第13話 触れて、傷つけて、近づいて 2

 突然、感情的に言葉を吐き捨ててくる京子。声も荒らげられている。初めて見るその剣幕に私はたじろぎ、息を呑んだ。頭がどんどんと白色に染まっていくのがわかった。


 ……あれ? 怒らせた? もしかして私、京子のこと怒らせた?


 顔色を窺おうにも、京子が顔を伏せているせいでよく見えない。だけど僅かに覗く唇は、歯噛みするみたいに震えているような気がした。


 いや、そうだ。京子は絶対に怒ってる。私のせいだ。完全に私のせいだ。どうしよう。何を言えばいいの? わからない。焦りと戸惑いと恐怖だけが、頭の中でどんどんと増殖していく。


「なんで⁉ なんでよりによって柳が、そんなこと言うの⁉ 柳ならそういうこと言わないって、わたしのことわかってくれるって思ってたのに……! それなのに……!」


 キッ、と京子が顔を上げる。眉根は寄り、唇は引きつり、淡い青色の双眸は怒りの感情で細められている。けれど、その瞳は何故か哀願する子供のようにも見えて、怒っているのか傷心しているのか判然としなかった。両方なのかも知れない。


「きょ、京子……? その、どういう、こと……?」


 京子の勢いに気圧されながらも、訊き返す。正直、京子が何を言っているのかよくわからなかった。ちゃんと説明してもらわなきゃ、どんなふうに謝ればいいのかもわからない。


「だって……、だって! 柳なら、わたしに何かを期待して縛りつけたりなんか、しないと思ってた! それなのに……! ねえ、どうしてわかってくれないの⁉ そんなに言うなら、わたしじゃなくて柳がやってよ! なんでわたしがやらなくっちゃいけないの⁉」


 けど、京子は相も変わらず感情的に言い募るばかりだった。そのどこか乱暴にさえ思える口ぶりに、私も少し頭に血が上ってしまった。逆ギレであるのはわかっているけど、わかったからといって怒りを抑えられるわけじゃない。そんなことができるほど、私は大人ではなかった。


「いや、なんでそうなるの?  劇の主役なんて、私にできるわけないでしょ? そもそもさ、なんで京子は私のこと変に推してくるの⁉ あのときも私なんかじゃなくて、もっと他の人達に押し付ければよかったじゃない……!」


 強風で水面が波打って、心の奥底に沈殿していた堆積物が次々と浮上してくる。でも、もしかしするとそれは、今まさに岩壁が波で削り取られているだけなのかも知れなかった。


 京子が、ハッと息を呑む。先程までの怒りがスッと引いていくかのように、京子の顔つきがいつもどおりに戻って、それから引きつる。怒りというよりかは、驚きとか、悲しみとか、そういった感情が渦巻いているように見えた。


 それで、私の頭からもゆっくりと血液が引いていく。熱くなっていた頭が、冷えていく。


 京子は胸の辺りにそっと手を当てると、私の瞳を控えめに覗き込んできた。


「……わからないの? 柳、本当にわからないの?」


 その声に、先程までのような怒気の色は既になかった。恐る恐る問いかけてくるみたいに震えたそれは、どこか繊細で、鋭利で、ピンと張り詰めた細糸を連想させた。


 潤んだ青色の瞳に見据えられ、何故かばつの悪い心地になる。一度、固い唾を飲み下した。


「……わから、ないよ。そんなの。なんで私なのか、なんて」


 顔を見るのが気まずくて、無意識に視線が足元へと落ちる。


「そんなの……、そんなの、柳だからに決まってるじゃん……!」


 熱を帯びたその言葉に貫かれ、気づけば顔を上げていた。


 私、だから……? それ、どういうこと? 私じゃなきゃ駄目だったってこと? 他の誰でもなくて、私じゃないと? でも、なんで?


 呆気にとられ、困惑さえ感じている私とは対象的に、京子はなおも私のことを真っ直ぐに見つめながら、滔々と言葉を発し続ける。


「だって柳、優しいから。柳は、柳だけはちゃんと、わたしのことをわかってくれてるから。助けようとしてくれてるから。そういうの、ちゃんと伝わってくるんだよ……?」


 ――心臓のど真ん中を、グサリと突き刺されたような心持ちがした。


 切実に訴えかけてくる京子の言葉の一つ一つが、私の心を適格に捉え、穿ち、その中に秘められた熱や感情を、じわじわと流し込んでくるのがわかった。私は、何も言えなかった。そんなことを伝えてくる京子に対して、何を言えばいいのか、わからなかった。


「あの日……、わたしが初めて柳に助けて貰ったときだって、そう。通りかかったのが柳じゃなかったら、わたしは助けて貰ったりなんかできなかった。柳だから、柳がわたしを助けたいって思ってるのがわかったから、わたしは走って行けたの。……柳じゃなきゃ、駄目だったの」


 いつの間にか、京子は机を回って私のすぐ側までにじり寄っていた。四つん這いになりながら、クッションの上に腰掛ける私へとじりじり顔を近づけてくる。


「……京、子?」


 その芸術品じみた精緻な美貌からも、今は様々な熱や思いがどろどろと滲み出しているのがわかった。そのあまりの端麗さ、美しさに、呼吸をすることさえ忘れてしまいそうになる。


 少しずつ吐息が熱を帯びていくのがわかった。段々と視界から京子以外がぼやけていく。先程からやかましいと思っていた雨音は、自分の心臓の鼓動なのだと今になって理解した。


「……わたしね、昔から誰かに助けて貰う方法が、わからないの」


 京子が微かに顔を伏せる。黄金の髪の毛がふわりと揺れて、甘い芳香が立ち昇るのを感じた。


「いや、それだけじゃない。……何て言うのかな。わたし、小さい頃から自分の感情とか意志とか、そういうのを表現するのが、苦手だった。というか、できなかった」


 落ち着いた声色で、けれど節々に秘めた思いを滲ませながら、訥々と京子が語る。


 照明の光を受けて輝く京子の髪の毛を、瞳を、唇を、私は見つめている。肩から零れ落ちる黄金色の長髪は、風に舞う砂漠の砂を思わせた。何人たりとも足を踏み入れたことのない、清らかな砂漠の熱砂を。


 四つん這いになっていた京子が私のすぐ隣に腰を下ろして、体育座りをする。


 それは何故か、やけに稚気を感じさせるような所作だった。軽く肩が触れ合って、私の黒髪と京子の金髪が交差して、混ざり合う。


「わたしさ、子供のときから人の顔色を窺ってばかりだったんだ。周囲の人間が自分に何を求めているのか察して、その理想像に合わせた振る舞いをすることしか、できなかった」


 京子の目が、ここではない何処かへピントを合わせようとしているみたいに、細められる。


「今だって、そう。わたしはいつもいつも、他人の思い描くようなわたしの姿であろうとしてる。他人の心の中の虚像を、そのまま実像にしようとしてる、みたいな。……でもね」


 京子が足元へと向けていた顔を、横に向ける。私のことを映し出す鏡みたいな青色の両眼が、そこにはあって。そのまま、まばたきの一つもせずに見つめ合う。


「なんていうかさ。柳は特段、わたしに何も求めてないでしょ?」


 肩を竦めて、唐突に冗談めかして苦笑する京子。それで意表を突かれたような心持ちになる。


「え? まあ、それは……」


 少なくとも、他の面々みたいに明朗に振る舞うことを求めてはいない。それどころか、自分に干渉してこなければどうでもいいとまで思っている節はある。


 ……いや、正確にはあった、かな。今も、以前と同じ感覚を維持できているかと問われれば、微妙なところだった。だって京子はあの日、私に味わわせてしまっているから。今まで感じたことのないような、奇妙な、全身が内側から焼かれるような、あの熱い感覚を。


「だからわたし、柳の前なら肩肘張ってなくてもいいっていうか、無理して振る舞わなくてもいいんだって、そう思えるんだ。わたしがどれだけ取り繕おうとしたって、柳はわたしの内面の戸惑いとか、恐怖とか、そういうのを全部わかっちゃうから。助けようとしてくるから」


 その一言で、心臓をキュッと締め上げられるような心地になった。


 ……違う。違うよ。そんなことない。私は、京子のことなんか何にも気づいてあげられない。


 だって私は、京子が本当はそんなことを思ってるだなんて、わからなかった。京子がこうして打ち明けてくれるまで、考えもしなかった。そんなこと言ってもらう資格なんか、ないよ。


 私が京子のことをわからなかったのは、今まで人付き合いを避けてきたせいなのだろうか。単純に、経験値が圧倒的に不足しているせいなのだろうか。それとも、人生というのはこんなものなのだろうか。人間は、最初から他人のことがわからないように作られているのだろうか。


 どっちだっていい。過程がどうであれ、目の前にある結果は変わらない。


 悔恨と自己嫌悪に胸を刺激されつつ、壁にかけられたジグゾーパズルを見つめる。どれも大型で、完成させるには結構な手間と時間がかかりそうだった。南の島やら、峻厳な山々やら、自然の景色が描かれているやつしかない。


「ねえ。あれって、京子が作ったの?」


 京子が私の目線を辿り、「あれ」が額縁の中のパズルを差していることに気づく。


「ああ、うんそう。わたしの唯一の趣味、かな」


 地味だけどね、と言って苦笑する京子。


「……変、かな? わたしのキャラに、合わない?」


 京子が窺うような視線を私へと向けてくる。


 私は京子の清水のような瞳を一瞥してから、ゆっくりとかぶりを振った。


「ううん、そんなことない。京子っぽいって思った」


 そっか、と言って穏やかな表情を浮かべる京子。胸を撫で下ろすみたいに、少しずつ息を吐き出している。それを見て、正解だったのだと悟る。


 今、ようやくわかった。実は京子って、本質的には結構地味な奴なんだ。見た目が明るそうだから、周りからはそう振る舞うように望まれて、求められて、だから京子はそれに答えて。


 こんなにも対照的な私達なのに、根っこのところでは意外と似通った部分があるのかも知れない。それが少しおかしくて、でも、京子と一緒というのは、悪い気はしなかった。


 ……そっか。そういうこと、だったんだ。特別に感じているのは私だけで、京子は私のことなんか何とも思ってないんだって、私はずっとそう思い込んでいた。そう確信していた。


 でも、別にそんなことはなかったんだ。京子も京子で、私のことを特別だと感じてくれている。あの日、あそこにいたのが私である意味はあったんだって、今になってようやく気づく。


 胸の中に、じんわりとした安心感、充足感みたいなものがこみ上げてくるのがわかった。前に味わった全身が沸き立つような熱さとはまた違う、適温のお風呂に浸かってるときみたいな心地いい感覚に包まれる。乾いた心が少しずつ満たされていくような、潤っていくような感じ。

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