薄めの唇もぷっくらとボリュームが増しているように思えるし、全体的に白雪姫役らしい可愛げがあった。それでいて、そこまで不自然な感じはないのだから不思議だ。
自分の顔なのに自分のじゃないような心持ちがして、しばし、じっと見入ってしまう。
とても新鮮な気分だった。さっきまでの憂鬱が少しだけ吹き飛んでしまうくらいには。
「それで、感想は? 何か要望があれば修正するけどー?」
「ううん、大丈夫。……可愛いと、思う。ありがとう」
「そっか。よかった」
日比谷がニッコリと、柔和な笑みを浮かべる。日比谷はナレーターと鏡役の兼任だけど、声だけなので特にメイクはしていない。けど元々の顔立ちと雰囲気のおかげで、化粧したての私よりも愛想良さげな印象は強いと思う。
「気に入ってくれたんなら、昨日、自分を実験台にして試行錯誤した甲斐があったかな」
「実験? わざわざ、そんなことしてくれたの?」
「うん。結構、ギリギリまで迷ったんだよねー。本庄さんって元がクール系だからさ。それを活かすか、もっとマイルドな感じにしてみるかで。結局、後者にしてみたんだけど、正解だったかな。――それより、これで少しは気分も晴れた?」
鏡越しに私と顔を合わせていた日比谷が、今度は直接目を合わせてくる。
唐突に核心を吐いたような問いかけをされ、つい息を呑んだ。
「ま、まあ……、そう、かも」
歯切れ悪く答える私に対し、日比谷はそっかそっか、とゆったりとした物言いで相槌を打つ。
「ならよかった。本庄さんは折角の主役だからね。ちゃんと笑っててもらわないと」
「……うん。ごめん」
ばつの悪い思いになって、無意識に顔を伏せる。そうだ、何を陰気に塞ぎ込んでいるんだ、私は。主役なんだから、もっと明朗に振る舞ってないといけないのに。
「まー、なんていうかさ」
日比谷が私から離れて、背後の壁に背中を預ける。
「この際だしはっきり言っちゃうけどさ。昨日のこと、気にしてるでしょ?」
「……それは、まあ」
気にしてない、なんて口が裂けても言えない。というか、今の私の姿を見たら誰もがそう確信すると思う。表情とか仕草とか、そういうのがいつも以上に暗く沈んでしまっているだろうから。これに加えて、京子関連の葛藤もあるのだから手に負えない。なんというかもう、手詰まり感が凄い。よくたった一日でここまで絶望的な状況になったな、私。逆に感心する。
だよねぇ、と日比谷が苦笑する。
「正直、こういうときって私、なんて言ったらいいのかわからないんだけど……、これだけは言わせて。私も、一緒に背負うから」
「……背負う?」
鸚鵡返しした私に対し、うん、と鷹揚に頷き返す日比谷。
「私だけじゃなくて、他の皆もね。もし本番、上手くいかなかったとしても、それを本庄さんのせいにすることは絶対ないから。そもそもさ、私達、役決めのとき相当困ってたでしょ? だから感謝してるんだよ? 本庄さんが、西宮と一緒にやるって言ってくれて」
面と向かって真面目な話をされるのには、慣れてない。返答に困り、思わず視線を逸らした。
けど日比谷はそれで気分を害するわけでもなく、なおも穏やかな語り口で言葉を続ける。
「とにかくさ、私は本庄さんが主役やってくれて良かったって思ってるから。気負わずにって言われても困るかもしれないけど、あんまり一人で抱え込みすぎないでよ。私達、友達でしょ?」
「え?」
いきなり投げかけられた聞き慣れないその言葉に、目をしばたたく。
友達……、か。そんなことを面と向かって言われるのは、何年ぶりだろう。
私が一人、呆けた表情を浮かべていると、日比谷はむむ、とわざとらしく眉根を寄せながら私の元へにじり寄ってきた。
「なにー? もしかして本庄は、私のことを友達認定してくれないのー?」
「い、いや、そういうわけじゃ、ないけど……」
私みたいな人間じゃなくとも、誰かから直接、友達なんて言われたりすることは少ないと思う。だって多分、友達というのはわざわざ宣言してなったりするものじゃなくて、気づいたときにはなっているものだから。一々、私達って友達だよね、なんて言う必要もないのだ。
だから要するに、ここで日比谷が私のことを友達だなんて言ってきたのは、気を使ってのことなんだろう。私の不安が少しでも払拭されるようにという、心配り。このタイミングでいきなり、さん付けをやめてきたことからも明らかだ。
そんなふうに気を使われたって、普段なら余計に気が重くなるだけなのだけど。
「……なんかありがと、日比谷。友達、ね。わかってるよ」
日比谷につられて、思わず苦笑してしまう私。
不思議と今回ばかりは、ちょっとだけ気分が楽になったような気がした。
勿論、ちょっとというのは本当にちょっとで、根本的な解決には全くもってなっていない。今すぐ本番をやれと言われたら私は絶対、三単語につき一回くらいの割合で噛みまくって、その度に慌てて、無様な姿を晒すだけで終わってしまうだろう。
けどそれでも何故か、日比谷の掛けてくれた言葉が全くの無意味だとは思えなかった。
朝、お母さんにかけられた言葉を唐突に思い出す。
もう少し周りのことを信じたら、か。それってつまり、こういうことなのだろうか。
私の次にメイクをしてもらうことになっていた子がやってきたので、私は慌てて席を立った。その子から入れ替わりざまに「可愛いじゃん」と言われたので、「ありがと」とだけ返しておいた。まあ、上手く言えたかはわからないのだけれど。
教室に戻る最中に、ばったり京子と出くわした。お互いに「あ」と言ったきり、どちらからともなく横に並んで教室に向かう。
京子の方も既に着替えは終わっている。男装をしている上に髪の毛を首元で結わえてポニーテールにしているせいで、いつも以上に凛々しく見えた。メイクのせいもあるのだろう。スラリと背が高いおかげか、京子の男装はだいぶ様になっていた。一つ難点があるとすれば、潰したくらいじゃとても隠しきれない胸の大きさ、だろうか。
「……ね、ねえっ。京子」
おしりかじり虫みたいなハスキーボイス。うわ流石にこれは酷すぎるだろ。
「ん? なに?」
「その、あのさ……。私と、京子って……、友達、なんだよね」
「そうじゃないの? 前までのあれは期間限定だったわけだし」
京子が小首を傾げるのがわかった。直接見たわけではないけれど、言い方的に。
「……っ、ああいや、うんっ。……やっぱり、そう、だよね」
友達、と改めて心の中だけで声に出して反芻してみる。
友達。私と京子は友達。私と日比谷も友達。日比谷も京子も、私にとっては同じ友達。
そう考えたところで、名状しがたい違和感のようなものに突き当たった。ささくれに触れたときみたいな、鋭い痛みが心中にズキリと走る。
でも、それってどういうこと? 私は京子と友達じゃ嫌だってこと? 友達よりももっと深い関係、つまり恋人……、いや待って。それは発想が飛躍してる。一番の友達とか親友とか、別に恋人じゃなくても、普通の友達よりも特別な関係になることは充分可能だ。けど、もしそれだけじゃ足りないって思っているのなら……、それは要するに好きってこと、なの?
「ねえ柳」
「……うぇぁ⁉ う、うぁ……っ、うん、なに?」
一人で考え込んでいたところを話しかけられたものだから、人間らしき音声を出すまでに時間がかかった。流石に忸怩たる思いになって、顔を背ける。いや、もとから京子のことなんか見られてなかったんだけど。
「約束、覚えてるよね? 午前中の講演が終わったら、一緒にどこか行こうね」
平然とした声音で京子が言う。勿論、覚えている。忘れるはずがない。
私はコクコクと、赤べこみたいに大げさな動作で首を縦に振った。
……そうだ。舞台の後には、京子との文化祭巡りもある。それを晴れやかな気持ちで楽しむためにも、どうにかして劇を成功させなきゃいけない。だからそれまでに、自分の気持ちに整理をつけないと。でも、どうやって?
具体的な解決策なんて何一つ見えないままで、私は途方に暮れる思いになる。でも、私がどれだけ頭を悩ませていようとも、時計の針は止まってはくれないし、廊下を歩いていればいずれ教室に辿り着いてしまう。私は胸中の不安を見透かされないように注意しながら、京子とともに準備の整った教室へと足を踏み入れた。
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