第8話 罪の味
放課後、いつもより少々機嫌のいい私が早々に身支度を整えて、鞄を肩にかけようとしたところ、妙なことに気がついた。いつもなら帰りの挨拶が済み次第、蜘蛛の子を散らすように各々の目的地へと足を運ぶ同級生たちが、皆、大人しく自分の席に腰掛けたままでいる。
どうしたのだろう、と怪訝に思って周囲をキョロキョロ見回していると、真鍋と日比谷の二人が教壇の上に立った。日比谷がチョークを手にとって、カツカツと何やら文字を書いていく。
現れたのは、「文化祭話し合い」の七文字。
……あれ。そんな予定あったんだ。自慢じゃないが、私はホームルームとかの連絡事項を結構適当に聞き流しているタイプだ。この手の情報を聞き逃していることが、ままある。
うわ面倒くさいなー、と反射的に内心で悪態をつく。しかし、ここで何食わぬ顔して教室から出ていけるような度胸はない。私は浮かびかけていた腰を渋々、椅子の上へと戻した。
頬杖を付きながら話を耳に挟んでいると、うちのクラスの出し物は劇で、白雪姫をやることになっていることがわかった。私がすっぽかした前回の話し合いで決まったらしい。ちなみに、すっぽかしていたこと自体、今知った。我が事ながら、流石に酷いと感じた。若干、反省する。
「というわけで、取り敢えず脚本をやってくれる人を募集したいんだけど、誰かいない?」
真鍋がキョロキョロと壇上から視線を走らせる。
しばらくの静寂の後、ひっそりと控えめに手を上げる人物が、一人。
「――あ、あの……、他に人いないなら、私がやってもいいかな、と思ってるんだけど……」
その子の方を見て、私は軽く目を瞠った。
あの子は確か……、えっと……、いや、名前は忘れた。でもとにかく、クラスの中でも名前を忘れ去られてしまうような地味な女子生徒だ。小柄で童顔、私服なら子供料金で電車乗れそうなタイプ。髪型は二つ結びのおさげで、赤色の眼鏡を着用している。
率直に言って、意外だった。名前はともかく存在くらいは前々から認知していたけれど、こういうときに積極的に手を挙げる性格だとは思っていなかったから。
それはクラスの他の面々も同じだったらしく、真鍋も少々面食らった顔つきになっている。
脚本、という文字の下に日比谷が白木の二文字を書いた。多分、あの子の名前だろう。言われてみれば、聞き覚えがあるようなないような。
「えーっと、白木の他に脚本やりたい人、いる?」
手を挙げる者は一人もいなかった。まあ、そうだろう。脚本なんて、役者みたいに華があるわけでもなければ、内装外装みたいに手を抜けるわけでもないし。脚本は白木で決まりだった。
さと、となると次は早速、役者を募集する流れになるわけだけど――
「……あのー、本当に誰もいないの?」
困ったような顔つきで、ゆっくりと慎重に、一つ一つの席を目視で確認していく真鍋。しかし、そんなことしても挙がってないものは挙がっていない。どうやら、役者を希望する人は一人もいないようだった。いや、ちょっと待て。どういうことだそれ。だって、自分たちで演劇を選んだんでしょ? それなのにこの有様って……。
無責任だなぁ、なんて反感が頭をもたげる。けど、そもそも話し合いに参加していない以上、それも筋違いな気がするので黙っている。いや、仮に参加してても黙ってただろうけど。
「うーん、これはー……、どうしようか?」
「ま、まあ、取り敢えずあたしと日比谷で何か役やるしかなくない? 半分、あたしが実行委員権限でゴリ押したようなものだし……」
おい、お前が戦犯か。ギロリと睨みつけてしまいそうになる。
「そうだねー。でも、二人だけで白雪姫やるのは、ちょっと辛いなぁ」
二人して顔を見合わせて、むむむ、と頭を悩ませる真鍋と日比谷。
しかし、助け舟となってくれるような殊勝な人間は一向に現れない。世知辛い世の中だ。
「あ、そうだ」
ぽん、と真鍋が手を打つ。如何にも名案を思いついた、といったふうだ。
「西宮、よければ白雪姫役やらない? 金髪だし」
なんだその安直な発想は。思わず前につんのめりそうになる。京子を見てお姫様を連想するのは、わからなくもないけれど。だが今の発言で、クラス中がおお、と沸き立った。どうやら皆、真鍋の発言を妙案だと捉えているらしい。
「え、えぇ? わたし? でも、わたしなんか柄じゃないし……」
けど、当の京子はあまり乗り気じゃない。謙遜しているのか、本当に気乗りがしないのか。
多分、後者だろう。京子はクラス中の視線を受けながら、困ったような目つきでキョロキョロと周囲を見渡している。あの反応には、見覚えがあったから。
「いやいや、そんなことないって! 京子以上の適任もそういないと思うんだけど、どう?」
真鍋が更に追い打ちをかけてくる。それに、少しムッとした。
……ちょっと、止めてあげなよ。そんなこと言われると、京子が断れなくなるじゃん。
他の面子も、なにそうだそうだって言わんばかりに神妙に頷いてるんだ。あんた達、ただ京子に面倒事を押し付けたいだけなんじゃないの? そういうのって、卑怯だと思う。
なんとなく不愉快な気分になって、眉間に皺が寄っていくのがわかった。
おろおろしている京子の方へ、他のクラスメイトとは異なる感情の籠もった視線を向ける。
すると、京子と目が合った。自意識過剰なんかじゃない。京子は明らかに、私のことを見つめてきている。真っ直ぐこちらに向けられた青色の瞳は波打ち、揺れていた。まるで、清らかな湖面に小石を投げ入れたときのよう。それを見て察する。京子は多分、私に助けを求めてる。
だけど私は、目を逸らした。顔を素早く正面に戻して俯けて、机の板の木目を凝視した。
……あれ? 何やってるの、私?
しばし、自分が半ば無意識にしでかした行為の意味がわからずに、愕然とした。
京子は、私に助けを求めてた。京子母と対峙したときみたいに、無言のままSOSを発してた。他の誰でもない、私に向けて。助けてって、恐る恐る手を伸ばしてた。
それなのに私は、目を逸らした。京子のことを黙殺した。私はなにも知りませーん、無関係でーす、だからこっちなんか見ないで下さーい、と言わんばかりに。
それは多分、面倒だから。疲れるから。怠いから。変にしゃしゃり出て目立つのが嫌だから。
……うっわ、なにそれ。言葉にしてはっきりとわかった。最低だ。私ってば、最低だ。
でも、私は最初からそういう人間なんだ。私のポリシーは、こういう面倒事を極力避けて楽な毎日を過ごすこと。余計なことに首を突っ込まないこと。だから、ああするのは当たり前だったんだ。そもそも私は京子から直接、助けてって言われたわけじゃない。ただ偶然目が合って、なんとなく顔を伏せただけ。そうだ。私は何も悪くない。こんなことで失望されても困る。
そんな言い訳じみた文言を、自分自身に言い聞かせるみたいに何度も何度も反芻する。
でもそんなものは所詮、子供じみた正当化に過ぎないのであって。
結局の所、私には勇気がなかった。
京子が助けを求めて伸ばしてきたあの手を、この場で掴み取るだけの勇気が。
……ごめん、京子。私、酷いことした。
組んだ両手に額を押し付けて俯きながら、ごめん、と誰にも聞こえないくらいの声で小さく呟く。京子の為ではなく、ただの自己満足の為だけに。
最初から気づかないのと、気づいているのに無視するの。どっちがより酷いかなんて、決まってる。最低なのは、私の方だ。
もう金輪際、京子と顔を合わせたくない。合わせられない。こんなことしておいて、どんな顔すればいいのかわからない。京子は今、何を感じただろうか。私のこと、どんなふうに思っているのだろうか。さっきからそればかりが気になって、でも確認するのも怖くて、何の面白みもない机の模様を見つめ続けるばかりで、一度伏せた顔を上げることなんかできなくて。
……でもそのうち、逃避行であるそれにさえ耐えられなくなってきて。
逃げ場のなくなった私はようやく、恐る恐る京子の顔色を窺った。
再び、目が合った。まるで示し合わせたかのように、私の視線と京子の視線が重なり合った。
今度は、逃げなかった。京子から顔を背けなかった。
逃げちゃ駄目だ、って思った。何かしなきゃ、って思った。
だって、私は昔からそういう人間なんだ。誰かに助けてって言われたとき、断ることができない。それが私なんだ。こんなときくらい、素直にその性情に乗っかるのも悪くない。
だけど……、助けるって言ってもどうやって? 何か言いたいと思っても、適切な言葉が出てこない。あれこれ思案しているうちに、膨らんだ勇気が段々としぼんでいくのを感じていた。
ああもう、なんて中途半端なんだ私は……! 格好悪いったらありゃしない……!
だがそのとき、京子がガタリと席を立った。教室中の全員が笛を吹かれたサーカスの動物みたいに静止して、京子のことをじっと眺める。
シン、と場に静寂が落ちる。京子の視線の向く先にいるのは、私だ。
その京子が躊躇いがちに、艷やかな唇をゆっくりと縦に開いて、言った。
「……わ、わたしよりも、柳の方が適任なんじゃないかなー、……なんて」
再び、教室中が死んだように静まり返る。パラパラパラ、と時計の針みたいに鳴り響く雨音がなかったら、時が凍りついたものと錯覚していたことだろう。
「……は、はぁ⁉」
沈黙を破ったのは、私だった。ドン、と机上に両手をつきながら勢いよく立ち上がる。
「京子ってば、急になに言ってるの……⁉ 助けるっていったって、流石にそれは――」
そこまで言ったところで、我に返った。言葉を切ったというより、繋がっていた糸がぶつりと切れたみたいに、喉元に言葉がつかえて外に出てこれなくなった。
京子しか視界に捉えていなかった私の瞳が、他の同級生たちの姿を映し始める。京子だけにピントを合わせていた映像に、段々と背景が浮かび上がっていくかのよう。
皆が、私を見ていた。唐突に立ち上がって大声を出した私のことをじっと、訝るような、奇異なものを見るみたいな目つきで。新種の蛙か何かを観察でもするみたいに、じろじろと。
吐き出しかけた台詞が食堂を逆流して、そのまま肺へと、心臓の奥底へと消えていく感覚があった。震えを失った吐息だけが、足元へぼたぼたとこぼれ落ちていくのがわかった。
私は素早く椅子の上に座り直した。そのまま、再度俯く。
しばらくして、京子も席に付く音が聞こえた。それでも、教室は静まり返ったままだった。
皆がどんな顔で何を見ているかなんて、確認したくもなかった。
結局、劇の役決めは保留となった。
解散となるや否や、私は無意識に隣の窓を開けていた。ジメジメした、もわっとした大気が頬を掠めていく。ちっとも心地よくなんかなくて、すぐに窓を閉めた。
京子は私に何か話しかけるでもなく、黙って教室を後にした。まあ、当然か。どちらが悪いわけでもないけど、気まずいのは気まずいし。
……本当、なに大声出してるんだろ、私。絶対、変なふうに思われたじゃん。
暗澹たる気分になって、肺底で淀んでいる二酸化炭素を強引に吐き出した。
もう、明日から学校行きたくない。いやまあ、私は常に学校なんか行きたくないって思ってるんだけど、今までの学校行きたくないと今の学校行きたくないは趣を異にしているというか。
今までのがどちらかというと受け身な、消極的学校行きたくないだとすると、今のは積極的学校行きたくないだ。教室内の空気そのものが私のことを蝕んでくるように思えて、足を踏み入れるのがとんでもなく憂鬱だった。
そんな沈み込んだ気分のまま、緩慢な動作で帰り支度を整える。
「……あ、あのっ」
突然、話しかけられる。控えめで小さな、でも勇気を無理に振り絞ったみたいな妙な勢いのある声。ビクリとしながら顔を上げる。
「いきなり、ごめん。その……、できればでいいんだけど、この後とか、ちょっと時間あったりする、かな……?」
怯えた小動物みたいな目つきで、私のことを上目遣いに窺ってくるその少女。
余りにも意外な人物からの声掛けに、私は暗く沈みがちだったことさえ忘れて戸惑いを覚えた。なんでこいつが私なんかに声を掛けてきたんだろう。今まで、話したことなかったと思うんだけど。困惑しつつも、別にいいけど、と肯定の意を示す。
「でも、私に何の用? ……白木」
初めて口にする彼女の名前は、なんだか口に馴染みのない感覚がした。
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