第33話 暗闇で、一人

 リハーサルの結果は、散々だった。


 見学していた担任が苦虫を噛み潰しているのに必死で笑顔を浮かべようとしているみたいな引きつった表情で、「うんまあ……、頑張れ!」とか言って親指を立ててくるくらいには、終わっていた。誰のせいなのかは言うまでもないだろう。


 まあ、当たり前だ。こんな精神状態でまともに演技できるはずもない。というかそもそも、京子の顔を見ることができなかった。京子の声を聞いたり、視界の片隅に捉えたり、京子の存在を感じ取るだけで頭がグチャグチャになってしまって、まともな受け答えをすることさえできないレベルだった。必死で愛猫のことを思い浮かべようとしてみても、駄目だった。


 私は暗闇に沈んだ部屋の中、ベッドの上で仰向けになっているのに気づく。


 一体いつから、こうして寝転がっていたんだっけ。校舎裏での白木とのやり取り以来、ほぼほぼ記憶が飛んでいる。覚えているのは、リハーサルで見るに堪えない演技をしたことと、それが済み次第、逃げるように教室を後にしたことの二つだけだ。


 ……はぁ、と。何度目かわからないため息を漏らす。比重の重い淀んだ呼気が、部屋の底へと静かに沈殿していく映像をイメージする。溜まった二酸化炭素と一緒に、胸中の様々な感情も追い出せてしまえば良いのに。けど人間、そう単純に生きられないのが問題なのであって。


「……私、本当に京子のこと、好きなの?」


 改めて、その問いかけを声に出してみる。


 だけど、答えが返ってくる兆しはない。何をどう考えればいいのかさえ、わからない。


 まずそもそも、好きってなんだ? 異性とか同性とか関係なしに、誰かを好きになるってどういうこと? のそりのそりとベッドから這い出して、鞄から高校入学と同時に買ってもらった電子辞書を引っ張り出す。開くと同時に、画面から淡い白色光がぼんやりとこぼれでる。それに顔を照らされながら、「好き」と国語辞典に入力してみた。


 好き――、心が引きつけられること。


 即座に閉じた。駄目だ、抽象的すぎて意味がわからない。嘆息しながら電子辞書を放り出す。


 白木は言った。私は、京子のことが好きなんだって。


 でもそれは、あくまで第三者からの意見にすぎない。他人である白木には当然、私の胸を切開して心の中を覗くことなんかできない。それができるのは、本人である私だけだ。


 でも、自分の胸の内を覗き込んでみたところで、そこにあるものが果たして恋と呼ぶに値するものなのか、私には判別することができないのだった。


「……京子」


 なんとはなしに、彼女の名前を読んでくる。声に出すと同時に、脳内の京子フォルダーに分類された記憶が呼び覚まされて、意識の内に京子が浮上してくる。


 少し遅れて心臓から熱い血液がドクン、ドクンって送られてきて、全身に奇妙な熱が広がっていく。京子といるときにだけ、京子のことを考えたときにだけ味わえる、心地よい温かさ。


 京子と腕を組んだときのことを思い出す。京子に抱き寄せられたときのことを思い出す。京子に見つめられたときのことを思い出す。京子と手を繋いだときのことを思い出す。京子に可愛いと言われたときのことを思い出す。京子とお風呂に入ったときのことを思い出す。京子に抱きしめられたときのことを思い出す。京子に撫でられたときのことを思い出す。


 気づけば、心臓の辺りを右手でギュッと握りしめていた。


 私は……、京子のことが好きなの?


「……わかんないよ、そんなの」


 ああもう、さっきから私の頭と心はグチャグチャだ。でも、私がどれだけ混乱して困惑して立ち止まっているのだとしても、世界はそんなことを斟酌してはくれない。私のことなんか歯牙にもかけずに、ぐるぐると回転をし続ける。自転も公転も止まりはしない。


 だから、現実からは逃れられない。


 明日が文化祭当日だという、どうしようもない現実からは。


 ……こんな心理状態で、あの内容の劇なんかできるのか?


 いや、無理でしょ。どう考えても無理でしょ。今この状態で、たとえ劇であっても京子に好きなんて言えるわけない。無理無理無理、絶対無理。


 でも、私がどれだけできないと言ったところで、白雪姫役を引き受けてしまったことには変わりない。今更、やっぱ無理誰か代わって、なんて無責任なこと、できるわけないのであって。


「……逃げたいなぁ」


 思わず、そんな弱音がこぼれ出る。もういっそのこと、今から家出でもしてやろうか。十五じゃなくて十六だけど、盗んだバイクで走り出したい。行く先もわからぬまま。


 そこまで考えたところで、枕元のスマホがブル、と震えた。


 あまり気は進まなかったけど、ロックを解除して通知を確認する。


 意外なことに、白木からのメッセージだった。どうやら、私がこんなになってしまったのは自分だと思って気に病んでいるらしい。別に、気にしなくていいのに。


 すると再びスマホが震えて、真鍋からも励ましのメッセージが送られてきた。あいつもあいつで、私のことを心配してくれているらしい。適当に返信をしてから、スマホを投げる。


 私のことを気にしてくれるのは、ありがたい。でも本音を言うと、勘弁してほしかった。


 気を揉んでくれているのはわかるんだけど、今はその善意が重いっていうか。優しい言葉の一つ一つが私の心臓をぎゅうぎゅう締め上げてくるみたいで、余計に苦しくなる。


 こういうとき、京子ならそっとしておいてくれるのに。京子なら何も言わずに、敢えて普段どおりに接してくれる。事実、京子からは特段、メッセージが飛んできたりもしていない。


 ……やっぱり特別なんだよな、京子って。


 それは正直、認める。認めるしかない。漠然とした感情ではあるけれど、私は京子と一緒にいたいって思ってて、京子が私以外の誰かと一緒にいるのは嫌だって感じる。抱きしめられたり頭を撫でられたりするのが、心地いいって思う。そこはもう、素直に認めよう。


 でも、果たしてそれが恋愛感情なのかと訊かれると、途端に答えに窮してしまうのであって。


 ……なんか、もういいや。


 こうやって考え続けるのもいい加減、疲れてきた。私は京子が好きなのか、だって? うるさい。そんなの、わかるわけないじゃん。


 このまま暗中模索を続けたところで、埒が明かないであろうことは察しがついた。ただ単にエネルギーを浪費し、心労の種を増やすだけだ。


 それならもう、さっさと寝てしまったほうがマシだろう。


 そんな投げやりに考えに支配された私は、細く長い息を吐きながら瞼を閉じた。


 明日の私がありとあらゆる問題を、名探偵みたいな華麗さで解決してくれることを信じて。

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