第21話 淡い水色
期末テストが終わってしまうと、夏休みはすぐだった。
一週間ほど続いた登校日はもはや惰性のようなもので、午前中に幾つかの科目のテストを返せばそれで終わりだ。もはや、わざわざ学校に来る意味さえ感じられないくらいだった。
そうしてあっという間に終業式を迎え、何かと気苦労が絶えなかった一学期が幕を閉じる。
補修や追試に引っかかることもなかったので、私の人生は無事、夏休みという束の間の安寧を手に入れたのだった。ちゃんちゃん。
……なんて、ぬか喜びできるのも一瞬だった。
うちの学校の文化祭は、九月の半ばに開催される。それはつまり、夏休みが明けた直後ということになるのであって、そして今年の私には劇における主役という超重要な役割があるのであって、となると必然、夏休み中もその準備に精を出さなければいけないわけなのであって。
つまり何が言いたいかというと、帰ってこい、我が親愛なる退屈な夏休み。
白木による劇の脚本が完成したのは、丁度、七月の末だった。その頃には日差しの強さもより一層強烈になり、昼間の街は白色の海に沈むかのようだった。PDFファイルで送られてきたそれをコピー機で印刷し、冷房の効いた部屋でだらーっとアイス咥えながら眺める。
脚本の出来は、意外と悪くなかったと思う。読んでるぶんには。
「……でも私、これやるんだよなぁ。人前で」
思わず、咥えたままになっていた食べ終えたアイスの棒が、口から落ちそうになる。
白木の脚本は、ところどころにアレンジが施されていた。まず、役者の人数的な問題でキャラ数が減っているというのがある。真鍋と日比谷が奔走した結果、追加で三名の役者を確保することは出来たらしいが、それでも絶対的に不足していることには変わりなかった。
それから、更にもう一点。多分、これが原作との最大の相違点なのだけど。
端的に言うと、王子が女になっていた。単純に役者である京子が女、ということを言っているのではなくて、作中の設定からして性別が女性になっている。
王子の家系には運悪く跡取りとなる男児が生まれなかったため、それを憂いた王が娘の一人を男として育てて王子に仕立て上げた、という設定だ。早い話が、ベルばらのオスカル。
そんなわけで我がクラスの白雪姫は元々のお話から飛躍して、如何にも現代的な百合劇に仕立て上げられてしまっていた。白雪姫ならぬ白百合姫。演じる手前、多少複雑な気分ではあるのだけれど、中身が悪くない以上は文句を言うのも筋違いだろう。
白木の百合版白雪姫は、白雪姫が王子のキスで目覚めた後、王子が自分の性別が本当は女であることを告白し、それを白雪姫が受け入れてハッピーエンド、という終わり方になっている。
……しかしこの場面の私の台詞、控えめに言って甘々というか、他のシーンと比べて文面から伝わってくる熱量が大違いだ。白木め、人畜無害で大人しそうな顔しておきながら、脳内にはここまで色鮮やかな妄想が渦巻いていたとは。
台詞を声に出して読み上げていく作業は、こっ恥ずかしくて仕方がなかった。けど、人間の適応力というのはやはり優秀らしく、白木の脳内妄想が垂れ流された甘ったるい台詞にも一週間くらいで慣れてきた。台詞の読み上げも、いつの間にか淀みなくできるようになっていた。
そんなこんなで夏休みの前半は、ダラダラしたり、妹の相手をしたり、文化祭の練習をしたりで過ぎていった。
問題の合宿が始まったのは、お盆も終わって夏休みにも終りの兆しが見えてきた頃だった。
「……あー、あっついなぁ」
荷物の入ったリュックサックを背負いつつ、校門前の上り坂をゾンビみたいにちんたらと登っていく。両脇から伸びる木々の梢は、夏の太陽の過激な日差しを身に受けて、黒々とした色濃い影をアスファルトの上に落としている。ただでさえ脳みそが茹で上がりそうなのに、三六〇度、全方向から喧しい蝉の合唱を浴びせられ、平衡感覚が狂いそうになる。
中腹あたりで一度、足を止めて休憩を挟む。瞬間、視界が鮮烈な白に染まってぶっ倒れそうになった。あぶな、と内心でヒヤヒヤしながら、頬を伝う汗を右手で拭う。出不精の身体には、真夏の通学路は相当応える。
無事に学校までたどり着けるのかと微かな不安を感じながらも、歩き出す。
背後霊みたいに体中に纏わりついた、ねっとりと蒸し暑い大気がうざったかった。
「柳、おはよう」
「――ヒャッ⁉」
首元に凄まじい冷気を感じて、全身がビクリと震え上がった。ひんやりと気持ちいいはずの冷たさも、火照り過ぎた身体には毒となる。
「ちょ、ちょっと! なんなの、いきなり……⁉」
むすっとした顔つきになるのを意識しながら、振り返る。私の首元に冷えたペットボトルを押し付けてきた京子は、楽しそうにヘラヘラと笑っていた。
「あははー、ごめんごめん。柳を見るのが久しぶりだったから、つい」
何がつい、だ。全く、子どもっぽい奴め。
内心で毒づくと同時に、風が吹く。少しだけ涼やかなそれは、夏の停滞した空気を追い払うかのように、勾配の急な坂を一気に駆け上がっていった。纏わりついていた空気の質が、ガラリと変容したのを肌で感じる。
今の風は、一体どこから来たのだろうか。まるで日本中に微かに残留していただけの爽気が、京子の清水みたいな瞳に吸い寄せられて来たみたいだった。
「いやぁ、暑いねー。突っ立ってないで、早く学校行こっか。一応、教室は冷房あるし」
だが歩き出した京子の額や首筋には、私と同じく汗が筋を引いていた。いくら清涼な印象を受ける京子でも、日本の夏の洗礼を完全に跳ね飛ばすことは出来ないようだ。
京子の頬に張り付いた黄金の細糸を、なんとはなしにじっと見つめる。
京子がペットボトルの蓋を開け、中のミネラルウォーターをゴクゴクと喉奥に流し込む。
そういう何気ない動作も、京子がやると不思議と気品のようなものが感じられるような気がして、つい見入ってしまう。
すると何を勘違いしたのか、京子はチラと私のことを一瞥すると、「飲む?」と言ってペットボトルを差し出してきた。
「え? えっと、いや、その……」
実際、喉の乾きを感じているのは確かだった。枝葉の隙間から零れ落ちる白い光に照らされて、ミネラルウォーターが、結露した側面の水滴が、私のことを誘惑するかのようにキラキラと輝く。……だけど、その飲み口には、ついさっきまで京子の口がつけられていたわけで。
思わず、京子の唇を覗き見る。色艶がよくぷっくらとしたそれは、摘みたての苺のような瑞々しさを湛えていた。無意識に、ゴクリと唾を飲み下す。
「……じゃ、じゃあ、貰う。……ありがと」
断って、逆に変なふうに思われたら嫌だから、大人しく好意に甘えることにする。
ペットボトルを受け取ると、スッと両の掌から熱が抜けていく感触がして、心地よい。口をつけて水を身体の奥に流し込むと、体内に充満していた熱が少しずつ解けていくような感覚がした。
「間接キスだね」
むせた。水を吹き出すのは堪えた。
「……ッ⁉ ゲホッ、ゲホッ! ちょっと、急に何言い出すのよ……⁉」
ペットボトルを京子に返しつつ、猛烈に抗議する。だけど京子はなおもヘラヘラと笑っているだけで、反省する様子は毛頭ない。
……ああもう、本っ当に何なんだ、こいつ。
内心で深く嘆息しながら、私は大人しく京子と並んで急な坂道を登っていった。
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