第17話 さよならは言わない

 六月も後半に差し掛かると、長かった梅雨にもようやく終わりの兆しが見えてくる。


 連日傘マークばかりだった天気予報にも晴れマークが増えてきて、同時に夏の暑さが着実に忍び寄ってきていることを肌で感じる。湿った外気は心なしか生暖かさを増していて、どんどんと体温に近づいてきているような。私は暑いの嫌いだし、辟易とする毎日が続いていた。


 とはいえ私も、迫りくる夏に対して悲嘆してばかりというわけでもない。というのも高校生である私には、そんな憂愁を一発で吹き飛ばすに足るような特権があるのであって。


 つまるところ、夏休みだ。


 私曰く、夏休みというのは素晴らしい。何が素晴らしいって、特段、称賛する点も酷評する点もないというのが素晴らしい。それはつまり暇ということなのであって、私のような人間にとって、暇なこと以上のご褒美は存在しないのだった。結論、夏休み最高。


 ……しかし、しかしだ。諸手を挙げて日毎に近づく夏休みを歓迎できないだけの理由も、一介の高校生たる私には付いて回ってくるのであって。


 つまるところ、期末テストだ。


 私のいる高校は一応、そこそこの進学校ということになっている。でも私は、少なくともこの高校においてはそこまで勉強ができる方じゃなかった。テストで平均点を取るのにだってそこそこの労力を要する。日頃、大して勉学に励んでいないぶん、テスト前になると慌てて机に向かわざるを得なくなる。そういうのは、やっぱり面倒くさかった。


 でも、かといって下手に手を抜いて赤点を取れば、追試やら補修やらに引っかかって余計に大変なことになってしまう。無駄の排斥をポリシーに掲げる私としては、それは本意ではない。結果として、結構な時間を気怠いテスト勉強に費やさざるを得なくなるわけだった。悩ましい。


 こうして定期テストに苦心惨憺していると、テスト勉強なんかとは無縁だった小学校時代が懐かしくなってくる。まだ小学生の妹が、ちょっとだけ羨ましかった。


 でも、考えてみると不思議だ。あの頃の私は早く高校生になりたくて仕方なかったというのに、今は逆に小学生に羨望を覚えているだなんて。


 あの頃の私は何故、あんなにも高校生に憧れていたのだろう。金銭や移動の自由が欲しかったとか理由は色々あるだろうけど、一番は多分、フィクションの影響だ。漫画とかアニメとかの主人公は大抵、高校生だから。そのせいで、変な固定観念を植え付けられてしまったのだろう。高校生というのは毎日が波乱万丈で楽しくて、特別なものなんだって、偏見を。


 おい、小学生の頃の私よ。現実とフィクションを一緒にするな。


 十六の私は、部活にも入らなければ友達も恋人もいないし、学校生活の裏で冒険活劇を繰り広げたりもしない。あんまり、夢を見すぎないほうがいいぞ。


 ああでも、そんなこともないのかな。綺麗な夢は、見られるうちに見ておいた方が良いのかも知れない。大きくなって現実を知ってしまえば、そうして無邪気に胸を膨らませることもできなくなるし。現実はいつだって、純粋な期待をたやすく裏切り、幻滅させる。それがわかるくらいには、この十六年間で私も大人になっていた。大人に、なってしまっていた。


 ……だけど、まあ。今から十年くらいが経って社会人になったときとかには、あの頃も悪くなかった、と。そんなふうに、平凡で退屈な高校時代を振り返ったりする日が来るのだろうか。


 所詮、まだ十六でしかない私にはよくわからないけれど、そうであったらいいと願った。


 だってそうじゃなきゃ、今こうして苦労している甲斐がない。


 なんて、それらしいことを考えてみたはいいものの。冷静に考えてみると、クラスの金髪美少女と恋人(偽)になるって、相当フィクションじみてない? ……うんまあ、楽しいかどうかはさておいて、一つくらい不思議なことも起こるよ、と。小学生の私には伝えておこう。


 そんなこんなで、テスト期間。


 ここ最近は京子との間に何かがあるわけでも、白木から新たな依頼を受けるわけでも、文化祭関連で何らかの動きがあるわけでもなかった。平々凡々とした毎日がゆったりと過ぎていく。


 私も特段サボったりすることもなく、真面目にテスト勉強をこなしていった。


 そうして、無事に四日間のテストが終わりを告げる。長かったような、短かったような。


 最後の科目に当たる数学の答案を前に回すと同時に、私は晴れやかな気分で伸びをする。出来は……、まあ、全体的に可もなく不可もなく? 多分、どの科目も平均点くらいだと思う。


 なんとも面白みのない点数だけど、私は点数に愉快さなんて求めちゃいない。


 何事も程々が一番、なんてね。


 夏休み前、最後の難関を無事乗り切ったともあって、私以外の生徒たちも皆、どこか清々しい表情をしている。答案を集め終わった先生が教室から出ていくや否や、業間休みの小学生男児みたいに一斉に席を立つクラスメイトたち。早速、いつもどおりのグループで集まって、テストの感想やらこの後の予定やらを楽しげに話し込んでいる。


 だけど当然、私なんかに話しかけてくる人はいるはずもなく。


 和気藹々とする同級生たちの会話を小耳に挟みつつ、私はたらたらと帰り支度を整える。


「――よーし! 終わったぁ! テストが……、終わったぁ!」


 教室内に一際、威勢のいい叫び声が響く。真鍋だ。いつも以上に溌剌とした顔つきで、身体をぐーっと伸ばしている。うわ、やっぱり体育会系なだけあって柔らかいな、あいつ。


「んー? それは、どっちの意味の終わったなのかなぁー?」


 真鍋とは反対に、いつもどおりの穏やかな面持ちを崩さない日比谷。色んな意味で好対照な二人だと改めて思う。似た者同士より、そっちのほうが相性良かったりするのだろうか。


「いやいや、それはまー、前向きな方の意味でして。つきっきりで勉強教えてもらった身だからね。お粗末な点数取るわけにはいきませんて」


「でも、回されてきた真鍋の答案、結構間違いあったよ?」


「え嘘⁉」


 京子からの辛辣な発言で、一瞬にして世界滅亡五分前みたいな絶望的な面持ちへ様変わりする真鍋。なんというか、忙しい奴だ。


「い、いいよ! そういうことは言わないで! 折角、爽やかな気分に浸ってたのに……!」


「ごめんごめん。でも、テスト返し当日に絶望に叩き落されるよりかは、いいじゃん」


「よくないよ! どうせ絶望するんなら、その日までは明るく楽しく生きてたいじゃん⁉」


 前向きなんだか後ろ向きなんだか、よくわからない考えだった。でも、こういう何気ないところに意外と性格が出たりするのかも知れない。そう考えると、ちょっとだけ興味深かった。


 はぁ、と大げさに肩を落として項垂れる真鍋。一々、リアクションがうるさいなぁ、と思っていると、唐突にバッと顔を上げた。心なしか、目は爛々と輝いている。


「よし、ラーメン行こう」


「繋がりが全然見えないんだけどー?」


 日比谷に突っ込まれる真鍋。しかしめげる様子はない。


「いやほら、傷ついた心にラーメンのスープが染み渡る……、的な?」


「それ痛そう」


「まー、なんだっていーじゃん! いいから行こうぜ、メンラー! 最近ご無沙汰だったし」


「うーん、私は付き合ってもいいんだけどー……、西宮は?」


 思案顔を浮かべる日比谷が、チラと京子の方を見やる。


 すると京子は、若干悩ましげな表情で控えめに右手を挙げた。そのまま小首を傾げる。


「私、ラーメン屋って入ったことないから、よくわからないんだけど。そんなに美味しいの?」


 おおう流石お嬢様……、って思ったけど、よく考えたら私も入ったことなかった。


 今の京子の発言で、地球に巨大小惑星が衝突した瞬間みたいな顔になる真鍋。或いは、宇宙の真理を悟った猫みたいな顔、と形容してもいいかも知れない。俗に言う宇宙猫だ。


「よし連れてく今連れてく絶対連れてく……! 私はきっと、西宮に美味しいラーメンを食べさせるためだけに生まれてきたんだ……!」


 安い人生だな。京子は呆れ顔になりながらも、はいはい、とそんな真鍋のことを優しくあしらっている。あの三人の昼食はラーメンで決まったようだ。


 でも、京子がラーメン屋の狭い席に座って麺をすすってる絵は、中々に想像するのが難しい。そもそも京子の食事風景を思い浮かべたとき、パッと出てくるのは箸じゃなくてナイフとフォークを手に持っている姿だ。日頃から箸でお弁当を食べているところを何度も目にしているというのに、不思議といえば不思議だった。


 まあ金髪だからな。なんて雑な理由で、自分を納得させてみる。


 さて、なんだか妙に長居してしまったけれど、私は今日これから、珍しく用事があるのだ。こんなところでぼさっとしてないで、早く行こう。軽い鞄を肩に掛け、颯爽と席を立つ。


「どうせなら、ラーメン食べたらカラオケ行こうぜ! あ、でも、西宮は予定とか大丈夫?」


「うん、今日は空いてるから問題ないよ。いいね、行こう」


 京子はこの後、ラーメン食べてカラオケか。私としては都合がいい。京子の帰宅時間は、遅ければ遅いほどありがたかった。


 だけど……、なんでだろう。ああして、真鍋たちと遊ぶ約束をしている京子を見ると、否応なしに私と京子の繋がりの薄さを意識する。


 以前、京子は私に言った。私と京子が本当の意味で出会ったあの日、京子の前に現れるのは私じゃなきゃ駄目だったんだ、って。通りかかったのが他の誰でもない私だったからこそ、京子は助けを乞うことが出来たのだと、そう伝えてくれた。つまり、私にとって京子が特別であるのと同様に、京子にとっても私は特別な存在なのだと教えてくれたわけで。


 だけど、こうしているとわかる。たとえ私が京子の特別であったとしても、私と京子の繋がりは恋人(偽)という便宜上の関係性があってこそ成り立っているもので、交友関係が存在しているわけではない、という揺るぎない現実が。


 私と京子は偽りの恋人という名目が、京子の両親に許嫁のことを諦めさせるという目的がある故に、互いに言葉を交わしたり、相手の部屋に遊びに行ったりしていたのだ。もしその肩書が綺麗さっぱりなくなってしまったら、私と京子の繋がりは絶対に途絶えるだろう。


 それは仕方のないことだ。だって、私と京子は本当の恋人なんかじゃないんだから。それどころか、友達ですらないんだから。私達の関係は所詮、偽物であって本物じゃない。役割を果たせば、いともたやすく途切れてしまう。


 だって、話す理由がなくなるから。関わる理由がなくなるから。


 少しの寂寥も抱かないと言えば……、嘘になる。けど、それでもいい。


 私はこの長いテスト期間の内に、何度も何度も考えて、迷って、そしてある決断をした。


 私は、京子との関係を終わらせる。京子には何も伝えずに、一方的に、私だけの判断で。


 もう決めたことだ。今ならまだ引き返せるけれど……、散々、悩み抜いた上の決断だ。今更、躊躇ったりなんかしない。


 これには勿論、白木に対する面目を立てるとか、私自身の心労の種を取り除くとか、そういった意味もある。けど一番の理由は、きっとそれが京子のためになると思ったからだ。


 このまま私が京子の恋人(偽)でい続けたら、好きでもない私なんかと恋人のフリを続けていたら、京子の名誉に傷がつく。家族との関係も拗れるだろう。それは、良くないことだと思う。京子のことなんか私には関係ないけれど、私のせいで不利益を被ったら寝覚めが悪い。


 だからもう、終わりにしよう。何もかも。スッパリと。


 教室を出る前に一度、足を止める。振り返ると、たまたま京子と目が合った。


 声を掛けることも、掛けられることもない。けどそれでも京子は、その水鏡みたいに綺麗な碧眼をスッと私の方に向けてきた。


 またね、と。


 そう言わんばかりに、そっと目を細めて柔らかに微笑んでくる。


 それを見て、どう頑張ったって言葉にすることの出来ないような様々な感情が、一斉に胸中にこみ上げてきた。今にもあふれだしそうになるそれに蓋をして、またね、と微笑み返す。


 ……上手く、笑えただろうか。きっと、不格好な笑顔だったと思う。


 意図的に笑みを浮かべることができるほど、私は器用な人間じゃないから。


 でも、いいや。だってその笑顔は、嘘だから。


 本当は、またね、じゃなくて、さようなら。


 糸を引く未練を断ち切るように、私はくるりと踵を返し、教室を後にした。


 靴を履き替えて、外に出る。手に馴染んだビニール傘を手に、雨降りの街へと飛び出す。


 そうして私は、歩みを進めた。愛猫の待つ我が家ではなく、駅へ向かって。


 たった二回だけ敷居をまたいだ、あの馬鹿でかい豪邸を目指して。

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