第6話 お家訪問 4

 似合う? 何の話だろう。キョトンとしている私の手を取って、京子が部屋の隅にある引き戸の前に移動した。物置かなにかだろうか……、と思っていた私が馬鹿だった。


「うわ、……相変わらずでかい」


 ガラガラ、と京子が引き戸を開けると、中は巨大なウォークインクローゼットになっていた。広さは、私の自室と大差ない。いや、こっちのほうがでかいな。確実に。


 ちょっとしたブティックみたいになってるクローゼットの中を、京子がつかつかと歩いていく。私もそれについていく。ハンガーでポールから吊るされている洋服は、どれもこれも明らかに高そうだった。生地を見ただけで、質が良いのが一発で理解できる。


「はいこれ」


 そのうちの一着を京子が手に取って、何故か私に突きつけてくる。


「……え? なに?」


 眼前に掲げられたそれは、白色の華美なパーティドレスだった。至るところに緻密な刺繍が施されていて、ふんわりとシルエットが膨らんだ、段になっているスカート部が可愛らしい。


「だから、はい」


 いや、はいって何がだよ。説明になってないぞ。


 やけに機嫌良さげにニコニコしているのが、ちょっと不気味だった。


「あの、どういうこと? ……まさか、私に着ろって言ってるわけじゃないよね?」


「うん、そうだけど?」


 ……は? しばらくの間、馬鹿みたいに口を半開きにして固まってしまった。


「いやいやいや、無理だって……⁉ こんなの、私に似合わないよ……!」


 フリーズから立ち直るや否や、顔の前で右手をブンブン振った。急になに言ってるの、こいつ……⁉ こんな可愛い服、私が着られるわけないじゃん……!


「えー、そんなことないって。大丈夫だよ、柳、可愛いし」


「な、なわけないでしょ……⁉ そもそも、突然なに⁉ 京子の服なんだから京子が着ればいいじゃない……! なんで、私が……」


「わたしは無理だよ。貰い物なんだけど、サイズちょっと小さいくて。……特に、胸周りとか」


 ……ん? 嫌味か? 今の完全に嫌味だよな、おい?


 漫画のキャラクターみたいにあわあわしていた表情が、一瞬で引きつるのがわかった。


「あ⁉ いや、別に変な意味じゃなくてね⁉ 単純に、このまま寝かせておくのも勿体ないし、柳なら似合うだろうから着てもらおうかなって思ったんだけど……、駄目、かな?」


 京子が急にしおらしい顔つきになって、私のことをじっと見つめてくる。日光を反射する清い湖みたいな、澄んだ双眸。


 ……ちょっと、どうしてそんなに残念そうな顔してるのよ、京子。


「わ、わかった。わかったよ、着ればいいんでしょ」


 ヤケクソだった。私ってば、相変わらず押しに弱い。


 はぁ、と大きく嘆息しながら京子の手からドレスを受け取る。京子がぱあっと表情を輝かせながら、本当? と嬉しそうに言ってくる。……まったく、強引な奴め。


 京子をクローゼットの中から追い出して一人きりになったところで、改めてそのドレスと向き合う。


 私、本当にこれ着るの? でも、もう言っちゃった後だしなぁ……。


 無意識に重いため息が漏れる。恨むぞ、一分くらい前の私。


 人の家で着替えるという非日常的な行為に落ち着かない思いがしつつも、渋々、パーティドレスに袖を通す。取り敢えず、サイズは合っていた。袖とかウエストとかが詰まり気味だったけど、私が着るぶんには丁度いいくらいの細さだ。癪なことに、胸もぴったりだった。でもこれ、肩とか背中とか見え過ぎじゃない? なんか、すっごいスースーするんだけど……。


「柳ー、そろそろ着替え終わったー?」


「え? お、終わったは終わったけど、まだ心の――」


 準備が、と言い終わる前に扉が開いた。薄暗いクローゼット内に照明の光が差し込んで、スポットライトに照らされたみたいな気分になる。反射的に両腕で身を抱きかかえた。


「おぉー」


 京子の声が聞こえてくる。そのおぉー、はどっちの意味のおぉー、なのだろう。わからなくって、京子の顔が見られない。身を固くしながら、顔を伏せる。


 京子が私の肩に両手を乗せてきた。肩の出るデザインになっているせいで、肌と肌とが直接触れ合う。普段、服に隠れている部位で感じる京子の皮膚の感触に、全身がビクってなる。


 恐る恐る、教師の顔を窺う小学生みたいな仕草で京子の表情をそっと見やった。


「柳、やっぱり可愛いじゃん」


 そこにあるのは、飾り気のない素直な笑みを浮かべた、金髪少女の淡麗な美顔。想像以上に近くって、声に混じった京子の呼気が頬をくすぐってくるような気がした。


 きっとお世辞……、だよね? うんそうだ。そうに決まってる。確信すると同時に、ホッとしたようなガッカリしたような複雑な心持ちになる。


 だがそのとき、京子が唐突に足元にしゃがみこんできた。「ちょ、なに急に⁉」と呆気にとられつつもバッとスカートを抑えて、素早く後ずさる。


 ……パンツ、見られてないよね? それだけが心配だった。


「いや、やっぱり柳の脚、凄く細くて綺麗だなって思って」


 京子が立ち上がり、一歩、間隙を詰めてくる。私も一歩下がる。


「このドレス着てると、体つきも際立って見えるね。お腹のラインとかモデルみたい」


 京子が更に一歩、前へにじり寄ってくる。私も後ろに下がって、壁際に追い詰められた。


「腕も細いし、肩周りだって綺麗。首元もすっごいシャープだし――」


 京子の顔が、今までで一番近くにあった。ドキリとして、粘っこい唾をゴクリと飲んだ。


 ……頬で、京子の温かい吐息を感じる。京子の瞳、京子の睫毛、京子の唇、京子のほっぺた、京子の首筋、京子の眉毛、京子の耳たぶ、京子の髪の毛。脳みそが京子だけで溢れかえって、他に何も考えられなくなる。見えなくなる。京子はなにもかもが呼吸を忘れそうになるくらい綺麗で、眩しくて、でもなぜか、釘付けになったみたいに視線を逸らすことはできなくて。


 京子の白い指先が、私の顎に優しく触れる。


 カアッて、ほっぺたが一瞬で朱色に染まるのがわかった。心臓がドクンドクンと馬鹿みたいに強く脈打って、このまま血管が破れてしまうんじゃないかって思った。その血流に乗って、胸の奥底から熱い液体みたいなものが全身にぶわって充満していくのを感じた。


 ……何? この感覚?


 わからない。こんな気持ち、今まで感じたこともない。熱が出たみたいに全身が火照って、走った後みたいに息苦しくって、でも、金縛りにでもあったみたいに身体は動こうとはしなくって。そのまま、もう少しそのまま、と。本能が、肉体に強く命令しているのがわかった。


「――柳、可愛い」


 可愛い。その一言で、一際強く心臓が高鳴った。


 もっと……、もっと言って欲しい。もっと、私を褒めて欲しい。私に可愛いって言って欲しい。私を愛でて欲しい。私に触れて欲しい。私に近づいて欲しい。あれ、何考えてるんだ私。わからない。でも京子に可愛いって言って欲しい。可愛いってもう一回、いやもう十回いやもう何度でも永年に死ぬまで耳元で囁かれ続けていたい。


「きょ、京子……?」


 甘く、蕩けるような声だった。自分の声帯からこんなメープルシロップみたいに甘ったるくてとろっとした音が出るなんて知らなくて、声と一緒に脳みその中身までどろどろに溶けていってしまう錯覚をして、でもそれは決して悪い感覚ではなくって――


「――あ、ごめん! なんかちょっと、近づきすぎちゃったよね……!」


 パッと京子が身を引いて、私から離れていった。


 それで、さっきまでの熱が身体からゆっくりと引いていく。暴れまわっていた心臓が段々と落ち着きを取り戻し、呼吸の感覚も平時のそれに近づいていく。


 要するに、少しずつ冷静になってきた。


 ……待て。なんか私、今、やけに盛り上がってなかったか? というか、思い出しただけで恥ずかしくなるような思考に引っ張られていたような気が……。


 急速に凄まじい羞恥心に襲われた。頬が改めて赤色に染まるのがわかって、京子を強引にクローゼットの外へと追いやって素早く制服に着替えた。


 ほ、本当に何考えてたの、私……。ちょっとでも気を抜くと、床に倒れ込んで悶絶しながらバタバタと転げ回ってしまいそうだった。


 忘れよう。さっきのことは、永久に頭の奥底に封印しよう。あれは気の迷いというか、ちょっとした事故みたいなものだったんだ。……まあ、悪い気分じゃなかったのは、確かだけど。


 なんだかそれ以上、京子と二人きりになるのがいたたまれなくなって、私は逃げるように京子の家を後にした。でも京子が駅まで送っていくと言い出したので、一人きりにはなれなかった。私は固く俯いたまま歩いていて、でも京子の方は何ともなかったみたいに平然としていて、それに救われたような気持ちになって、でも何故かちょっとモヤッとした気分にもなって。


 そんな、なんとも落ち着かない心持ちのまま、足早に駅を目指す。梅雨時のひんやりとした外気も、身体の奥底に籠もった奇妙な熱を拭い取ってはくれなかった。


 そうして一言も会話がないまま、駅まで辿り着いた。


「――それじゃあね、本庄さん」


 何気ない別れの挨拶。でも最後の部分だけがやけに重たい、鋭い響きを伴って、私の心臓をグサッて貫いてきたように感じた。


 本庄さん。柳じゃなくて、本庄さん。まあ、当たり前か。私は所詮、京子……、いや、西宮の恋人でも友達でもないんだから。用がなくなれば、よそよそしい呼び方に逆戻りだ。


 私にとって今日の訪問は、なんていうか……、自分の中で何らかの特別な意味を持っているように思えた。自分の中の、今まで感じたことのない部分を西宮が引っ張り出してくれたみたいで。でも西宮にとっては、こんなのは特別でもなんでもないんだ。


 明るく友達の多い西宮には、誰かを部屋に上げたり可愛いと言い合ったりすることは日常茶飯事で、決して特別なことなんかじゃないのだろう。私と違って。


 というかそもそも、始まりからして私は特別なんかじゃない。あのとき、私はたまたま西宮の近くを通りかかったから恋人役を演じることになったわけだけど、西宮からしてみればその役は私じゃなくてもよかったわけで。見知った女子生徒なら、真鍋だろうが日比谷だろうが、私が名前すら覚えてないような奴だろうが、誰でも問題なかったわけで。


「本庄さん? どうかしたの?」


 突然、西宮が私の顔を覗き込んできた。不意打ちで接近されたことで、思わず焦る。


「京子……っ⁉ い、いや何でもなくて……⁉ って、ちがっ! 京子じゃなくて……、西宮」


 動揺のせいで反射的に名前を呼んでしまった。ああもう、何やってるんだ私……!


 だが取り乱す私とは対象的に、西宮はあくまで平静だった。そのまま、クスリと笑って。


「別にいいよ、わざわざ言い直さなくたって。どうせなら、名前呼びで統一しちゃおっか」


「……え? いいの?」


 うん、と京子が軽い仕草で首肯する。そっちの方がわかりやすいし、と。


「でも、柳さぁ。私、思うんだけど、もうちょっと髪とかサッパリさせたら? 今のだと前髪長すぎじゃない? 全体的に量も多いし」


 京子が何食わぬ顔で私の髪の毛を軽くつまんでくる。奇妙な高揚感を覚えつつも、「そ、そう、かな?」とだけ返す。何故か、京子の顔を直視することが出来なかった。


「うん。今のままだと、髪の毛で顔隠れちゃってるもん。折角、可愛いのに」


 ……可愛い。可愛い、か。何故か緩みそうになる頬を、表情筋に力を入れて必死で押さえる。


「というか、眼鏡もコンタクトにすれば? まあ、わたしが決めることじゃないけど」


 言って、京子が苦笑する。コンタクト、か。今までは、眼鏡があるのにわざわざそんなもの作る必要はないと思って、考えたこともなかったけれど。


「……京子は、そっちの方が可愛いと思う?」


 京子の意見は、参考までに訊いてみたかった。別に他意はないけれど、参考までに。


「うん。きっと、可愛いんじゃないかな」


 言い淀むこともなく、サラリと言ってのける京子。多分、お世辞を言っているわけではないと思う。というか、そう思いたい。


 しかし、なるほど。髪の毛にコンタクト、か。……まあ、折角だし覚えておこう。うん。

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