第12話 触れて、傷つけて、近づいて 1
そして、金曜日。前回の訪問と同様に、相合い傘をして腕を組みながら駅から京子宅へと向かう。否応なしにあのときの記憶が蘇ってきて、赤面しそうになった。どうにか堪えられたのは、この後に面倒事というか気まずい仕事が少なくとも二つは待ち構えているのがわかっていたからだ。良くも悪くも、気が紛れた。
まず一つ目は、京子母との対面だ。以前と同様に、二人で手を繋ぎながら家の中へと入る。京子の右手は心なしか硬くなっていて、内心の緊張と動揺が伝わってきた。大丈夫だよ、と言わんばかりに軽く力を込めると、京子の方からも握り返してきた。それが、なんとなく嬉しい。
……ところで、手汗とか出てこなければいいけれど。変なふうに思われたら嫌だし。
程なくして、京子母が玄関にやってくる。だが、出迎えた京子母は何か言いたげな、強張った表情こそ浮かべたものの、特に何も言ってこなかった。気構えていたこともあり、なんとなく拍子抜けしたような気分になる。まあ、気苦労がないのはいいことなんだけど。
部屋に案内されて、京子と差し向かいで座卓の前に腰掛けた。机上には、京子母が用意してくれた紅茶がほんのりと湯気を立てている。勿論、お茶菓子も同伴している。
「それで、両親はまだ、許嫁のこと諦めてくれてないんだよね?」
「うん。そうだと思う」
「微塵も? 考え直す素振りすらない感じ?」
もし私たちが恋人のフリをしているせいで意固地になっているのなら、アプローチを改める必要がある。そう考えての質問だったのだけど、京子はうーん、と悩ましげに唸るばかりで、一向に回答を口にはしない。というか、思い浮かばない様子だった。
「どうなんだろう。……よく、わからないから。お母さんたちの考えてること」
嘆息混じりに、京子が言う。回答を導き出すのは諦めたようだ。
「あれから、お母さんもお父さんも特に何も言って来ないから。かといって、黙認してるってわけでもなさそうだし。本当、どう思ってるんだろう」
「何も?」
意外な事実に、お茶菓子に伸びかけていた手が止まる。京子は液面に映る自分のことを覗き込むかのように、カップの上にじっと視線を落としていた。そのまま、うん、と短く答える。
どうしてだろう。あっちとしては、訊きたいことも言いたいことも腐るほどあるはずなのに。
「京子からは、何か話をしてみたりしたの? 両親に」
京子が俯けていた顔を上げる。湖面みたいな碧眼は、奥底で揺らいでいるようにも見えた。
「いや、してないけど。だって何も訊かれてないし。恋人だってことは、もう既に伝えてあるわけだし。こっちから話す必要はないかなって」
「それは、そうだけど……」
一度、紅茶を口に含んで間を作る。温かい。京子母が京子と私のために淹れてくれたお茶は、やっぱり美味しかった。
訊いてこないから、答える必要はない。理屈としては何も間違ってはいないけど、京子とその両親は家族という間柄なのだ。そういう理屈的なものだけで割り切らないのが、家族という関係性のような気がするのだけど。
もしかして京子の両親は、事情を訊かないんじゃなくて、待ってるんじゃないだろうか。京子が、自分から何か話してくれるのを。そう考えると恋人だと偽って両親を騙すのは……、なんだかとても申し訳ないことのように思えてしまう。罪悪感を、覚えてしまう。
このままでいいのかな、なんて疑念が頭をもたげる。でもこれについては、私がとやかく言うことでもないような気がした。他人の家庭環境に口出しするような真似はしたくないし。
それに、なんというか……、私が京子の恋人(偽)でなくなるのは少し嫌だな、と。おかしなことに、そんな気持ちも自分の中には微かにあって。ささくれみたいに目立たないものだけど、何かの拍子に触れるとズキリと痛む。そんな奇妙な存在感があって、無視できない。
それは多分、今の関係性がなくなってしまうと、京子にとって私は特別ではなくなってしまうからだ。私にとって京子は、まあ、その……、特別、なんだと思う。あの日以来。可愛いと言ってくれるのも、あんな胸の高鳴りを感じさせてくれるのも、京子だけだから。
でも京子にとって私は、偽りの恋人であるという肩書を外してしまえば、特別なんかじゃなくなってしまう。ただの、数いるうちのクラスメイトの一人に過ぎなくなってしまう。多分、私はそのことを恐れてる。私と京子を結びつけている恋人(偽)という関係が解消されて、繋がりが断ち切られてしまうのが、怖いんだ。
一旦、会話が途切れる。
二つ目の面倒事を切り出すのにはいいタイミングだと思うけど、どう切り出したものか。
「柳? どうかしたの?」
黙然と思案していると、京子が声を掛けてきた。いや別に、と誤魔化したけれど、何か勘づいたのだろうか。怪訝そうな面持ちで私のことをじーっと見つめてくる。
「……な、何?」
じーーっと、見つめてくる。
「……あ、あの、京子? そんなに見られると、恥ずかしい、んだけど……」
じーーーっと、見つめてくる。京子が身を前に乗り出してくる。私はそれから逃れるように、後ろに下がる。マ、マズい! これ以上近づかれたら、またあのときの感覚がリフレインする! そしたら多分私は、平静を保ってはいられない……!
が、そうなる前に京子はすっと身を後ろに引いた。上がりかけていた心拍が、平時のそれへと戻る。安堵したような落胆したような、って待て。なんでちょっとガッカリしてるんだ、私?
「なんか柳ってさ、こうして話してると意外に感情豊かだよね」
むむぅ、と悶々とした気分になっていたところに、突拍子も無いことを言われて面食らう。
「え? いきなり何?」
「いや何ていうかさ、普段は如何にも無表情系って感じの澄ました顔してるのに、いざ向き合ってみるとそんなこともないなって。キョロキョロしたり顔赤くしたり、見てて面白い」
冗談めかして言いながら、楽しげに、でも上品な仕草で笑いを溢す京子。からかわれた側の私としては、微塵も面白くなかった。顔を背けながら、ふん、と軽く鼻を鳴らす。
……それは多分、京子の前だけだよ。そんなことを白状する気には、なれなかったから。
「イメチェンしてからは益々クールな見た目してるくせに、中身は文句なしの可愛い系とか。いやー、そのギャップがたまらないなぁ」
「は、はぁ……⁉ ちょっと、急に、なに言い出すのよ……⁉」
唐突に可愛いなんて言われて、ほっぺたがみるみるうちに紅潮していくのがわかった。ああもう、京子の言う通りの反応になってるのがムカつくなぁ……!
「ほらほら、ムキにならない。そういう褒められ慣れてないところとか、可愛いよ。……やっぱりやればいいのに、白雪姫役」
魔法の言葉の影響で馬鹿になりかけていた頭が、最後の一言で急速に冷静さを取り戻していくのがわかった。風船に穴を開けたときみたいに、しゅーっ、と高揚が抜け落ちていく。
何気なく口にしただけなのだろうけど、先手を打たれたような形になって軽く動揺する。
「……ちょっと、なんでそうなるのよ」
「いやだって、柳、可愛いから」
可愛い……、そうか、可愛いか。……うへへ。っていや、違うそうじゃなくて!
「だ、だから私はいいんだって! 私がそういうの嫌いなことくらい、京子だって何となくわかるでしょ? 変なこと言うの、やめてよ……!」
えー、と不満げに下唇を尖らせる京子。……こういう仕草、似合うなこいつ。
「そ、それより、京子の方こそどうなの?」
内心で咳払いをして、私は気を取り直した。このままじゃ、京子のペースに乗せられっぱなしだ。白木の件もあるし、どうにか主導権を取り戻さなければ。
「どうって、何が?」
「だから、白雪姫役だよ。どうして断ったの?」
「え? それは、その……、だって……」
京子は面食らったように一瞬だけ瞠目して、それからそっと視線を落とした。ぷっくらとした薔薇色の唇は、拗ねたみたいに窄められている。
「やればいいのに。折角、美人なんだから。京子って、そういうの好きなんじゃないの? よく、真鍋とか日比谷とかと明るげに話してたりするし。それに……、いや、なんでもない」
皆も京子にやって貰いたいと思ってるよ、という一言は飲み込んだ。飲み込んで、体内で粉々に踏み潰した。なんだか、無責任な物言いに感じられて嫌だったから。
私と接しているときは気を使ってかそこまででもないけれど、京子は基本、明朗快活に振る舞っていることが多い。真鍋や日比谷を始めとするクラスメイトたちとも、よく楽しげに談笑しているし。授業で人前に立って発表したりするときなんかも、臆する様子は見受けられない。それどころか、むしろ活き活きとしてるようにさえ感じられる。壇上で演技するのが恥ずかしい、というタイプだとも思えないのだけど。
「……別に、そんなことないよ。そもそもわたし、そういうの向いてないし」
やけに弱々しい調子で、京子が言う。理由は謎だけど、やっぱり気乗りしないのだろう。
私としてはもう、この辺で切り上げてしまいたかった。これ以上、食い下がって気まずい思いはしたくないし。でも白木からのお願いがある手前、もう少し粘らなきゃ面目が立たない。
胃がキュッと収縮する痛みを錯覚しながらも、横隔膜を無理やり縮ませて声を押し出す。
「それこそ、そんなことないでしょ。ねえ京子、本当にやりたくないの? 私には、よくわからないんだけど。なんで京子がそんなに嫌がるのか。だって京子は――」
「っ、ああもう、しつこいなぁ……! なに⁉ わたしだから、なんだっていうの⁉」
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