第34話 どうにもならない
人類の具有する機能に偉大なものがあるとすれば、それは睡眠だと思う。
寝る前はどれだけ憂鬱な気分に支配されていようが、ふかふかのベッドの上でたっぷりと睡眠をとってしまえば、目覚めたときには不思議と晴れやかな気分になっているものだ。
差し込んでくる爽やかな陽の光で目を覚まし、窓を開けると小鳥のさえずりが聞こえてくる。
さあ、今日も新しい一日が始まる。昨日は色々頭を悩ませていたけれど、今は爽快、気分もすっきり。難しい問題なんて置いといて、今日も元気に一日をスタートしよう――
「……なんて、なるわけないじゃん」
都合のいい妄想を振り払うかのように、ふるふる、とかぶりを振ってみる。
けど寝起きではその程度の動作でさえ、見るに耐えないほど緩慢だった。傍から見れば、寝違えた人が痛めた首の筋を伸ばしているようにしか見えなかっただろう。
起き抜け一発、はぁーあ、と辛気臭いため息を漏らす。
来てしまった。文化祭当日が。知らぬ間にタイムリープ能力でも発現していないかな、と一縷の望みを懸けてスマホの日時表示を確認してみる。日付はきっかり昨日プラス一だった。肘の辺りを見てみても、生憎とそれらしい数字が刻まれていたりはしない。知ってたけど。
タイムリープはいい加減に諦めて、眠い目をこすってリビングに移動した。
と、お母さんが既に目を覚ましていた。この時間、休日はまだ寝ていることが多いのだけど、私が文化祭だからわざわざ起きてくれたらしい。
「おはよう、柳」
「……おはよ」
あくび混じりの挨拶をしてから、洗面台で顔を洗ってくる。
定位置の椅子を引いて腰掛けると、程なくしてレンジのチン音が聞こえてきた。出てきた昨日の残り物をもっさもっさと口に入れていく。でも味なんか感じている余裕はなかった。
脳内にあるのは、どうしよう、の一言だけだ。
……いや、本当にどうしよう。京子のことが好きとかどうとか、そういうのはこの際、どうでもいい。いや私的には全然どうでもよくないけど、取り敢えず保留しておくことはできる。
だけど、劇の方だけはまずい。私の感情がどうであれ、演技だけはまともにできるようにならないと他の人間にも迷惑がかかる。いくらなんでも、文化祭という年に一度のお祭を、私一人の個人的な問題で台無しにしてしまうのは気が引ける。
……あー、こんなことばかり考えてたら、余計に気が重くなってきた。行きたくない。マジで行きたくない。
私がため息を押し殺していると、正面の椅子にどすん、とお母さんが腰を下ろしてきた。何か食べるわけでもないのに、頬杖つきながらじーっと私の顔面を見つめてくる。なんだこの人。
「あんた今日、文化祭だよね?」
「そうだけど? じゃなきゃ、まだ寝てるって」
ずー、とインスタントの味噌汁をすする。そんな私のことを、なおもお母さんはじろじろと観察してくる。何がしたいんだろう。
「あのさぁ。それなのに、なんでそんな陰気臭い顔してんの? いや、それはいつものことか」
「……馬鹿にしてる?」
なんだこの母親。こっちが、真剣に頭を悩ませてるっていうのに……。
「ああでも、最近はそんなこともないかな。なんか、前よりも家出るときの足取りが軽い」
その発言で、思わず箸を落っことしそうになる。腐っても母親。意外と子供のことは見えてる、ということなのだろうか。……ムカつくけど。
「急に髪型変えたり、コンタクトにしたりするしさぁ。それにあんた、劇で主役やるんだって? 本当、どういう風の吹き回しよ。中学の頃は考えられなかった」
「……うるさいなぁ。別になんでもいいでしょ」
母親というのは、なんでこう子供の事情を根掘り葉掘り訊き出そうとしてくるのか。こっちにだってプライバシーってものがあるんだ。何から何まで伝える気にはなれないって。
「男か?」
「……っ⁉ だ、だから違うって、前にも言ったじゃん……!」
思わず咳き込みそうになる。味噌汁を飲んでいるときじゃなくてよかった。
お母さんはなおもしつこく食い下がってきたけれど、そのうち飽きたのか「まー、なんだっていいけど」とか元も子もないことを言って引き下がった。なら最初から訊かないで欲しい。
「あのさぁ。あんた、緊張してるの?」
どこか真剣味のある声で、改めて切り出してくる。残り物のおかずに伸びかけていた手が、つい止まった。やけに真っ直ぐな双眸で見つめてくるものだから、つい「……まあ」と正直に答えてしまう。まあ、が答えになっているかはさておき、伝わるものは伝わるはずだ。
「ふーん。どういうつもりかは知らないけどさ、慣れないことやろうってんだから緊張するのはしょうがないじゃん。諦めな」
「諦めなって、あのさぁ……」
がくっ、と漫画みたいに項垂れそうになる。まともなアドバイスの一つや二つ、期待していた私が馬鹿だった。そうだそうだ、私の母親はこういう人だった。
「別にいいじゃん、ヘマしちゃっても。言っちゃ何だけど、たかだか高校の文化祭でしょ? 来年だってあるわけだし。そう気張るもんでもないでしょ」
「そうも言ってられないって。私だけならともかく、周りにも迷惑かかるんだから……」
というか、そこが大問題なのだ。もし私が昨日のリハーサルみたいな見るに堪えない演技をしたら、同級生たちから責められる。観客からも変に思われるかもしれない。
それは嫌だ。思春期真っ盛りの人間に、周囲の目を気にするななんて言うのは酷だろう。
「そういうものかね」
「そういうものだよ。……ごちそうさま」
席を立つ。はいよ、と言う母親に見送られながら洗面所に赴いて、歯を磨く。学校に行くまでに必要な作業は、もう着替えと荷物の準備くらいしか残っていない。それが済めば、どれだけ気分が進まなくとも、この日の為に装いを変えた教室へと足を運ばなければならなかった。
……改めて、気が重い。今日このときほど、現実の残酷さを思い知ったことはなかった。
「それじゃ、いってきます」
沈鬱な気分のまま、玄関で靴を履く。
「ん。まあ、頑張りな」
お母さんに、毒にも薬にもならない言葉を投げかけられる。
毒にならないだけマシだけど、もう少し気の利いたこと言ってくれないものだろうか。いや、無理か。大人に過度な期待をしてはいけない。この十六年間で、それくらいのことは学んでる。
ドアを開けた瞬間、もわっとした湿り気を帯びた風が吹き付けてきた。もう九月の半ばとはいえ、夏の蒸し暑さは未だに健在だった。空の色は濃い青で、日差しだってギラギラと強い。
歩き出すのが更に億劫になった。心の中でため息を吐きながら、重い足取りで家を出る。
「あんたさー」
数歩歩いたところで、後ろから呼びかけられた。なんだ急に、と足を止めて振り返る。
「もうちと、周りの人間のこと信じてあげてもいーんじゃないの?」
「え?」
思わず漏らしたその声は、バタンというドアの閉まる音に掻き消された。
しばし呆然と玄関を見つめていたけれど、当然、扉が開くことはない。私は首を正面に向け直して、生ぬるい外気の感触を味わいながら、通い慣れた通学路を歩いていった。
周りの人間を信じろ、か。
なんだそれ。お母さんの言うことにはいつも言葉が足りなくて、よく意味がわからない。
まあ、親から投げかけられる言葉なんて、そのくらいでいいのかもしれないけれど。
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