第32話 昼と夜の狭間で

 次に会ったときには、絶対に謝ろう。京子と二人でボウリングに赴いたあの日、私は内心でそう固く決意した。……決意した、はずなのだけど。


「はぁー……」


 肺の底から憂鬱のため息を吐き出しながら、私は一人、人気のない校舎裏に佇んでいた。


 午後の、軽く傾きかけた日差しの作る木立の影を眺めつつ、日に日に音圧の落ちていく蝉の合唱に耳を傾ける。駆け抜けていく生ぬるい晩夏の風が、舞台衣装の生地の薄いドレスの裾を軽く揺らした。


 ……しかしこれ、改めて安っぽいな。多分、ドンキとかアマゾンとかで安く仕入れたのに多少アレンジを加えたのだろうけど、元の質があまり良くないから大して誤魔化せていない。あの日、京子に着せられたパーティドレスと比べると、雲泥の差どころの話じゃなかった。


 一応、京子本人があのときのドレスを貸そうか、と申し出てくれたりもしたのだけれど、それは私が断固として拒否した。それだけは、絶対に嫌だったから。


 だってあのドレスは……、思い出なのだ。私と京子の、二人だけの秘密が詰まった。


 だから、京子以外の眼前で袖を通すのだけは、どうしても嫌だった。


 夏休み最後の一週間は、速かった。年末になると誰もが皆、異口同音に一年が早い早いというけれど、その速度とは比べ物にならないほどの超特急。光速を軽く追い抜くくらいの体感速度だった。


 小中のときみたいに宿題が山のように出たりはしなかったけど、まったくないというわけでもない。なんだかんだと後回しになっていたそれを片付けて、文化祭の練習で毎日学校にも足を運んで。そんなことをやっているうちに、あっという間に始業式だった。


 本当に一ヶ月半もあったのか? そんなふうに疑いたくなってしまうほどの、一瞬。


 でもまあ、それはいい。今年の夏休みは夏休みと言っても、良くも悪くもそこそこやることがあったし、最後の一週間なんかは学校があるときとさして変わらない忙しさだったし。


 だからこそ、一番の問題は。


「……本当、何やってるんだろう、私」


 こうして文化祭前日の準備日になっても、未だ白木に謝罪できていないことだった。


 あの日、私は確かに決意した。白木に面と向かって事情を話して、頭を下げて懺悔するんだって。ストライクをカコーンって決めた瞬間、そう決めていた。


 決めていたはずなのに、できなかった。


 ……ああもう、私ってばダサい。超ダサい。何がダサいって、全てがダサい。超絶ダサい。


 遊びに行った次の日、私は学校で白木に声をかけようとした。というか、声をかけた。


 でも白木が、純粋無垢な面持ちで私の瞳をじっと覗き込んできた瞬間、何も言えなくなってしまった。今、私が自分のしでかしたことを告白したら、白木はどんな顔をするんだろうって。そう思うと、怖かった。この無邪気な顔がグチャグチャに壊れてしまうところを想像すると、唇が動いてくれなかった。


 要するに私は、傷つくことから逃げたのだ。傷つけることからも逃げた。


 どれだけ決意していても、いざそのときになると勇気が出なくて怯んでしまう。そんな甲斐性なしが私なのだ。だけど当然、こうして逃げ続けているのだって相応に辛い。だからこそ京子はあの日、ちゃんと謝ったほうが良いと助言したのであって。


 もう既に、教室の準備は粗方終わっている。あと少ししたらホームルームがあって、その後で最後のリハーサルがある。そして明日は、いよいよ本番だ。私としてはどうにか今日中に謝って、胸中に渦巻く罪悪感を清算しておきたいのだけれど――


「あ、やっと見つけた」


 突然の人の声にビクッとする。そして、小走りでこちらに近づいてくる人影が誰のものかわかった瞬間、再び肩を一度だけ震わせた。


「……あ、白木。何か用?」


 軽く顔を伏せる。生憎、ここで泰然としていられるような度胸は私にはなかった。


「もうすぐホームルームだから呼びに来たの。先生が、皆を集めてこいって」


「そう、なんだ。わかった」


 いつの間にか、太陽は更に地平線へと近づいていて、昼間は光の入ってこない校舎裏にも、橙色の斜陽が差し込んできている。赤く焼けただれたみたいにも見えるその光は、いつまでも中途半端な私のことを火炙りの刑に処しているようだった。


 だからだろうか。


「……っ、あ、あのさ、白木。その……、ちょっと、話があるんだけど。いいかな?」


 今度は逃げずに、目を逸らさずに、ちゃんと話を切り出すことが出来ていた。大丈夫だ。今の私は、逃げない。ここまでくれば、ちゃんと懺悔できる。謝れる。この機を逃したら、私は多分、一生謝れない。でも、そんなのは嫌だ。こうしていつまでも、白木の顔を見る度に後ろめたい思いを味わわなきゃいけないなんて。そんなのは、責められることよりもっと辛い。


 怖気づく自分をどうにか鼓舞する。そんな私を見て、白木が面食らったかのように瞠目した。


「そうなの? 奇遇だね。実は私も、本庄さんに少し話があって」


「話? あ、そうなんだ。……いいよ。なら、白木の方から話して」


 いきなり出鼻をくじかれて、少し鼻白む。私のは大切な話だから、他の要件を済ませた後で伝えたほうがいいだろう。そう思い、白木に先を譲った。


「そう? なら、お先に言わせて貰うけど……、その」


 白木は特に遠慮することなく、素直に口を開き始めた。私は焦らされる気分を味わいながらも、微かに口ごもっている白木が用件を話し始めるのを待った。


「――私、西宮さんと一緒に文化祭回りたいんだ」


 さり気ない笑みを浮かべながら、白木が切り出した。


 その一言で、ハッとする。心臓に電撃が走ったみたいな痛みを錯覚した。


 文化祭? 白木が、京子と一緒に? いや、そりゃそうか。馬鹿か私は。どうして、この可能性を想定していなかった? 白木は京子のことが好きなんだから二人で文化祭を回りたいと思うのは自明の理で、となれば私にその話をしてくるのも当然だ。むしろなぜ、ただの今までこのことに思い至らなかったのだろう。自分の間抜けさに頭が痛くなってくる。


「夏休みは結局、二人きりになったり出来なかったから。今度こそはって思って」


 白木が少し意気込んだ表情で、私に黒色の双眸を向けてくる。その視線に射抜かれた私は、一歩、後ずさりそうになってしまう。


 白木は夏休み、京子と二人ですごす機会がなかった。私のせいで。私が、理不尽な我儘を貫いたせいで。当てつけみたいなことをしたせいで。だから私に、拒否する資格なんてない。


「だからね、西宮さんにそれっぽい話を持ちかけて、三人で文化祭を回ることにしてくれないかな? それで、できたらでいんだけど、途中で適当な理由をつけて二人きりにしてくれたら嬉しいなって……」


 白木は恐縮そうに肩を縮こまらせながら、上目遣いに私の表情を覗き込んでくる。


 私は一度、罪を犯した。だからその償いとして、白木からの頼みを受け入れるのは当然だ。それに私は既に、京子と一緒に文化祭を回る約束をしている。白木の言ったことを実現させるのは、そう難しいことじゃない。私がその気にさえなれば簡単に、白木と京子を二人っきりにすることができる。


 ほら、早く頷けよ、私。はいって言わなきゃ。わかったって言わなきゃ。だって、そうしなきゃ駄目じゃん。おかしいじゃん。人として。それが当たり前の行動でしょ? そうした上で、白木にちゃんと謝らないと。なに躊躇ってるんだよ。私に断る権利なんかないんだよ。


 だけど……、だけどだけどだけど……っ!


 だけど京子は、自分から言ってくれたんだよ⁉ 私と一緒に回りたいって! 私と一緒にすごしたいって! 嬉しかった。京子が私のことを見てくれたのが、京子が自分から私を誘ってくれたのが、本当に嬉しかった。それを、その思いを、踏みにじらなくちゃいけないの……⁉


 当然だ、と私は思う。


 だって、私は白木のことを裏切ったから。その贖罪をするのは、当たり前のことでしょ?


 でも、とも私は思う。


 それは……、辛いよ。そんなのは嫌だよ。折角、京子が誘ってくれたのに。約束したのに。


 私は、京子と一緒に、いたいのに。


 自分がどうすれば良いのかわからなくって、いや、どうすればいいのかわかるからこそ、どうしようもないほど辛くって、苦しくて。吐き出しそうなほど酷い気分になる。


「……あ、あれ? 本庄さん?」


 白木の声で現実に引き戻される。白木はやけに戸惑うような、おろおろした表情で私のことを見てきた。何か言おうと思った。でも、あ、とか、えっと、とか、そういう無意味な言葉が辛うじて漏れ出るだけで、ちゃんとした文章を紡ぎ出すことはできなかった。


「見間違いじゃ……、ないよね? ねえ……、本庄さん。どうして、泣いてるの?」


「……え?」


 目元に、そっと手を当てる。すると確かに、目尻の辺りからすっと一筋の水滴が頬を伝っているのがわかった。それに気づいた瞬間、涙はさらに私の目元からこぼれ落ちてくる。


 指で蓋をしようと思っても、すぐにどこかから溢れ出してしまって駄目だった。


 ……涙? どうして? なんで泣いてるの、私? いや、なんでもなにもない。


 だって私、今、胸が痛い。辛い。それで苦しい。だから泣いてる。他に理由なんてない。


「ごめん……! ごめん、白木……!」


 もう耐えられない。そう悟った。これ以上、胸の中に何かを抱え込んでしまったら、その瞬間に私という器にヒビが入って、粉々に壊れてしまう。そんな予感があった。


「私、白木に酷いことしたの……! 実は二十四日、本当は京子、用事なんてなかったの……! それなのに私、勝手に京子と遊びに行く約束しちゃって――」


 唐突な懺悔に、白木が困惑しているのがわかった。でも、一度口に出してしまえば、もう止まらなかった。胸を焼くような罪の意識に苛まれながらも、私はこうなるに至った経緯を白木に語った。語ったというか、ぶちまけた。言葉が一つ口から吐き出されるたび、喉を突き刺されるような鋭い痛みが走った。感情が昂ぶっているせいで、すごくわかりにくい話だったと思う。でも、理性的に話すことなんて今の私にはできそうもなかった。


「……そ、っか。……そう、だったんだ」


 語り終えるとともに、白木が引きつった声で反応をこぼした。私は下げた頭を上げられなくて、しばし固まる。


 そうして沈黙が落ちた。死に遅れた孤独な蝉の声だけが、静寂を縫うように淀んだ空気の中で響いている。私は生温かい大気に包まれながら、これから白木にどんな言葉を浴びせられるのだろうと、戦々恐々としていた。


「――ごめんね、本庄さん」


 思わず、顔を上げた。そうして、耳を疑った。え、と間の抜けた声が漏れる。


 今、白木はなんて? なんだか、あまりにも場違いな言葉を投げかけられた気がして、呆然としてしまう。ごめんね? ごめんねって言ったの、白木は? なんで? 意味がわからない。


「だから、ごめんね。私、本庄さんに随分辛いことさせちゃったよね」


 ごめんなさい、と頭を下げてくる白木。完全に意表外だったその行動に、私は最初、フリーズしたPCみたいに何も考えることができなかった。


「……え、ちょっと待って。なんで、白木が謝るの? だって、悪いのは全部、私で――」


 そうだ。そのはずだ。悪いことをしたのは、私。白木のお願いを、白木の思いを踏みにじった私が悪い。そうに決まってる。謝らなくちゃいけないのは私だけだ。責められなきゃならないのも。なのにどうして、白木の方が謝罪してきてるんだろう。白木は一体、何を考えてるの?


「ううん、そんなことない」


 白木は頭を上げるとともに、軽くかぶりを振りながら私の言葉を遮った。


 それでなおさら、私は何が何だかわからなくなる。


「だって私、自分のことばかりで本庄さんの気持ち、全然考えられてなかったから。……ごめんね。苦しかったよね」


 白木は胸に手を当てながら、何やら沈痛な表情を浮かべている。


 だから、どうして? なんで、白木が謝るの? 混乱を深める私に対し、逆になんで戸惑っているのかがわからない、とでも言いたげに、白木が小首を傾げる。


「――だって、本庄さん」


 白木が薄い唇を開く。大した声量ではないくせに、やけに通る声だった。


「西宮さんのことが、好きなんでしょ?」


 ……え?


 一瞬で、頭の中からさーっと何かが引いていくのがわかった。


 唐突に突きつけられたその一言に、心臓にボディーブローを食らったみたいな凄まじい衝撃が走る。世界が急速に遠のいて、頭の中が刻一刻と白に染まっていくのを感じる。


 待って、どういうこと? 私が……、好き? 京子のことを? 好きって、それは友達としてとか人としてとか、そういうありふれた意味じゃなくて、恋愛的な意味で?


「だから、ごめん。私、それなのに本庄さんに仲介役なんか頼んじゃって。……ありがとね。すごく辛かったはずなのに、ちゃんと私と向き合ってくれて」


 待って。……待って待って待って! だって、おかしくない……⁉ 私が、京子のことを好き……⁉ ないないない! ありえない! だって女同士じゃん! 私は女で京子も女! 好きになんか、なるわけないじゃん! 私が京子を好きだなんて、ありえない!


「でも、それももう終わりにする。私はもう、本庄さんの手なんか借りないから。本庄さんも私のことは気にしないで。……って、本庄さん? 大丈夫?」


 白木が私の顔を覗き込んでくる。それと同時に、気づく。


 そうだ……。でも白木は、京子のことが好きなんだ。女同士だけど、ちゃんと恋愛的な意味で京子のことが好きなんだ。白木は、京子に恋をしているんだ。それに、一般常識としても知っている。同性を好きになることもあるって。ちゃんと。


 ……だけど、私が? 私、本当に京子のことが好きなの? 本当の本当に?


 脳内に京子の姿が思い浮かぶ。京子の髪は綺麗だ。顔も、首も、手も脚も目も、何もかもが綺麗だと思う。何もかもに心がときめく。綺麗だなって思う。独り占めしたいって思う。


 胸がキュッと締め付けられたみたいになって、何も考えられなくなる。わからない。自分の気持ちがわからない。頭の中が呆然として、世界が回転していくかのような、遠のいていくかのような心持ちがする。どうして立ったままでいられてるのか、不思議なくらいだった。


「と、とにかく、そろそろホームルームだし、一旦、教室に行こう? リハーサルもあるし」


「……あ、うん」


 自分で声に出しているはずなのに、どこか自分以外の誰かが喋っているみたいな違和感があった。歩き始めた白木についていっているはずなのに、身体だけが自動で動いて魂は置き去りにされているみたいだ。


 頭の中にあるのは、ただ一つ。


 ……私って、京子のことが好きなの?


 それだけだった。

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