第27話 イケナイこと 1
「それじゃ、乾杯」
「か、乾杯」
京子に連れてこられたのは、学校の中庭だった。自販機で買ったジュース片手に、噴水の縁に腰掛けながらパジャマ姿の京子と乾杯する。消灯時間後に宿泊棟を抜け出して、中庭でジュースを飲む。なるほど、たしかにイケナイことだ。私の想像してたものとは、ちょっと方向性が違ったけれど。具体的にどう違ったのかは、割愛。
……ぜ、絶対に割愛。
ペットボトルに口をつけ、冷えたジュースをゆっくりと口の中に流し込む。
甘くて冷たい。暑く火照っていた身体が、じんわりと芯から冷やされていくような感覚。
口を離してから、ふぅ、と小さく息を吐き出した。
生温い夜風が私の頬を撫で、それから京子の長いブロンドヘアを揺らした。目の前にちらつく黄金色の細糸に、つい魅了される。まるで、伝説の鳥か何かの尾羽根のようだと感じた。
空には雲ひとつなく、夜闇の中で若干端の欠けた月が白々と輝いている。昼間は閉口するほどうるさかった蝉たちも騒ぐのを止め、辺りはシンと静まり返っていた。
当たり前だけど周囲に人気はなく、本当に京子と二人きりなんだということを意識する。
「なんにせよ、今日はお疲れ様、柳」
「あ、うん。京子もお疲れ」
「いえいえ。わたしより柳の方が疲れたでしょ? 色々とね」
京子が私の顔を覗き込んでくる。軽く視線を逸らしながらも、まあ、と曖昧に答えた。実際、気苦労が溜まっているのは確かだ。あんなふうに誰かと話してばかりいたら、疲れるし。
「あ、あの、京子? ……なに?」
京子が私の顔をやけにじろじろと見つめてくる。……な、なんだろう。何か顔についてる? それとも私、変な表情してる? 唐突に不安に駆られ、ペタペタと自分の顔を触って確認する。
「眼鏡」
「え?」
「だから、眼鏡。掛けてるところ見るの、久しぶりだなって」
「あ、ああ、そういう……」
無意識にくい、と指先で眼鏡を押し上げる。お風呂上がりからずっと掛けていたけれど、こうして二人きりのところで眼鏡姿を晒すのには特別な意味があるように思えてならなかった。
「やっぱり、こうして見てると眼鏡も似合うね。可愛い」
京子が爽やかな笑みを浮かべながら、サラリと言う。
それで急速に体温が上昇して、みるみるうちに頬が赤くなっていくのがわかった。身体の奥底がポカポカと温かくなって、その熱が血液に乗って全身に充満していく感覚。
「……あ、ありがと。京子は、その……、いつも、可愛いよ」
前髪を右手で弄り、伏し目がちになりながら答える。でも、私は京子みたいに何気なく可愛いと言うことなんか出来なかった。変に意識してしまって、どもりがちになってしまう。
「あはは、ありがと。柳も、いつも可愛いよ」
「……ん」
ああもう、こいつはいつもいつも……! なんでそうも簡単に、人のことを可愛いなんて言ってくるんだろう。恥ずかしいじゃんか、馬鹿。言われる側の気持ちにもなってみてよ。
「それで、何? 私に話があるんだよね?」
京子が自分のジュースを飲んでから、改まった声色で訊いてくる。
あ、そういえばそうだ。忘れるところだった、危ない危ない。
少し思案して、適当な切り出し方を吟味してから口を開いた。
「京子ってさ、夏休みの間も用事とかあったりするの?」
「え? まあ、そうだね。家庭教師の先生が来たりとか、ピアノのレッスンがあったりとか。あと夏期講習とかにも行ってるし、割と忙しいかな」
そうなんだ、と短い相槌を打つ。
きっと暇じゃないんだろうな、と漠然と予想してはいたけれど、やはりそのとおりだったらしい。私なんかは家でゴロゴロしてる時間が大半なのだけど、京子がそんな自堕落な毎日を過ごしているところは想像がつかないし。昼頃まで寝ていることの多い私と違って、京子は毎日、規則正しく寝起きしてきちっと服を着替えて、勉強したり習い事に励んでいたりするのだろう。
「じゃあ……、やっぱり、空いてる日とかも殆どない感じなの?」
「そうだなぁ……。確か、二十四日は空いてたと思うけど、それだけかな。劇の練習もあるし」
二十四日、か。白木は確か二十から二十四が空いていると言っていたから、一応、予定は合うことになる。なら、問題はないか。これでめでたく、白木は京子と二人でデートできることがわかったわけだ。うん、めでたい。
……めでたい、んだよね?
「……あ、そっか。そう、なんだ」
返事が少しだけ強張っていることが、自分でもわかった。
どうしてだろう。これで良いはずなのに。物事は上手くいっているはずなのに。
白木は京子と二人で遊びに行きたくって、私はそのために予定を訊いてくるよう頼まれて、そのお願いはもう完遂した。京子からの返事も、白木が望んだ通りのものだった。
だからもう、気に病むことも落胆することも何もないはずなのに。それなのにどうして私は、心臓をキュッと締め付けられているみたいな鋭利な痛みを、息が詰まるみたいな心細い苦しさを味わっているんだろう。気づけば、Tシャツの胸元を右手できつく握っていた。
「どうしたの、急にそんなこと訊いてきて? もしかして、遊びにでも誘ってくれるとか?」
京子が淡い青色の瞳で、私の横顔をじっと見つめてきているのがわかった。
だけど今はその視線が、なんだかやけに切なくて苦しくて、仕方がなかった。
違うの。遊びに誘うのは、私じゃないの。
でも京子は、遊びにでも誘ってくれるの、って自分から言ってきてくれた。冗談なのかも知れないけれど、嫌そうにしてる素振りはない。むしろ、ちょっとだけ期待してるみたいな、柔らかい表情を浮かべている。
もしかして京子、私と一緒に何処か行きたいって思っててくれてるのかな。私となら、二人っきりで出かけるのも悪くないって、そう感じてくれてるのかな。
私もだよ。私も京子となら、誰かと一緒にいるのもいいって、思えるんだ。京子と二人きりなら、心地いいって思える。楽しいって思える。京子と、二人だけになりたいって思う。
……だけどね、違うの。その日、京子の隣にいるのは、私じゃないの。
白木から誘われたら、京子は絶対に誘いを断ったりなんかしない。だって京子は、優しいから。白木が自分と遊びに行くことを望んでいたら、それに答えようとしてしまう。
それが、京子だから。京子は、そういう人だから。
「……柳?」
京子が怪訝な面持ちで私のことを観察してくる。澄んだ清水みたいな瞳が、月の光を受けて鈍く輝いているのがわかった。黄金色の髪の毛が、街を埋め尽くす闇の中で静謐に輝いている。
本当に綺麗だな、こいつ。
こうして横目に見ていると、降り注ぐ月の光の中に溶けていってしまいそうに思えて、不安になる。だから、触れたくなる。京子の感触を、肌触りを、体温を、確かめたくなる。
私は半ば無意識に、右腕を恐る恐る京子の方へと近づけていた。
「あっ、マズ……!」
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