第18話 あなたを知りたくて 1
電車から降り、朧げだった記憶を頼りに京子の家を目指した。二回とも京子と組んだ腕の感触ばかり意識していたせいで、道筋は割とあやふやだった。軽く迷ってしまったものの、あの家は遠目からでも結構目立つから、取り敢えず辿り着くことは出来た。
……こうして一人で佇んでみると、すごい威圧感だ。モダンなデザインの白色の外壁が、広い敷地を取り囲う煉瓦塀が、私のような俗人を跳ね除ける強烈なオーラを醸している。門から玄関までの小道が、永遠続いているように見えて仕方なかった。
だけど、ここまで来て引き返すことなんか、できるはずがない。
私は一度、傘の柄を握る右手に力を込めた。ここに来るときはいつも感じていた京子の掌の柔らかさを、温かさを、滑らかさを反芻するように。
それから軽く深呼吸してみると、どうにか敷地へ足を踏み入れるだけの勇気が湧いてきた。
一歩、前に踏み出す。そのまま早足でズカズカと玄関の前まで移動して、呼び鈴のボタンに指を添えて一旦落ち着く。大丈夫。京子母が出てから言う台詞の流れは、昨日の内に考えてある。「こんにちは。京子さんのクラスメイトの本庄柳と言います。突然すみません。京子さんのことでお話があるのですが、よろしいでしょうか?」という文言だ。
一度、小声で口に出してみる。よし、問題ない。練習した甲斐あって淀みなく言える。
すぅ、と息を吸ってから、意を決してボタンを押した。ピンポーン、という呼び出し音だけはうちのものと大差ない。それだけで、何故か心が少しだけ落ち着いてくる。
「はい」
京子母の声がスピーカーから聞こえてくる。練習通りに行こう。
「こ、こんにちは。……あの、私、京子さんのクラスメイトの――」
「あら、あなたは……! 本庄さん、だったかしら? ……一人? 何を、しに来たの?」
京子母の声が強ばる。待って。どうして、まだ名乗ってないのに私だってバレたの? 予定と違う展開に頭が真っ白になりかけたところで、スピーカーの上にレンズが取り付けられているのに気づいた。馬鹿か私は。お金持ちなんだから、インターホンもカメラ付きに決まってる。
「ああえっと、その……! ちょっと京子の、いえ、京子さんのことで、お話したいことが、あって……!」
心臓は既にバックバク。横溢する焦燥感をなんとか抑え、最低限の要件を伝える。
しばらくの沈黙の後、「少し待っていて」と返答があった。通話が切れる。ふぅー、と長く息を吐く。
「――上がって」
扉が開き、京子母から中に招かれる。奇妙なぎこちなさ、緊迫感を意識しつつも、大人しく京子母の後ろについていく。
通されたのは一階のリビングだった。てっきり応接室的な部屋に通されるものと思っていたから、少し拍子抜けする。でも、それはそうか。恋人を名乗っているとは言え、一介の高校生をそんな仰々しい部屋に案内するとは思えない。
やけに広々としたリビングで、なめし革の如何にも高級そうなソファに腰を下ろした。落ち着かない思いを味わいながら待っていると、京子母が紅茶をお盆に乗せて運んできた。
自分の分と、私の分。その二つを机に置いて、私と正面から向かい合う京子母。
気まずい沈黙を埋めるかのようにして、ゆらゆらと仄白い水蒸気が立ち昇る。
私はしばらくの間、顔を伏せたまま雨の音を聞いていた。街中で、自分の部屋で、京子の部屋で、何度も何度も聞いたあの音を。そうして、心が落ち着きを取り戻すのを待っていた。
「――それで、話というのは、何?」
私が話を切り出すタイミングに迷っていると、京子母がさり気なく助け舟を出してきた。
こういう扱いを受けると、自分がまだまだ子供なのだという現実を否応なしに思い知らされる。感覚的には半分くらいは大人になっているつもりでも、私はまだまだ、大人に助けられる立場に過ぎないのだ。それはつまり、私がお子様だということに他ならなくて。
「その……、さっきも言ったとおり、京子さんのこと、なんですけど」
京子母の顔を見られない自分が情けない。胃がキリキリと鋭い痛みを発しているのがわかった。でも今更、逃げ帰ることなんて出来ない。脳内にこぽこぽと浮かんでくる言葉を、意志の力だけで必死に肺の底から押し出していく。
「実は私……、本当は、違うんです」
「違う? 何がかしら?」
ちらりと顔色を窺うと、京子母が怪訝そうな面持ちで私のことを見つめていた。でも意外と威圧的な雰囲気はない。本当は怒鳴りつけたいだろうに、気を使われているのだろう。
「だからその……、本当は、私と京子は恋人なんかじゃ、なくて。……全部、嘘なんです」
取り敢えず、一番重要な部分は言い切った。そのことにホッと胸を撫で下ろしていると、京子母が益々不可解そうな顔つきになって、「どういうこと?」とさらなる説明を促してくる。
ここまで来れば、後は意外とスムーズに事情を語ることが出来た。
物事というのは、往々にしてそうだ。始まる前は余計なことを考えて不安になって、でも、勇気を出してやってみると案外すんなり、どうにかなったりする。
「……なるほどねぇ」
私が語り終わるや否や、京子母は深く息を吐き出して、天井の方を一瞬だけ見やった。淹れてもらった紅茶は、ろくに口をつけないまま冷めてしまっていた。もう湯気は上っていない。
「とにかく、京子と本庄さんはただのお友達、なのよね?」
「は、はい。そうです。少なくとも恋人では、ありません」
友達でもない、という発言は飲み込んだ。わざわざ訂正するのも面倒だったから。
「事情はわかったわ。何にせよ、ごめんなさいね。あなたには迷惑かけたわね。謝るわ」
「ああ、いえ。私の方も京子の話に乗っかっちゃいましたし、謝られる筋合いなんてないです」
深々と頭を下げてこられて、つい恐縮する。大人の人からこんなに改まった謝罪を受けたのは、初めてだ。大人側に非があっても、なぁなぁに流されてしまうことが多いから。
「それで、結局どうなるんですか? 京子の、許嫁のことは……」
なんとなくいたたまれない気持ちになって、話を変える。言ってから、出過ぎた質問だったかなと後悔する。しかし京子母には、それで気を悪くした様子はなかった。
「やめにするわ。あの子がそれを望んでないのなら、そんなことしても意味ないもの」
一切の逡巡なく、サラリと言い放つ京子母。やけにあっさりとしていて、安堵するというよりかは肩透かしを食った気分だった。なんだか、今までてんてこ舞いになっていた自分たちが馬鹿みたいに思えてくる。これまでの気苦労は何だったのか。
「そう、ですか……」
「ええ。あの子のためにと思っていたのだけれど、逆効果だったみたいね。……そんなことにも気づけなかったなんて、駄目ね。私って」
軽く目を伏せながら、独り言のような調子で漏らす京子母。その様子は、どことなく京子と重なる。多分、幼く見えたからだと思う。大人だって、子供と同じで完璧じゃない。だから後悔もするし、自己嫌悪だってする。そんなの、当たり前のことだった。
「あ、ごめんなさい。こんなの、あなたの前でする話じゃなかったわね。忘れて」
京子母が少し慌てたように言う。忘れて、と言われてもガッツリ聞いてしまった後なのだから、忘れられるわけがない。スマホやPCみたいに簡単に記憶を消し去ることができるほど、人の頭は便利にできていない。それができたらどれだけいいか、って感じだ。
「あの、よければでいいんですけど……、家の中での京子がどんな感じなのか、教えてくれませんか?」
気づけば、そんな言葉が口からこぼれ出ていた。家での私と学校での私が別物のように、京子だって家族の前ではまた違った側面を覗かせているはずだ。それを、知りたいと思った。
出しゃばった真似だとは思う。でも、訊いてみたかった。京子母からは、一体どんなふうに京子が見えているのか。京子と京子母の間柄は、どのようなものなのか。それを、知りたい。
そんな積極的な衝動が自分の胸に湧いて出てきたことに、驚く。でも考えてみれば、こうして頼まれてもないのに京子母の元へ訪れている時点で、ポリシーもなにもないのだ。今更、といったところだろう。
京子母が面食らったかのように目を見開く。「そうねぇ……」と呟きながら、一度、冷めた紅茶を口に含んだ。京子と同じ青色の瞳が、空中に消えていった水蒸気の影を探し求めるかのように、細められる。
「……情けない話だけれど」
京子母が、上空に漂わせていた視線を手元に落とす。どこか愁いを帯びたその表情はやっぱり京子に似ていて、親子なんだなぁ、と漠然とした感想を思い浮かべる。
「よく、わからないのよ。京子が何を考えていて、何を思っているのか。私には」
半ば予想通りの回答に、やっぱり、と内心で相槌を打つ。
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