第19話 あなたを知りたくて 2
「あの子、家にいても基本部屋にこもりっぱなしだし、自分から何か言ってきたりすることもないから。京子って、いい子なのよ。小さい頃から。勉強もできるし、習い事だって真面目にこなして。大人の言うこともよく聞いていたわ。でも……、変な言い方だけど、いい子すぎるって言うのかしら。あの子、何を訊いても当たり障りのない答えっていうか、模範的な返事しかしてこなくって。それで、なんだか気を使われてるんじゃないかって、思ってしまうの」
子供なのにね、と付け足す京子母の物言いからは、内心の寂寥を感じさせられた。
以前、京子は言っていた。自分の親が何を考えているのかわからない、と。そして京子母も同様に、京子が何を考えているのかわからない、と溢す。
家族とはいえ所詮は他人なんだから、考えていることがわからないのは当然だ。人間、常に頭の中を丸出しにして生きているわけでもないし、家族相手であっても見せない部分があるのはおかしなことじゃない。私だってそうだ。
だけどこの二人に関しては、意図的に見せる見せないじゃなくて、そもそも互いの心の間に大きな距離が、隔たりがあるせいで、本来なら見せなきゃいけないもの、見せていいものでさえ見えなくなってしまっているんじゃないか、って。そんな気が、してしまう。
それは……、やっぱり、寂しいことなんじゃないだろうか。お互いにいがみ合っているというわけでもないのだから、尚更。
「ねえ、本庄さん。あなたは小さい頃、ご両親と一緒にどこかへ遊びに行ったりした?」
「え? それはまあ、人並みには」
言ってから気づく。多分、京子母が訊きたいのは、私が曖昧に濁した人並みの部分だ。
「具体的には、そうですね。旅行とかはあんまり行った覚えがないですけど、休日に公園に連れて行ってもらったりとかされた記憶はあります。もう少し大きくなってからは、水族館とか博物館とか。小五くらいからは、そういうのも殆どなくなりましたけど」
それは自然なことだ。その頃の私は家の外にもコミュニティを持っていて、そこの一員としての役割を果たさなければならなかったから。必然、家族と過ごす時間は減っていく。
まあ、中学に入ってからは、そのコミュニティに属するのも拒否しだしたわけだけど。
「……そうよねぇ。やっぱり、親ってそういうものなのよねぇ」
ため息交じりに京子母が言う。私は一度、机上のティーカップに手を伸ばした。温くなってこそいたけれど、芳醇な香りと味わいに変わりはなかった。
「私、今はこうして専業主婦をやっているけれど、昔は旦那と一緒で仕事一筋だったのよ。家のことも京子のことも、大半はお手伝いさんに任せっきりにしていて」
お、お手伝いさんと来たか……。うわお金持ちだ、という小学生並みの感想は呑み込む。
「でも、あの頃の私はそれを悪いことだとは思わなかった。京子との時間を取る代わりに、物を買い与えたり、将来のためにと思って習い事をさせたりしていたから。今思えば、それは不誠実な態度だったのよね。私はそれだけのことで、愛情を注いだつもりになってたのよ」
取り戻せない過去を惜しむように、悔やむように、京子母が目頭にそっと指を添えた。
「でも、心変わりはしたんですよね?」
「……そのつもり、なんだけどね」
ふぅ、と軽く息を吐きだす京子母。乾いた口内を潤すためか、ティーカップを口元に運んだ。
「今となっては、それも良い決断だったのかどうか、わからないのよ。過去に忘れていってしまったものを今になって取り返すだなんて、人生、そんなに都合よくはいかないでしょう?」
漠然とした物言いに、はぁ、と曖昧な返答をする。
京子母は行間を埋めるかのように、言葉を続けた。
「丁度、京子が中学に上がった頃だったのよ。京子との間にできてしまった距離に気づいて、仕事をやめたのは。もっと親らしく、京子に向き合わなきゃいけないと思って。……でもね、そのやり方すら自分本位で、京子のことを考えられていなかったのよ。私は、これからは自分で家のことをやろうと思ってお手伝いさんをやめさせてしまったのだけど、それがいけなかったみたい。京子は、私よりもお手伝いさんの方に心を許していたから。それを私の都合だけでどうこうしてしまったせいで、余計に溝が深まってしまった気がして」
確かに、京子からしてみればそれは嫌だったかも知れない。良かれと思ってしたことなのだろうけど、京子にとってそれは親の都合というか、エゴイズムというか、そういうもので大切な人と引き離されてしまったようなものだから。
「それなのに、私ってばまた同じようなことを……。駄目ね」
自嘲気味な苦笑をこぼす京子母。私は、何も言えなかった。
「って、ごめんなさい。なんだか、やけに縷縷と語っちゃって。退屈だったでしょう?」
過去から現実へと引き戻されたかのように、京子母が小さく瞠目する。それから、恐縮そうに軽く肩を縮こまらせた。
「いえ、そんなことは。こっちからお願いしたことですし。ありがとうございました」
改めて頭を下げる。今更ながら、こんな込み入った話を聞いてしまってよかったのだろうか、と後悔のようなものが頭をもたげた。
「それで、一つお願いなのだけど……、その、今話したことは、京子には」
「内緒、ですね?」
自分でも深く語りすぎたと反省しているのか、少し歯切れ悪く喋る京子母。
念を押されずとも、私から京子に伝える気はない。こういうのは当事者間でどうにかすべき問題だと思うから。第三者が要らぬ世話を焼いたって、余計に拗れるだけだろう。
京子母は一瞬、驚いたような面持ちになってから、ありがとね、と言って破顔した。以前までの印象とは大きく異なる、穏やかな表情だった。
「それにしても、本庄さんはなんというか、大人びているわね。聞き上手なのかしら」
「え? い、いや、そんなことないと思いますけど……」
唐突にそんなことを言われて、つい両目をしばたたく。私なんて、本質的にはただの根暗のコミュ障でしかない。そんなふうに評される要素なんて、具有していないと思うのだけど。
「そんなことないわよ。変に途中で口を挟んできたりしなかったし、真剣に耳を傾けてくれているのが伝わってきたから。気づいたら、色々と喋っちゃってたわ」
おどけたように苦笑する京子母。それで、なんとなくむず痒い気持ちにする。
こういうところ、やっぱり親子だ。気恥ずかしくなって、つい軽く視線を逸らす。
「でも、何にせよ安心したわ。お付き合いしてるって言われたときは、心臓が飛び出るかと思ったもの。だって、女の子どうしなんて……、ねぇ?」
その何気ない一言で、何故か心臓がドクンと跳ねた。
言葉にしなかったその空白に入るのが、気持ち悪いとか、おかしいとか、そういう侮蔑の言葉であることは疑いようもなかった。言葉の節々から、京子母の嫌悪が毒のように滲み出ているのを感じ取る。曖昧な靄のような不快感が、胸中をじわじわと侵食していくのがわかった。
……なんだ、それ。確かに女同士なんて変かも知れないけど、母親とはいえあくまで他人でしかない京子母が、とやかく言うことじゃないだろう。親としては不安になるのもわかるけど、誰を好きになって誰と付き合うかなんていうことは、京子が自分で決めていくことだ。この人、殊勝そうな態度を取ってはいたけれど、本質的には何も変わってないんじゃないのか?
そんな反感が、沸々と脳内に浮かんでくる。けど、ただの甲斐性なしの私には、その批判を同級生の親相手にぶつけることなんか出来なかった。もう既に、今月分の勇気は使い果たしてしまっているし。冷めた紅茶と一緒に、どろどろとした不満や反感を胃の中へと押し込んだ。
なんにせよ、頑張れ白木。君の恋路は前途多難だぞ。
「とにかく、私が至らないせいであなたには色々と迷惑をかけたわね。改めて、ごめんなさい」
「ああいえ、別に構いません。全然、気にしてないですから」
勿論、嘘だ。超絶構うし、超絶気にしてる。というか、ここ一ヶ月で今までに類を見ないくらい精神が疲弊した。私のポリシーに反することばかりしていたし。本当、勘弁して欲しい。
でもそんなことを京子母に言ったって、気まずい思いをするだけなわけだし。嫌悪感を抱かれるのは嫌だし。本心を呑み込むくらいの処世術は、私も会得済みなのだった。
「それにしても、京子がそこまで自分のことを話すだなんて。信頼されてるのね、本庄さんは」
「いえ、そんなことは……」
「あなたがよければ、これからも良い友達でいてあげて。きっと、あの子も喜ぶと思うから」
京子母はなんてこともないように言って、微笑を浮かべる。
瞬間、何故か息の詰まるような、鈍いくせしてやけに鮮明な胸の苦しさを感じた。
「……あ、はい」
当たり障りのない返答をする。無意識に顔を伏せかけて、慌てて元に戻した。
これからも友達で、か。
そんなことは不可能だ。だって私は、これまでも京子とは友達なんかじゃなかったのだから。
そして、それはきっと、これからも。
私と京子は、恋人だった。それも本物ではなく、打算的な、手段としての恋人関係。
それだけが、私と京子を結びつける全てだった。
だけど私は今この手で、その繋がりを断ち切った。私と京子が繋がっていることの意味を、綺麗さっぱり消し去ってしまった。
後悔もなければ、悲しみもない。あるのは、自分という存在から何かが欠落してしまったみたいな、いつも持ち歩いていたはずの大切な何かを失くしてしまったみたいな、漠然とした喪失感であり、虚無感であり、空虚さだった。
あまり長居して京子と鉢合わせても気まずいので、そろそろお暇することにした。京子母に見送られて、玄関を出る。
半ば自動的に傘を開くと、軒先から出たところで雨が止んでいたことに気がついた。そそくさと傘を閉じてから、門を出る。
空を覆う白雲の隙間から、綺羅びやかな陽の光が薄いカーテンのように落ちている。雲の上から光の粒子を撒き散らしているようにも見えた。薄明光線、と言うのだったか。
雨上がりの、水分を多量に含んだ重い空気が、全身を包み込んでくる。動く度に生ぬるく肌を撫でてくるそれは、間近に迫った夏の気配を如実に感じさせるものだった。
遠くの方に、薄っすらと虹が架かっているのに気づく。
ぼうっと七色のそれを眺めながら歩いているうちに、思い出した。そういえば昨日、天気予報でキャスターが今日で梅雨明けだと言っていたっけ。
長かった梅雨も、もう終わる。
季節はすぐに、茹だるような暑さの夏へと突入していくのだろう。
足元でピチャ、という音がする。水たまりに足を突っ込んでしまった。思わず、うげ、と顔をしかめる。すぐさま足を引っ込めたけど、時既に遅し。じわじわと靴の中へと浸水していく。
これだから雨は嫌いなんだ。はぁ、と独りでにため息を吐く。
けど、きっとこの先は、雨が降ることもないだろう。
梅雨明けとは関係なしに、何故だかそんな予感があった。
私は、雨が好きじゃない。ジメジメするし鬱陶しいし、靴は濡れるしで良いことなんか一つもない。これきり雨が降らないのなら、清々するというのが本音だ。
でも、一体どうしてだろう。
そんな雨の煩わしさも、梅雨が開けた今となってはそう悪くはなかったな、って。
そんなふうに思えてしまって、仕方がないのだった。
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