第25話 お風呂クライシス 2
一度、風呂場に来てしまえば、意外と周りの視線は気にならなかった。
私は視力が良くないから、コンタクトなしじゃ目に見える景色がぼやっとしてて、相手が自分のことを見ているのかどうかさえ判然としない。それで、誰かに見られている、という意識が薄れてくれたのだろう。こんなことなら、さっさとコンタクトを外してしまえばよかった。
三人は、四つあるシャワーに手前から、真鍋、日比谷、京子の順番に座って体を洗っているところだった。空いているのが京子の隣しかなかったので、そこに座って黙々と身体を洗い始める。
もしかしたら、気を使って京子の隣を空けておいてくれたのだろうか。でも、ただ単に真鍋と日比谷が固まった結果のような気もする。どっちだろう。まあ、どっちでもいいか。
いつもより入念に身体を洗ってから、少し遅れて湯船に浸かった。
ふぅ、と。吐息とも声ともつかない音が、無意識に喉から漏れる。
お風呂は、好きだ。一日の疲れがお湯の中に溶け出していくような感覚がして、心が休まる。でも今は他の三人がいるから、家で入ってるときほどはリラックス出来なかった。身体を隠すかのように、自然と体育座りをして両脚を抱きかかえている自分がいる。
浴槽は正方形をしていて、そのうちの一辺に私と京子が、対辺に真鍋と京子が腰掛けている。視力のせいで三人とも顔はのっぺらぼうみたく見えているのだけど、髪型が違うおかげで判別できている。長いのが日比谷で、短いのが真鍋、そして金髪が京子だ。わかりやすくて助かる。
三人が話をしているけれど、私としてはなんとなく割って入るのが憚られて、手持ち無沙汰になる。暇なので、ぼーっと京子のことを眺めながら、全然見えないなー、と視力の悪さを再確認してみたりする。特に深い意味はない。
「柳? どうかした?」
京子の顔がこっちに向いた。どんな表情をしているのかはわからない。というか見えない。
「ああいや、私、目が悪いから。何にも見えないな、って思って」
「あー、そっか。柳、コンタクトだもんね。そんなに目、悪いんだ」
うん、と頷いてから、軽く顔を俯ける。……その、京子が声を掛けてくれたのがちょっとだけ嬉しくて、表情筋が緩んでるんじゃないかって気がしたから。
「そういえば本庄って、前までは眼鏡だったよね。なんで、急にコンタクトにしたの?」
「え? ……ま、まあ別に。色々と」
真鍋からの問いかけに答えつつ、右手で前髪をいじる。
「あ、もしかして、好きな人が出来たとか?」
「へっ……⁉ ち、ちが、別にそんなんじゃ……っ!」
バッと身を前に乗り出したせいで、お湯がじゃぼんと波打つ。ほっぺたの温度が上がっているのは、多分、お湯が熱いせいだけじゃない。
「ムキになるところが怪しいなぁ。ねえ誰? あたしの知ってる人?」
「だ、だから、そんなんじゃないって……! 私はその、ただ単に……」
その続きは、声にはならなかった。口元がお湯の中につかり、ごぼごぼと泡になって消える。
気づけば、助けを乞うように京子へ視線をやっていた。
だけどこのやり口、考えてみたら小さい子供が母親に助けを求めてるときみたいだよね。それに気づくと矢庭に恥ずかしくなってきて、サッと目線を外した。
「まあ、何だっていいじゃん。イメチェンだよ、イメチェン」
察してか、京子が助け舟を出してくる。
「だから、どうして急にイメチェンしたのかが気になるんじゃん。ねー、なんで?」
「ほら、真鍋。ちょっとしつこいよー? 本庄さんが困ってるんだから、止めてあげなよー」
日比谷に苦言を呈されて、真鍋が渋々引き下がる。助かった、のだろうか。
「あ、でも話変わるけどさぁ、本庄ってどのくらい視力悪いの?」
ホッとしたのも束の間。真鍋が次の話題を私に向けて振ってくる。
私としては正直、放っておいてほしいという感情のほうが大きかった。でも多分、真鍋も真鍋なりに気を使って、私に話しかけてくれているのだろう。さっきから、私が一人だけ会話に入れずにいたから。折角の好意を無下にするのも憚られるし、少し考えてから言葉を返す。
「どのくらいって、言われても。どう表現したら良いのか、わからないんだけど」
「あー、じゃあさ。これ、何本立ってるかわかる?」
「……二本」
人差し指と中指が立てられた真鍋の右手を見ながら、答える。視力が悪くてもなんとなくの輪郭はわかるから、この質問ってあんまり意味ないと思うんだけど。
でも、わざわざ指摘するのも億劫で、大人しく口をつぐんだ。
「じゃあ柳、これは?」
今度は隣に座る京子が右手を突き出してくる。今度のもわかる。
「一本でしょ? わかるよ、そのくらい」
サラリと答えると、京子が嬉しそうにぶっぶー、と言ってきた。え? 違うの?
「残念。実はこれ、中指と人差し指をくっつけてるので、正解は二本でしたー」
京子がこっちに身を乗り出して、得意げに右手を見せつけてくる。確かに、こうして近くでよく見ると、一本じゃなく二本だった。なんだ、この小癪な小細工は……。
「おー、西宮は策士だねー。真鍋とは大違いだ」
「まーね。このくらいの捻りは加えないと面白くないでしょ?」
真鍋の抗議の声を無視して、京子が笑う。それがわかるくらいには、京子の顔が近くにあった。そのことにハッとして、顔を伏せる。でもその瞬間、京子の胸が目に飛び込んで――
「うわでっか……、って、ちがっ⁉」
いや待て馬鹿か私は⁉ 確かにでかいけどなに声に出してるんだ⁉
突然の謎の発言に、全員の視線が私に向いた。水の中から右手をバッと上げて、顔の前でブンブン振る。ま、マズいマズいマズい! なんでもいいから早く誤魔化さなくちゃ……!
「えっと、その……! デカメロンって誰の作品だったっけ……⁉」
この間、僅か一秒。ここ最近で最も頭の冴えた瞬間だと思う。ひとまず、誤魔化せたことに安堵する。誤魔化せた……、よね? 誤魔化せた、ということにしておこう。うん。
「ボッカチオだけど? ……って、柳? なんか、顔赤くない? もしかしてのぼせた?」
京子が怪訝そうな面持ちで小首を傾げる。私はギクリとして、顔を逸らす。
「あー、う、うん。もしかしたら、そうかも。ごめん、私、先に上がってるから……!」
ざばっと素早く立ち上がり、風呂から上がる。
すごく不自然な行動な気もするけれど、これ以上の醜態を晒す前にお暇した方がまだマシだろう。三人の胡乱げな視線を背中で感じつつ、逃げるように浴場を後にする。
脱衣所で体を拭きながら、思わず呟いた。
「……あーあ、すっごい疲れた」
疲れを癒やすためのお風呂で更に疲れてどうするっていうんだ、私は。
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