第28話 イケナイこと 2
だがそのとき、京子は唐突に小声で叫ぶと、いきなり私のことを後ろからぎゅうと抱きかかえてきた。え、なに、と戸惑いの声を発するよりも先に、掌で口を押さえつけられる。
腰掛けていた噴水の縁から強引に地面へと降ろされて、何かから身を隠すみたいにかがみ込む。というか、かがみ込まされる。まるで、誘拐犯に拉致されているみたいだった。
私は何が何だかわからず、え、え、とあわあわした声を京子の掌の隙間から漏らす。
「しっ……! 静かにして。先生が見回りに来たから……!」
耳元で京子の温かい吐息を感じる。言われてみると、確かに向こうの方から誰かの足音らしきものが聞こえてくる。だけど今は、京子に後ろから抱きしめられているという事実ばかりに意識がいってしまって、そんなのはすぐ頭の中から出ていってしまった。
京子が私のお腹に両腕を回して、ギュッ、と抱き寄せてきている。全身で京子の柔らかさと体温を感じる。頬に京子の髪の毛が当たってくすぐったい。風呂上がりだからか、ほんのりと甘い匂いがする。京子の、匂いがする。そして何より、肩甲骨のあたりで……、その、京子の胸の感触をモロに感じてしまってうわ凄く柔らかくてでも弾力があって、なんというかすごすぎてすごい……! これが京子のおっぱいの感触か、と。やけに興奮してしまう私がいた。
心臓がバクバクと荒れ狂い、熱を持った血液を力強く押し出してくる。
あのときと同じだ。あの、全身がカアッと熱くなって、頬が紅潮して、頭がぽわっとした温かさで甘く蕩けていくような、不思議な感覚。全身が京子に包まれている。総身で京子を感じている。少しでも京子の中に収まっている部位を広げたくって、肩を全力で縮こまらせる。
「……もう行ったかな」
呟いて、京子がそっと私の前に回した腕を解く。
「――ま、待って……!」
無意識に、そんな言葉が口先からこぼれ出ていた。
解ける寸前だった京子の腕を強く掴んで、制止する。
「だ、駄目……。その、まだ、先生が、来るかも知れない、から……」
なんだ? 私は何を言っているんだ? 先生はもう行った。足音だって聞こえてこない。
だからもう、こうして京子と一緒に隠れている必要なんてないはずなのに。
頬が更に熱を持ち、赤くなっていくのがわかった。首筋の動脈がどく、どく、と脈打って、このまま破裂してしまうんじゃないかって不安になる。
「もうちょっと、もうちょっとだけ……。このままで、いて……?」
生温い夏の夜気に染み入るように、声は細く揺れている。
……いや、ちょっと待て。馬鹿か? 馬鹿なのか私は? ……いや、馬鹿だ。馬鹿馬鹿馬鹿! 私の馬鹿! もう少しこのままでって、子供か⁉ なに、変態みたいな発言してるんだ⁉
今更ながら、凄まじい羞恥心と後悔がどっと胸中に押し寄せてくる。恥ずかしさのあまり、頭を抱えそうになる。
あのときもそうだった。この奇妙な熱が全身に充満すると、脳みそが別人のものにすげ変わったみたいに変なことを考え出してしまう。こんな発言、普段ならどう考えたってするはずがないのに。でもそのくせして、やけに心地良い悦楽を味わわせてくるのだからたちが悪い。
今の言葉で、京子は何を思ったのだろう。気になる。知りたい。でも、怖い。振り向いて、京子の反応を知ってしまうのが怖い。京子の表情を目の当たりにしてしまうのが怖い。
……もう、嫌だ。逃げたい。早くこの場から逃げたい。いくら何でも、いたたまれなさ過ぎる。逃げよう。もう、強引に逃げてしまおう。きっと、それが一番いい。
そう思って、京子の両腕を振りほどこうとした、その直後。
「――わかった」
夏の淀んだ空気よりも、ずっとずっと柔らかくって、温かい声。
一瞬、何を言われたのかわからなくって、自然と身体の動きが止まった。
「……え?」
京子が、解きかけていた腕に再び力を入れてきた。
ギュッ、と。力強く、でも優しく、京子の腕の中にそっと抱き寄せられていく。
背中で京子の柔らかさを感じる。京子の体温を感じる。辺りに充満する蒸し暑い空気よりも温かい、でも少しも不快なんかじゃない心地のいい熱が、じんわりと私のことを包み込んでくる。改めて突きつけられる人肌の感覚に、思わず息を止めそうになる。
「どうしたの、急にそんなこと言ってきて。もしかして柳って、実は甘えたがり?」
「いや、その……。そういう、わけじゃ……」
京子の穏やかな声に絆されるみたいに、言葉が上手く紡げなくなる。そんな私のことを優しく受け入れるかのように、京子はなおも私のことを抱きしめ続けてきた。
「別にいいよ。たまには、こうして私に甘えてくれたって。……わたし、いつも柳に優しくされてばっかりだからさ。返せるものがあるなら、返したいし」
京子はまるで、低反発のマットレスみたいな不可抗力の快楽で、私を背後から包み込んでくる。まるで、無重力空間にゆっくりと沈んでいくみたいな気持ちよさ。
「……ん」
なんて言えば良いのかわからず、返事ともつかない声だけが口から漏れる。
そうしている間にも、心臓はバックンバックンと早鐘を打って、首元の血管が暴れまわっているのがわかった。でも、不思議と苦しくはない。恥ずかしさで悶え死にそうにはなるけれど、脳みそがとろんって蕩けて、何も考えられなくなっていく。頭の中が京子のことだけで満たされていく。頭蓋骨の内側に、温かい砂糖水をとくとくと注ぎ込まれているみたいな気分。
「……ねえ、京子」
――私だけを見て。私だけを抱きしめていて。私から、離れないで。
「ん? どうしたの?」
「あのさ。……さっきの話の続き、なんだけど」
――京子は私の特別。だから京子も、私を特別にして。私だけを側にいさせて。私以外と、二人きりになんてならないで。私以外を、抱きしめたりなんかしないで。
「ああ、夏休みの予定の話?」
「そう。それ。……あのさ、よかったらで、いいんだけど」
――京子が、私以外の誰かと一緒にいるのなんて嫌。私以外の誰かに可愛いって言うのなんて嫌。私だけ、私だけがいい。私だけが、京子のことを独占したい。だって私には京子しかいなくって、京子だけが一緒にいて心地よく思える相手で、隣にいたいって思える誰かで、だから京子がいなくなったら私はずっと一人になるしかなくって、でもそんなのは寂しくて辛くて耐えられなくって。だって、だって、私は……!
「よかったら?」
「……その。二十四日さ、一緒に……、何処かへ遊びに、行きたいなって」
――私はもう、京子の腕の温もりを、知っているから。
こうしたのは、京子だ。京子が悪いんだ。私はこれまで、一人きりでもよかったのに。一人ぼっちでも耐えられたのに。それなのに京子は、私のことを可愛いって言ってきて、腕を組んできて、優しくしてくれて、抱きしめてくれて。
いつの間にか、京子の側にいたいって思うようになっていて。
一人ぼっちは嫌だって、思うようになっていて。
京子と一緒にいる時間が、好きになっていて。
「お、いいねいいね。何処行く?」
「それは、まだ……、考えて、ないけど」
でも私、なんでこんなこと言ってるんだろう。なんでこんなことに、なってるんだろう。
だって私は、白木からお願いされて、予定を訊いてくるように頼まれてて……。
でも生憎、今の私の脳みそじゃそんなことをまともに考えるのなんて、不可能だった。
「京子は、何処か行きたいとことか、ある?」
「え? そうだなぁ……」
熱に浮かされた頭では、自分がどれだけ罪深いことをしているのかなんて、思い至るはずもないのだった。
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