第5話 お家訪問 3
京子の部屋は三階だった。南に面した日当たりのいい部屋で、広さはうちのリビングと同じ、いや、多分こっちの方が広いな。敷き詰められた白色の絨毯には、埃一つ見当たらない。
「とりあえず、ここ座って」
中央にある座卓の前に京子がクッションを持ってくる。大人しくその上に腰掛けると、ようやく人心地つくことができた。京子も私の向かいに座って、お互いにはぁー、と深いため息を吐く。今ので地球の平均温度が一度は上がったんじゃないかって気がした。
「……なんか、どっと疲れた」
「わたしも。あのまま胃潰瘍でも起こして死んじゃうんじゃないかって思ったよ……」
お互いに今日の行動ポイントを使い果たして、机の上にぐでーっと伸びる。そのまましばらくボーッとしていたら、コンコンと軽く扉を叩く音がした。二人して猫みたいに跳ね起きる。
「お茶、持ってきたから。……扉の前に置いておくわね」
それだけ言うと、京子母は部屋の中には入らずに階下へと戻っていった。さっきの手前、気を使ってくれたらしい。得体の知れない娘の恋人相手にもお茶を出してくれるなんて、やっぱりお金持ちなんだなぁ、なんて感慨を染み染みと覚える。礼儀正しいというか、上品というか。
京子が、お盆に乗った紅茶とクッキーを机の上まで持ってきた。カップとかお皿とかが見るからに高そうで、おおー、と感心する。けど次の瞬間、壊したらヤバいな、と軽くビビった。
一言お礼を言ってから、湯気の立ち昇る紅茶をゆっくりと口元に運んでいく。
「……あ、美味しい」
一瞬にして、芳醇な香りが鼻腔いっぱいに広がる。口当たりがまろやかで、味も整っている。専門家じゃないのでちゃんとした形容はできないけれど、純粋に美味しかった。
「ならよかった。まあ、わたしが淹れたわけじゃないけど。クッキーも好きに食べて」
勧められるがままに、今度はクッキーに手を伸ばす。チョコや抹茶で味付けしてるわけではない、シンプルなプレーンだ。口に入れた瞬間に濃厚なバターの風味が伝わってきて、軽く目を瞠った。甘さも丁度いいし、上品な味がする。なんだか、いくらでも食べられそうだった。
「こっちも美味しい……。京子、いつもこんなの食べてるの?」
「いやいや、そんなわけないじゃん。これは来客用のいいやつだから。普段は、普通にスーパーとかで売ってるやつだよ。こんなの毎日食べてたら、絶対太るじゃん」
「ああ、それは言えてるかも」
なんて会話をしながらも、両者ともにお茶菓子へ伸びる手は止まらない。これは、今日の夕食は控えめにしたほうが良さそうだ。
「でも、柳はそこまで気にする必要もないんじゃないの? 見た感じ、だいぶ痩せてない?」
「平均より痩せてるのは否定しないけど、私、調子抜くとすぐ太るからさ。気をつけないと」
「そう? わたしは、柳ならもう少し太くても大丈夫だと思うけど?」
「私、脂肪ついてるのって嫌いだから。見た目がどうこうじゃなくて、贅肉なんて無駄の権化みたいなものが身体にまとわりついてるのが気に入らなくて」
へー、と京子が興味深そうな面持ちで小さく頷く。
同時に気づく。なんか私、さっきからやけにリラックスして話してない? こんなの、いつぶりだろう。中学に入ってからは殆ど誰とも話さなくなったし、小学校以来か。
誰かと喋るのなんて、いつもは気疲れするだけで億劫なんだけど、このときだけは自然と気負わずに話ができていた。多分、京子母とのやり取りがスイッチとなって、コミュニケーションのアドレナリンみたいなものが放出されたのだと思う。
二人であっという間にクッキーを食べ終えて、さて、と私は改めて京子の方を見た。だけど会話は、いつの間にか途切れてしまっていた。
一応、部屋に遊びに来たって体なわけだし、何か話した方がいいのかな。でも話すって何を? さっきまではアドレナリンのおかげで普通に会話できていたけど、その効果ももう切れてきた。
んー……、と内心で唸りながら、視線は次第に手元へと落ちていく。しかし、徒に沈黙が流れるだけで、気の利いた話のネタなんて何も思い浮かばなかった。
……やっぱり、いきなり部屋に上がるのはキツイって。こんなふうに突然の沈黙が訪れたときに、逃げ場がないのが辛い。指先を無意味にいじりながら必死で思案してみるけれど、ただただ居心地の悪さが増していくばかりだった。
「ねえ、柳」
「は、はい……⁉」
唐突に声を掛けられたせいで、大仰に驚いてしまった。ビクッと背筋を伸ばして、前を向く。
「別にいいよ、そんなに気張らなくても。さっきからずっと、気まずいなー、何か話さないとなー、って考えてるでしょ?」
妙に落ち着いた、子供をあやすときみたいな声色だった。清水みたいに澄んだ瞳に射抜かれて、ギクリとなる。頭の中を覗かれた気分で、何だか落ち着かない。
「……わかる?」
「わかるよ。だってさっきから、困ったような顔でじーっと俯いてるんだもん。なんか、人見知りしてる幼稚園児みたいだったな」
口元に手を当てながら、クスクスと上品に笑う京子。
「大丈夫だよ。そんなに不安にならないでも。話すことがないなら、無理に喋らなくていいから。まあ、しばらくゆっくりしていってよ。私は勉強でもしてるからさ。柳も自由にしてて」
「あ、うん……」
それだけ言うと、京子は本当に勉強机の方まで歩いていって、鞄から参考書やらノートやらをゴソゴソとやり始めた。どうやら、本当に勉強を始めるらしい。
もしかして、気を使ってくれたのかな。私は基本、人と話すのが得意ではないから。でも正直、ありがたかった。同じ空間に他人がいても、こっちを向いているのといないのとでは全然違う。見られているという意識がないだけで、張り詰めた精神がある程度、弛緩してくれる。
少し肩の力が抜けたところで、改めて京子の部屋を見回してみる。広さの割に物は多くなかった。家具類は、ベッドと机と本棚とテレビくらい。散らかっているわけでもなくて、こざっぱりしているというか、むしろ殺風景に思えるくらいだった。
壁面にいくつか飾られたジグゾーパズルだけが、申し訳程度に部屋に彩りを添えていた。もしかして自分で作ったのだろうか。だとしたら案外、地味な趣味だ。ああいう、一人で黙々と細かい作業を進めるようなものは、どちらかというと私みたいな人間の領分な気がするけれど。
室内に、京子がカリカリとシャーペンを走らせる音が響く。耳を済ませると、雨が窓枠を打ち付ける音も小気味よく聞こえてきた。
雨の音というのは、意外と落ち着く。それは多分、いつどこで聞いても、似たような音色で鳴り響いてくれるからだろう。家の中でも、他人の部屋でも、ブラジルでも南極大陸でも、雨の音だけは共通だ。だから、落ち着く。自分の中にある、自分がよく知っている音だから。
……あれ、でも南極で雨って降るのかな? 降らない? まあいいや、どっちでも。
私は京子みたいな殊勝な人間ではないので、テスト期間を除いて勉強道具の類を持ち運ぶことはない。よって、この状況でできることは自然と限られる。スマホをいじるか、本を読むか。
数秒思案した後、読みかけの本を開くことにした。昨日、本屋で買ってきた文庫本だ。
実を言うと私は特段、本が好きというわけではない。じゃあどうして読んでいるのかと言うと、これは武装なのだ。本は私の身を守る盾でもあり、外敵を退ける剣でもあった。
人という生物には、読書に没頭してる人間の周りには群がらない、という習性がある。私はそれを利用しているのだ。これ見よがしに自分の席で本を広げて、お前ら、私は本読んでるんだから話しかけるんじゃねーぞ、と。常日頃から、そんなオーラを意図的に撒き散らしている。煩わしい他人を遠ざけて、一人になるために。
栞を挟んでいたページを開いて、だらだらと活字を目で追っていく。
そうしているうちに段々と話に没入していって、気づいたときには読み終えてしまっていた。
んー、と軽く伸びをしてから机の上にぐでーっとして、なんとはなしに京子の方を見やる。
まだ勉強してる。真面目だな。私なんか、何かに追い立てられないと机に向かう気力なんて湧かないのに。……それにしても京子の髪の毛は、やっぱり綺麗だ。照明の光を受けて、絹糸みたいに鈍く輝いてる。サラサラで艶もあるし、私の地味な黒髪とは大違いだ。
そのとき、唐突に京子がこっちを振り向いた。驚いて、私はサッと顔を背ける。
……バ、バレた? ジロジロ見てたのバレた? いや別にやましいことがあるわけじゃないし、バレても問題はないわけだけど、でもなんかちょっと恥ずかしいというか、勿論、変なこと考えてたわけじゃないんだけど、だからって勘違いされて気持ち悪がられたらやだし――
「あ、ごめん。もしかして、退屈してた?」
が、京子は私が暇していたものと考えたらしく、少し申し訳無さそうな表情でそんなことを言ってきた。取り敢えず、そういうことにしておいた。
「うーん、でもなぁ……、暇を潰そうにもわたしの部屋って特に遊ぶものとかないし……」
椅子をくるくると小刻みに回転させながら、京子が細い指を鋭利な顎先にそっと当てる。
「あ、そうだ」
何か思いついたと言わんばかりに、京子がスッと椅子から降りた。
「どうせなら、こういうのもいいかも。柳なら似合いそうだし」
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